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「ねぇ、草加さん? 聞いてる?」
目の前で手をヒラヒラと振られて、私はハッと我に返った。
「え?」
小首を傾げて私の顔を覗き込む有賀さんの顔を見て、私は泣きそうになった。
「どうしたの? 変な顔して……。ランチ食べながら寝ちゃってた?」
「え? あ……、寝てた……の……かも……」
なぜか妙に頭が重たかった。
有賀さんに結婚することを告げられたショックで気を失っていたのだろうか。その間に嫌な夢をみていたのかもしれない。
嫌な夢にしても最悪だ。
私が有賀さんの不幸を願っているようではないか。
私はアイスコーヒーを引き寄せてゴクリと飲んだ。少しだけ気持ちが落ち着いたような気がする。
「びっくりしたよね、報告が遅くなってごめんね」
「いえ……。あ、おめでとうございます」
私が言うと、有賀さんは目を細めて「ありがとう」と言った。
その表情は前にも見たことがあるような気がした。デジャヴというヤツなのかもしれない。
「えっと、それでお相手は?」
「営業の芹沢(せりざわ)さん」
私は直接関わったことがないし、他部署の人はあまり知らないのだけど、芹沢敬吾(せりざわけいご)のことはすぐに頭に浮かんだ。
黒縁のメガネを掛けていて、地味なタイプだけど物腰が柔らかいので女性社員の評判は悪くない。少し神経質そうな雰囲気もあるけれど、営業成績はそれなりに良かったはずだ。どうしてそんなことを知っているのか、自分でもよくわからない。
好きなタイプだから知っていたわけではない。むしろ嫌いなタイプだ。
有賀さんには似合わないと思う。だけどそんなことを口にすることはできない。
「お付き合いしてたなんて全然知りませんでした」
「隠しててごめんね。社内だと……まぁ、色々面倒臭いから」
チクチクと胸の奥が痛んだ。
私のことをこうしてかまってくれるのは、芹沢さんとの関係を隠すためだったのかもしれない。私のことを利用していたのだ。
どうして有賀さんが私に良くしてくれるのかずっと謎だった。単に利用されていただけならば、その方がしっくりくる。
そう思いながらも胸の奥の痛みが強くなっていく。
「そう、ですね」
「どうしたの? 何か気になることでもある?」
「いえ、えっと、結婚後は有賀さんって呼んじゃダメなのかなと思って」
私は自分の中に生まれた疑念を隠すように、適当な返事をした。
「じゃぁ、希江さんって呼んでくれる? 私は萌衣ちゃんって呼ぶから」
「え? 嫌です」
私は即答した。
「即答!」
そうして有賀さんはケラケラと笑う。
この笑顔も、芹沢さんとの関係を隠すための嘘なのだろうか。
「希江さんって呼ぶのはいいんです。でも、私は下の名前が嫌いなので……」
「うーん。前もそう言ってたよね。素敵な名前だと思うんだけどな」
有賀さんは腕組みをして少し唇を尖らせた。この表情が全部嘘だったなんて思いたくはない。
はじめて会ったとき、嫌いだった私の名前を「かわいい名前だね」と言ってくれたことも自分の名前とちょっと似ていると言ってくれたこともうれしかった。
大嫌いだった自分の名前が少しだけ好きになれそうな気がした。
有賀さんはいつも私にキラキラとしたものをくれる。
「ごめんなさい」
「あ、謝らなくていいよ~。嫌なことは嫌だしね。それに、私、結婚しても会社では有賀で通すつもりだから、呼び名はなんでもいいよ」
「そうなんですね。『希江さん』はちょっと恥ずかしいので、じゃぁ、有賀さんのままで……」
「ちぇっ」
有賀さんはそう言うと、気にしている様子もなく笑顔を浮かべた。
ランチを終えて店から出ると寒さに身震いしたのだけれど、なぜか外が寒いと知っていたような気がした。
「草加さん、どうしたの? 変な顔して」
「いえ……寒いなと思って。ところで式はいつなんですか?」
私は尋ねた。なんとなく年末年始のような気がしていた。
「あー、年末年始の休みを使って海外で挙式することになってるの」
寒さとは違う鳥肌が立った。
その日から挙式までの約二ヶ月、私は落ち着かなかった。
些細なことも含めて、何度もデジャヴを感じていた。デジャヴと呼ぶには記憶がはっきりし過ぎていた。
記憶の中にある出来事が目の前で起きる度、私は寒気と吐き気を感じるようになった。
単なるデジャヴではなく、もしも私の記憶が本当に現実に起こることなのだとすれば、有賀さんの結婚のお披露目パーティーの後、最悪の事態が起きる。
私はそのパーティーに行きたくなかった。
パーティーに行かなかったからといって、私の頭の中にある出来事が起こらないわけではないかもしれない。
それに、私の気のせいなのかもしれない。
どうしていいのかわからず、私はとりあえずパーティーに行った。そして、柱のくぼみのある壁際に立ち、そっとパーティーの様子を眺めた。
粛々とパーティーは進んでいく。
有賀さんの衣装も、そこで起きたハプニングも、私はそれを目にする前に予測できた。
気持ち悪い。
それでも私には何もすることができなかった。
「遠野さん」
目の前を通り過ぎようとした遠野さんに私は声を掛けていた。何もできないけれど、何かせずにいられなかった。
「あ、草加さん、そんなところに隠れてたの?」
遠野さんの頬はうっすらと赤くなっている。だけど口調はいつもの通りで酔っている感じはしなかった。
「遠野さんは、この後空港まで見送りに行くんですか?」
「うん。行くよ。草加さんも一緒に行く?」
「いえ……私は……」
そう答えながら、一緒に行けば何かできるだろうかと考えていた。
空港で大騒ぎをして飛行機を止めることができるだろうか? 結婚しないで欲しいと泣きついたら、有賀さんは結婚を取りやめてくれるだろうか? でも、もしも私の中にある未来の記憶が単なる偶然で、あの嫌な出来事が起こらないとしたら、私は有賀さんの結婚を邪魔するだけじゃないだろうか。
「草加さんも見送りに来てくれたら、希江は喜ぶと思うよ」
遠野さんの言葉に私は現実を思い出した。有賀さんには私の他に仲の良い人がいっぱいいる。
私があれこれ心配する必要なんてないのだ。
私にできることなんて何もない。きっとこのデジャヴも、有賀さんが離れていくことが嫌で作り出した妄想に違いない。
有賀さんの不幸を望んでいる自分の卑しさが産んだ妄想だというのならば、本当に私は最低の人間だと思う。
だけどきっとそうに違いない。
私はそういう人間なのだ。たまたま有賀さんは私に気を掛けてくれたけれど、これまではずっとみんなに嫌われていた。
自分ではよくわからなかったけれど、私がそんな卑しい人間だからだ。
「私は……これで帰ります」
私は遠野さんにそれだけ言って逃げるように会場を出た。
そうして私はどこにも寄らず、まっすぐに家に帰ってベッドの中に潜り込んだ。
眠ってしまえば、何事もなく朝が来る。そう信じてベッドの中で丸くなって硬く目を閉じた。
そうしていても一向に眠気は訪れず、永遠のような長い時間が流れたとき、バッグの中に入れっぱなしにしていたスマホが激しく鳴った。
私は耳を塞いで、何度もかかってくるその電話を無視し続けた。
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