5話

部屋の扉を完全に閉め切って後悔した。

会話することで紛れていたらしい不安、恐怖がダムを破って流れ込んできた。


鞄が右手から離れドサと音を出す。よろよろと進みベッドへと横たわった。

制服....脱がなきゃシワになるな。

そんなどうでもいいことが浮かんでは消えていく。正直1人になりたくなかった。

整理する時間をとトアが気を使ってくれたのは分かる。もちろん必要な時間だ。だけど今日見た全てがツギハギのまま、鮮明なまま頭の中を巡っている。

そんなに見せなくたって忘れないのに。


体はこんなにも疲れているのに、全く眠れそうにない。確実に悪夢を見るだろう。ならばせめて意識のあるうちにみておきたい。

いや、みたくない。思考を振り払うように体を起こし、落としたカバンを引き寄せた。今ある全ての私物。財布、スマホ、筆箱、家の鍵、これ何?カバンの隅から未開封のガチャカプセルが出てきた。いつのものかも分からないそれを捻る。鞄の中をさまよい外れかけたテープごとカプセルを開けた。

中には「物欲退散」とかかれたプレートをセンターにしたネックレス。

もちろん全く記憶に無い。

適当にポケットへと突っ込み、息を吐きながら再び仰向けに倒れ込んだ。

空っぽの思考にトアの言葉を思い出す。

荷物....どの程度の。

もちろん話の流れを考えれば、二三日の宿泊分という訳では無いのだろう。かと言って、これから何年もここで生活するというのも考えにくい。

何年も。そう、そんなことは普通ありえない。トアはあたしたちがここで過ごすことになんの障害も無いかのような口ぶりだった。学校はこの際二の次だとしても、普通の家には親がいて、そして滅多なことでは高校生の娘の即日シェアハウスなど許可しない、と思う。

やはりおかしい。トアは、朝霧店長はあたしたちが1人で暮らしていることを知っている。あるいは施設を出ていることも。

従業員だし、イノは話していたかもしれない。だけど、自分のことを話したがるタイプでは無いし、ましてやあたしの家庭環境なんて他人に教えるはずがない。



思い立ち部屋の前に来るまでは早かった。ノックをしようとする手だけが空中で行き場を無くしている。会話をしたくないかも、そもそも寝てるかも。

考えて考えて、結局は扉を叩いた。トン、トントン。孤児院にいた頃によく使ったノックだ。単純なリズムだが、お互いにとってはそれで十分だった。

ん、と。無気力な返事が返り、ほっとして部屋に足を踏み入れた。

イノは部屋の中心でリュックを前にあぐらをかいていた。こちらに背を向け猫背でいる。シワひとつないベッドを見るに、腰をかけてすらいないのだろう。1番に崩すのも気が引け、あたしもイノの隣へと座った。

「....ねえ、大丈夫?」

「ん? そりゃもうこのとおり」

心外だというような顔でこちらを見たイノは、顔の横で両手を広げてみせた。

このとおり___怪我もなく会話する気力もある、特に目立った不調は無い___という意味か、精神的に擦り切れ、これ以上他人と会話するのは勘弁して欲しい、という意味かは分からない。

あたしは前者と捉え笑顔を返した。

「そっか、良かった」

緊張が解け肩の力を抜いたところで、イノが着替えていることに気付いた。カッターシャツではなく、無地の白いTシャツを着ている。覗く腕にも傷は無い。

「チアこそ....平気か? 」

イノは体勢を変え、ベッドへ寄りかかると正面からあたしを捉えた。

嵐雲のような灰色の目に見つめられて、居心地が悪くなった。

「う....ん。あたしは全然」

嘘では無い。もちろん身体的なダメージは無いし、情報量の多さに困惑しているだけで、いつもの調子は保っている、と思う。

イノの瞳は依然として嵐雲を宿しこちらを捉えている。

疑いの視線かと思ったが、気付いた。あたしが話すのを待っている。

当たり前だ、訪問したのはこちらなのだから、用があるのはあたし。

しかし、いざ対面すると罪悪感に似たものが浮かんできた。

選ぶ話題によっては彼に余計なストレスを与えてしまう。

何を聞きたかったんだっけ? 沈黙が育ち、気まずさをおぼえたあたしは最悪の選択をした。


「イノは......さっきのやつに会ったことがあるの?」

口に出してしまった。だって触れないのもわざとらしい。それに知りたい、知っておきたい。トアの話を聞いている時も、あたしだけが部外者のようで息が詰まった。実際......あたしが彼らに共感できることなど何も無い。綺麗事だけは言いたくない。

「......それは」言い淀んだイノの目を見てやはり後悔した。嵐雲は層を厚くし、よりその色を濃くしている。「ご、ごめん。やっぱりなし___ 」「いや、いいんだ。そうじゃなくて....だから、もう隠す気は無い」

困ったようにあたしの言葉を遮ったイノは、足を組みなおし、脱ぎ捨てられたジャージを膝の上に乗せた。

「 ....俺がこうなったのは12のとき......で、さっきのやつ、細かく言えば形はあれじゃなかったけど....見たことは、ある。トアのファイルには似たやつがいたかも」

顔に出さないようにしたつもりだったのに、失敗した。淡々と話しているようで、視線を泳がせるイノに罪悪感が湧いた。「12....って、イノが孤児院にきた歳」あたしの1年あとだから間違いない、よく覚えている。

「そう、それが原因で家出した。ああ、あの化け物の話はしてない。母さんは引き留めようとしてたけど、出ていかせたい親父と出ていきたい俺じゃ話にならなかった」

出ていかせたい....?あまりにも突飛だ。息子の目の色が変わっただけで、ましてや小学生の男の子だというのに。普通は病気を疑ったり、カラーコンタクトの可能性だってある。それにイノのお父さんは眼科医だ。

何もかも投げ出すような対応に、他人のあたしですら不信感を覚える。

「でもまあ、元気だし?」

頭をベッドに乗せ、天井を見ながらそう呟いた、かと思えば勢いよく体を起こす。

「で! 明日、どうすんだよ」

「どうって......荷物......取りに行って......」「て、ここに戻るのか? しょーじき俺は信用してないけどな.....特にトア、もう少しで俺の足に穴が空くところだった」

そんなこともあった。右足の甲をさするイノに哀れみの目を向ける。

あれには理由があったにしても、これからの事は決して楽観視できない。あんなものを見た以上、軽率に1人にはなりたくない。かと言ってあの二人に全てを委ねられるほどの根拠が無いのも事実だ。

「朝霧店長にあたしたちのこと話した? 家とか」「そんなわけないだろ、でも......やっぱそこだよな......」唸りだすイノにつられて眉間にしわがよった。一刻も早く安心したい身としては、いっそ開き直ってしまいたい。彼らがあたしの家庭環境、学校、いろいろを知っていたからなんだというのだ。守ってくれたことに変わりはない、むしろ伝える手間が省けたのではないか。決して楽しい話ではない、口に出さなくていいならそれが一番ありがたい。

「新手の誘拐とか......どっかに売り飛ばされるんじゃね......」今日一番真剣な顔を更新してイノが言う。そんなまさか。「いや......だってあの人、イス折れてたよ」あんな勢いで叩きつけられては人間などひとたまりもない。もし演技だったのであれば、こんなところでくすぶっているのはもったいない。

「あたし、明日トアに直接聞く」

「誘拐犯が誘拐しましたって言うわけないだろ」

「誘拐じゃないってば」



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