3
「ねぇ、草加さん? 聞いてる?」
目の前で手をヒラヒラと振られて、私はハッと我に返った。
「三回目……」
小首を傾げて私の顔を覗き込む有賀さんの顔を見て、私は絶望した。
「三? 三回目じゃないよぉ、私は初婚だよ」
そう言って有賀さんは、少し目を見開いた。
「あ、いえ、そうじゃないんです……」
そう答えた私の目からは涙が落ちていた。
何もできないのに、どうして何度も残酷な今を見せつけるのだろう。何度繰り返しても同じ結果なのに、どうして繰り返すのだろう。
一体何が起きているのかわからない。
「え? え? どうしたの? 大丈夫?」
向かいの席に座っていた有賀さんは立ち上がって私の隣に座った。そしてハンカチを取り出して私の目元に当てる。
「ごめんなさい……泣くつもりなんてなかったんですけど……」
「いいけど……もしかして、彼のことが好きだったの? って、まだ彼のこと教えてないか……。じゃぁ、私のことが好きだったの?」
後半は冗談めかして有賀さんが言う。
「……有賀さんのことが好きだと言ったら、結婚を止めてもらえますか?」
私はその冗談にのった。
有賀さんの結婚がなくなれば、ロサンゼルスに行くこともなく、あの飛行機に乗ることもない。
それが唯一の方法のような気がした。
「それは真剣に言ってるの?」
有賀さんはまっすぐに私の目を見て言う。
「真剣だと言ったら……」
そこまで言って急に恐くなった。告白なんてしたら有賀さんに気持ち悪いと思われて嫌われるかもしれない。大体、告白を受け止めて、結婚を取りやめるなんてあり得ないだろう。私なんかを選ぶはずがない。
恐ろしい未来は変わらず、私は有賀さんに嫌われるだけだ。
発しかけた言葉をすぐに訂正しようとしたが、先に有賀さんが答えた。
「真剣に考えるよ。ただ、草加さんのことは好きだけど、恋愛ではないから、彼と別れて草加さんを選ぶことはできないかな」
有賀さんは真っ直ぐに私を見て静かに言う。だから私は有賀さんが好きなのだろう。私は有賀さんが好きだと思う。それが恋愛なのか違うものなのかはっきりとはわからない。
恐ろしい未来をなんとも見せられるのは、私が有賀さんの結婚を心から祝えないからなのだろうか。それどころか、有賀さんの不幸を願うような真似をしたからだろうか。
ちゃんとおめでとうと言えれば、あの結末は変わるのだろうか。
淡々とニュースを伝えるアナウンサーの声と、断末魔のような電話の音が耳の奥で蘇った。
「有賀さんのことは好きですよ。だから幸せになってほしいんです。絶対に、幸せになってほしいんです」
「え? う、うん。ありがとう」
言葉に力が入りすぎたせいか、有賀さんは少し戸惑っているようだった。だけど私が発した言葉に嘘はない。嘘ではないと思いたい。
だったら、私には一体何ができるのだろう。
「私、振られちゃいましたね」
「本気で私に恋愛感情があるわけじゃないでしょう?」
「さぁ、どうでしょうね……。あ、お相手の方はどんな方なんですか?」
話ながら私は必死で考えていた。あの未来を変える方法があるのだろうか? 私の告白は失敗したけれど、思い付くのは結婚を止めることくらいだ。
「営業の芹沢さん」
「へぇ、芹沢さんってどんな人なんですか?」
「基本的におとなしくてやさしい人だよ」
「基本的に?」
「うん。基本的に」
「いつからお付き合いしてるんですか?」
「もう……四年くらいかなぁ」
「私が転職してくる前からですか……」
「あ、うん。黙っててごめんね。社内で騒がれたりからかわれたりするのが嫌で……」
「大丈夫ですよ。遠野さんにも内緒にしていたんですか?」
「咲美にだけは話してたよ。あの子、誰かに言いふらしたりするタイプじゃないし」
「私は言いふらすタイプだと思いましたか?」
ジリリと胸の奥が焼けるような痛みが走ったのは、遠野さんに嫉妬したからだ。だからつい、嫌味を言ってしまった。
「草加さんが言いふらすなんて思ってないよ。ただ、私に振られて草加さんがショックを受けちゃうといけないと思ったからね」
そうして有賀さんはニヤリと笑ってウインクをした。
その日から、私は有賀さんの結婚を中止させる方法を考え続けた。
とりあえずは時間を見つけて営業部を覗きに行き、芹沢敬吾について調べることにした。
最初に考えたのが、芹沢敬吾を誘惑して結婚を取りやめさせた上で別れる……という方法だった。
だが、そもそも私には男を誘惑できるほどの魅力がない。それに、そんなことをしたら、有賀さんにも嫌われてしまう。なにより、芹沢敬吾と関係を持つなんて嫌だった。
だったら、有賀さんが「結婚なんてとんでもない」と思えるような芹沢敬吾の弱みを握ってやろうと思ったのだ。
実は女癖が悪いとか、ギャンブルに傾倒しているとか、何か不正を働いているとか、どんなことでもいいから結婚を思い留まらせる何かを見つけようと思った。
せめて結婚の時期を延期することさえできればいい。
そうして芹沢敬吾を調べていたがたいした情報は集まらなかった。
● 芹沢敬吾
● 性別・男性
● 年齢・三十五歳(有賀さんより三歳年上)
● 都内のアパートに一人暮らし
● 茨城県出身
● おとなしく目立たないタイプ
● デスクはいつもキチッと整理されている
● 十年ほど前に転職で当社に入社。以来ずっと営業職をしている
● 押しが強いタイプではないが営業成績は常に上位にいる
● 人付き合いがあまり得意なタイプではない
● 営業成績の割に昇格しないのは人付き合いが苦手なせいだと言われている
● 女性関係の悪い噂はない
● 三十歳くらいのころ、同じ会社の女性社員との噂が立ったが、その女性社員が会社を辞めてすぐに噂も消えた
● 趣味情報なし
私はメモ帳に記した文字を眺めてため息をついた。
どれを有賀さんに報告しても、結婚を中止しようとは思わないだろう。
「出世が見込めないタイプだから結婚なんて止めた方がいい」と進言する手はあるけれど、同じ会社に勤めているのだから、有賀さんだってそれくらいのことはわかっているだろう。大きなお世話だと言われるだけだ。
もうひとつ、過去に女性社員との噂があったと告げ口することはできるけれど、もう五年も前の有賀さんと付き合いはじめる前の話だ。それを持ち出したところで、結婚には何の影響もないだろう。
「なーに楽しそうなことしてるの?」
いきなり背後から羽交い締めをされて、メモ帳を奪われた。
「何するんですかっ」
拘束を逃れて振り向くと、遠野さんがメモを読みながらニヤニヤしていた。
「ほほぅ」
「返してください」
「これ、何のためにやってるの?」
「遠野さんには関係ありません」
「関係なくはないよ。親友の……結婚相手だしねぇ」
「せ、先輩の相手の方がどんな人なのか知りたかっただけです」
「ふ~ん……とりあえず、このメモを返してほしかったら、仕事終わりにちょっと付き合って」
そう言うと、遠野さんはメモ帳をポケットにしまって歩き去ってしまった。
私は遠野さんが苦手だ。
話をしたことなんてほとんどない。有賀さんに連れられて行ったランチで何度か同席をしたことがある程度だ。
苦手なのは、私よりもずっと有賀さんと親密に見えたからだと思う。ただの嫉妬だ。
たいした情報の記されていないメモ帳なんて取り返す必要はなかった。暗記もしている。
だけど、あのメモ帳を有賀さんに見せられて、あることないこと吹聴されたくはなかった。だから仕事を終えた私は、遠野さんに言われるままに待ち合わせに指定されたチェーン店の居酒屋に向かった。
遠野さんは半個室になっているテーブルについて、すでにビールを飲んでいた。
「お、来たね~。座って」
私は会釈をして、遠野さんの向かいの席に座った。
「草加さんは何飲む?」
「いえ、私はすぐに……」
帰ります、そう言おうとしたのに、遠野さんは店員を呼んでビールを二杯注文した。
すぐにビールが届き、私と遠野さんの前にそれぞれ置かれる。
「よし、じゃぁとりあえず乾杯しよっか」
そう言って遠野さんはビールジョッキを持ち上げた。私は無視することもできず、ビールを持ち上げて軽くジョッキを合わせる。
「希江から聞いてるよ、結構飲める方なんでしょう?」
「ほどほどです」
そう答えてビールを一口飲む。気分は最悪だったけれど、よく冷えたビールはとても美味しかった。
「じゃぁ、忘れる前に返しておくね」
遠野さんは私から取り上げたメモ帳をスッと差し出した。メモ帳を人質にして、あれこれ詰問されるのかと思っていたので拍子抜けした。
「では、私は帰ります」
「そう言わずに、もう少し飲んでいきなよ。ビールも残ってるし。今日は無理矢理誘ったからおごるよ」
遠野さんは私の不躾な態度に気を悪くする様子もなく、幸せそうな顔でビールをあおる。
その顔が無性に腹立たしくなった。
このままでは有賀さんに大変なことが起こる。だから私は必死なのに、何も知らずに幸せそうな顔をしている遠野さんが憎らしく思えた。
八つ当たりだとわかっているけれど、感情を簡単に変えることはできない。
「で、なんで草加さんは、芹沢さんのことを調べてたの?」
「それはもう言ったはずです。有賀さんの相手がどんな方なのか知りたかったからです」
「知ってどうするつもりだったの?」
「それを言う必要がありますか?」
言ったところで、どうせ信じてもらえない。
「芹沢さんの弱みでも握って結婚を破談にするつもりだった?」
私は遠野さんの顔をジッと見る。すると遠野さんは「そんな恐い顔で睨まないでよ」と言うとケラケラ笑った。
睨んでいるつもりはなかったからそう言われて少しびっくりした。
「私は……ただ、有賀さんに幸せになってほしいだけです」
「うん。それは私も同感」
「だったら私の邪魔をしないでください」
「特に邪魔をする気はないけどね。本当に草加さんが希江の幸せを心から願っているのなら」
「どういう意味ですか?」
「草加さんのそれは、ただの執着ではない? 希江を独り占めしたくて、芹沢さんも、あと私も、邪魔だと思っているだけじゃない?」
その言葉はひどく不快だった。
遠野さんは事情も知らず、勝手なことばかり言う。
「有賀さんを私なんかが独り占めできるはずないじゃないですか。私なんて有賀さんにとってただの後輩に過ぎません。それくらいのことはわかってます」
すると遠野さんは「んーー」と唸って頭を掻いた。
「それ。希江が心配してたよ」
遠野さんが何を言っているのか分からなくて私は首をひねった。
「草加さんの口癖。『私なんて』とか『私なんか』ってやつ」
私は黙って遠野さんの言葉の続きを待った。
「それって無意識に自分を貶めていじめる言葉でしょう。そうして貶めないで、自分で自分を認めてあげてもいいんじゃないかな」
「言っている意味がわかりません」
「そうだなぁ……。例えば、これ」
そう言って遠野さんはビールジョッキを持ち上げた。
「私はビールを飲める。これはただの事実」
「はい、そうですね」
「私なんかビールしか飲めない。こう言うと全然違うニュアンスにならない? ビールが飲める、それでいいのに、ビール意外のものが飲めないことがダメなことみたいになる」
「はぁ……。私、ビール以外も飲めますけど……」
「ああ、うん……。例えが悪すぎたかなぁ」
そうして遠野さんは眉尻を下げて軽く笑みを浮かべた。そうして少し表情を引き締めて続けた。
「草加さんは自己評価が低いくせに理想が高いんじゃないかな」
「高い理想なんてもっていません」
「草加さんの作った書類って誤字やミスが少なくてすごいよね」
「すごくありません。誰だってできることだと思います。それにミスがまったくないわけじゃないですし」
「ほら、それ!」
遠野さんはビシッと私を指さした。私はその指先を見つめながら首を傾げる。
「どれですか?」
「ミスがないことを私は褒めたよ。他の誰かと比べる必要もない。他の全員が同じようにミスなく作業ができたとても、だからすごくないわけじゃない。それはすばらしいことなのに、自分でそれを褒めてあげられないことが……、人から褒められても自分なんてと思うところが自己評価の低さ。そして、ミスがまったくないわけじゃないっていうのが理想の高さ。この世界にまったくミスをしない人間なんて存在しない」
「えっと……はぁ……」
なんとなく遠野さんの話は理解できたような気がするけれど、だからどうなの、という感じだった。私とは違う別の世界の話を聞いているようにしか感じない。
「ダメか……」
「なんですか?」
「いや……、これは私の勝手な希望なのかもね」
そう遠野さんはささやいてビールを飲んだ。そして私は、結局、遠野さんが何を言いたかったのかさっぱりわからないままだった。
食事は宣言通り遠野さんがおごってくれて「また一緒に飲みに行こう」と誘われたけれど、私は頷かなかった。
そして別れ際に遠野さんはこう言った。
「私も一応会社の先輩だから。何かあったら希江だけじゃなくて、私も頼りなさい」
急に先輩っぽい顔で、先輩っぽいことを言った遠野さんが何を考えているか、やっぱり私にはわからない。
それからも、有賀さんの結婚を止める手立てを考えたけれど、結局何もできないまま、結婚披露パーティーの日がやってきた。
私なんかに何かを変えられる訳がないのだ。
絶望感と、それでももしかしたら何も起きないかも知れないという微かな希望を抱いてパーティー会場に行った。
見覚えのある会場で、見覚えのあるパーティーが繰り広げられる。
違ったのは、柱のくぼみのある壁際で密やかにパーティーを見守っていた私のことを遠野さんがめざとく見つけて声を掛けに来たことだ。
「お、来たね」
「来ますよ」
「希江は幸せそうだね」
「……そう、ですね」
このまま何もなければ本当に「幸せそうだ」と喜べる。
「何を暗い顔してるの? 結婚したって希江は希江だよ」
「そんなことはわかってます」
だけどこのままだと、この幸せな時間は永遠に失われてしまうのだ。そして私にはそれをどうすることもできない。
「パーティーの後、希江たちを空港まで見送りに行くんだけど、草加さんも一緒に行く?」
すぐに断ろうと思った。だけど、私の行動が変わったら、少しだけ私の知らない未来になっている。
だったら、これまでの二回と違う行動をとれば、何かが変わるかもしれない。
「行きます」
私は縋るような思いで遠野さんに返事をした。
滞りなくパーティーが終了して、有賀さんと芹沢さんは着替えと渡航の荷物を取りにいってから空港に向かうと告げた。空港まで見送りに行く人たちは空港での待ち合わせの時間と場所を決めて解散した。
私は遠野さんと空港に向かうことにした。
待ち合わせの時間よりも少し早く空港に着く。
大きな荷物を抱えた人や、見送りに来たであろう人が行き交っている。旅への期待が表情からも溢れている人や、腕時計を何度も眺めて搭乗時間を確認する人、誰かを待っているのかキョロキョロと辺りを見回す人。
私は落ち着かずうろうろと歩き回り、遠野さんはなぜかそれに付き合って歩き回っていた。
見送りの人が集まった頃、有賀さんたちも現れた。
有賀さんがラフなパンツスタイルだったことに少し驚いた。部屋着に近いかもしれない。
「見送りに来てくれてありがとう」
そう有賀さんが私に言ってくれたとき、「ラフな服装なんですね。旅慣れてる感じ……」と呟いたら「フライト時間、十時間以上あるのよ……少しでもくつろがないと無理よ。実は私、飛行機苦手なんだよね……」と苦笑いを浮かべていた。
私はつい「だったら行くのをやめましょうよ」と言ってしまったが「そうしたいんだけど、そういう訳にもいかないしねぇ」とやっぱり有賀さんは笑っていた。
集まった人たちがそれぞれにお祝いと見送りの言葉を伝えて、二人を搭乗ゲートへと送り出し、見送りは解散となった。
「さて、私たちも帰ろうか。何か軽く食べて帰る?」
遠野さんは当然のように私に声を掛ける。
私は首を横に振った。
「遠野さんは帰ってください。私はもう少しここにいます」
無事に飛行機がロサンゼルスに到着するまで、私はこの空港に居続けるつもりだった。
「んー、じゃぁ私も少し空港見学に付き合おうかな」
「独りで大丈夫です。遠野さんは帰ってください」
「邪魔かもしれないけど付き合わせてよ」
やわらかい口調だったけど、意見を変えるつもりはないように感じた。私自身、遠野さんのことを気にしている余裕がなくなっていた。
ロビーの椅子に座り、ただ時計が時間を刻むのを眺める。遠野さんも何も言わずに私の隣に座り続けた。
行き交う人が少しずつ少なくなりはじめた頃、空港職員が何人か走り回る姿が見られるようになった。
鼓動が段々大きくなっていく。ギュッと握りしめた拳が汗ばんでいた。
空港の入口に撮影機材を抱えた人たちが入ってきた。
そのとき遠野さんのスマホが鳴った。遠野さんは「ごめんね」と断ってから電話に出る。
「どうした?」
「今? 空港だけど」
「……は? もう一回……落ち着いて、何があったの?」
「嘘でしょう……」
相手が何を言っているのかわからなかったが、遠野さんの言葉で何が伝えられたのか、私には想像がついた。
空港にはまた別の撮影クルーが現れてバタバタと走り回っている。
電話を切った遠野さんの顔から血の気が引いていた。
「遠野さん?」
「今、ニュースで……希江の乗った飛行機が消息不明って……」
やはり起きてしまった。私には何もできない。
何度も無力さを突きつけられるだけなのだ。
一体、私が何をしたのだろうか。何がいけなかったのだろうか。
わかっていても止めることも変えることもできない。
「草加さん、大丈夫?」
震える声で遠野さんが聞いた。
「私は……大丈夫です」
答えると、遠野さんは私を抱きしめた。そして両腕にグッと力を込める。
「大丈夫。きっと希江は大丈夫だから。大丈夫だから……」
遠野さんは呪文のように何度もそう繰り返した。
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