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「ねぇ、草加(そうか)さん? 聞いてる?」
目の前で手をヒラヒラと振られて、私はハッと我に返った。
「あ、はい。聞いてます」
「ごはん食べながら寝てた?」
「寝てませんよ」
私は誤魔化すようにアイスコーヒーをすすった。
「報告が遅くなってごめんね」
「いえ……。あ、おめでとうございます」
私が言うと、有賀(ありが)さんは目を細めて「ありがとう」と言った。
おめでとう、と言ってみたものの、本当におめでとうと思っているのか、自分でもわからなかった。本当に寝耳に水で、目の前にいる有賀さんが結婚すると聞いてもピンとこなかった。
とりあえずこういった場合はお祝いを言うべきだと思って無理矢理口角を上げて伝えたけれど、心がこもっていないことが有賀さんにも伝わっていたかもしれない。
私が有賀さんと出会ってから三年ほどになる。
大学を出て最初に入った会社で私は挫折した。二年も経たずにその会社を退職した。退職の理由を簡単に言えば、人間関係のトラブルになるのだろう……。私はあの会社の人たちと馴染むことができなかった。
もう会社勤めなんて無理だと思って家に引きこもっていたけれど、働きもせず生きていけるような貯金はない。家賃を払わなくはいけないし、何もしていなくてもお腹は減る。
失業保険もいつまでももらい続けることはできないし、だからといって実家に戻る気にもなれなかった。
自分がなぜこうして生きているのかもわからないまま、私は職業安定所の人に勧められた会社の面接を受けて転職をした。
得意なことがあるわけでも、やりたいことがあるわけでもなかった。入社してみて、前の会社ほど嫌という感じではなかったけれど、好きというわけでもない。ただ、流されて働きはじめて、ただ息をしているだけのような毎日だったけれど、三年間勤めてこられたのは有賀さんがいたからだと思う。
有賀さんは配属先の先輩だった。私よりも四歳年上だけど、少しおっとりとした雰囲気で、あまり先輩というプレッシャーを受けることはなかった。
多分、初対面での有賀さんの言葉が私にそんな印象を与えたのだと思う。
「萌衣(もえ)さんってかわいい名前だね」
私は自分の名前が嫌いだった。名前と実際の私との間にあまりにギャップが大きくて、幼いころから名前でからかわれ続けてきたのだ。またそんな風にからかわれるのかとうんざりした。だが、続いた言葉は私の予想とは違った。
「私、希江(きえ)っていうの。ちょっと似てるね。あっ、苗字の草加(そうか)と有賀(ありが)も似てる! 運命かも!」
そうして笑みを浮かべた有賀さんに、怖さやプレッシャーは感じなかったけれど、少し苦手だとは思った。私とは違う人種の『誰とでも仲良くなれる人』だと感じたからだ。
友だちが多くて誰とでも仲良くなれる人とでも、私は仲良くなることができなかった。
多分、私はどこかが欠落しているのだと思う。
それなのに有賀さんは私の気持ちはお構いなしに、仕事のことを気にかけるだけでなく、休憩に誘ったり、ランチに誘ったり、たまには一緒に帰ろうと声をかけてくれた。
嫌ということはなかったけれど、そうして気にかけてもらえるのか、理由がわからなくて居心地が悪かった。
だからある日私は有賀さんに尋ねたのだ。
「どうして私を気にかけてくれるんですか?」
もっとやわらかい聞き方があるのかもしれないけれど、私にはこんな聞き方しかできなかった。
「どうして? 同じ部署だから?」
有賀さんは戸惑ったように少し首を傾げながら答えた。
「私はひとりでも大丈夫です。気を遣わないでください」
「気を遣っているつもりはないんだけど……。ごめん、迷惑だった?」
「いえ、私が迷惑とかじゃなくて、むしろ有賀さんが迷惑なんじゃないかと思って……」
「じゃぁ良かった」
そうして有賀さんはにっこりと笑った。
そんな話をしてからも、有賀さんの態度は変わらず話しかけてくれた。
そうしているうちに、なぜか他の社員とも少しだけど話をするようになった。
前の会社では、入社した当初はできるだけ人とコミュニケーションをとろうと努力した。色々なところで「コミュニケーションは大切だ」というようなことが記してあったからだ。だけど、頑張れば頑張るほど、まわりの人に嫌われ、避けられるようになった。
会社を辞める決意をしたのは、仕事に必要な連絡すらもしてもらえなくなったからだ。それが原因でミスをしたことで、上司にひどく叱責された。
私は人と関わることに向いていない。
そうはっきりとわかったから、新しい会社ではできるだけ人と関わらず、自分に必要なことだけをするようにしようと心に決めていた。
その決意をすり抜けて近づいてきたのが有賀さんだった。
学生時代からの友だちもいない。前職でもみんなに嫌われていた。だからこれかも独りで生きていくのだと思っていのに、私の世界に有賀さんが現れた。
慣れなくて戸惑うことも多かったけれど、そんな有賀さんとの関係が心地良くも感じていた。
そんな有賀さんに唐突に告げられたのが結婚の報告だ。式は二ヶ月ほど先の年末だと言った。
いつものように二人で行ったランチを食べ終わる頃、少し恥ずかしそうな笑みを浮かべて有賀さんが言ったのだ。
その報告を聞いてから、私はどんな話をしたのかほとんど覚えていない。
店を出たとき、思ったよりもずっと風が冷たくて、ブルッと体が震えた瞬間、私はようやく我に返った。
「んー、大丈夫? びっくりしたよね?」
有賀さんが私の顔を覗き込みながら言う。
「はい……。びっくりしました。お付き合いされていることも知らなかったので……」
「隠しててごめんね。また今度、ゆっくり話すよ」
そうして会社に向かって歩き出す有賀さんの後ろをトボトボとついて行った。
その日から、私の心の中には黒いモヤがかかったようだった。
有賀さんが結婚すれば、私はまた独りになってしまう。
一度知ったぬくもりや居心地の良さを手放すのは、それを知る前よりも辛い。だったら最初からぬくもりなんて欲しくなかった。
有賀さんは結婚をした後も仕事を続けると言っていた。それでも、私は有賀さんにとっての一番ではなくなる。
そう考えて我ながら失笑してしまった。
付き合っている相手がいることすら教えてもらえなかったのだ。そもそも有賀さんの一番ではなかった。
私には有賀さんしかいないけれど、有賀さんには恋人も私よりも仲の良い友だちもいる。
そんなことは知っていたはずなのに、私は有賀さんにとって特別だと思い込んでいた。
有賀さんの結婚が破談になれば、有賀さんが与えてくれたぬくもりを手放さずに済むだろうか……。そんなことも考えた。
有賀さんのことは大好きだけど、私が持っていないものをたくさん持っている有賀さんが妬ましかった。
だったら、有賀さんはひとつくらい手放して、少しくらい不幸を味わっても平気なんじゃないか……。そんな風にも思った。
たくさんのものを持っている有賀さんが私を気にかけてくれたのは、かわいそうな私に対する哀れみでしかなかったのかもしれない……。そんな風にも考えた。
有賀さんの結婚を祝おうなんて少しも思えなかった。
そうして心の中のモヤが広がり、深くなっていく間に二ヶ月が過ぎ、有賀さんの結婚の日になった。
結婚式は年末年始の休みを使ってロサンゼルスで挙げるらしい。その出発前に、忘年会をかねてお披露目パーティーをするのだという。
私も招待を受けた。
行きたくなかった。
だけど、あれだけ会社で良くしてくれた有賀さんの結婚パーティーに行かなければ、まわりの人に恩知らずだとか、冷たいだとか思われるような気がして、重い足を引きずってパーティー会場に向かったのだ。
会場に集まったのは会社の人が多いようで、三分の一程が知っている顔だった。形だけでも来て良かったと胸をなで下ろしながら、柱のくぼみのある壁際に立ち、誰にも見つからないようにそっとパーティーの様子を眺めた。
幸せそうな笑みを浮かべて、周囲の人に祝われたりからかわれたりする有賀さんはとてもきれいだった。光の真ん中にいる有賀さんを見て、やはり私とは別世界の人だったのだと悟った。
パーティーには参加したものの、私は有賀さんにあいさつもせず、パーティーの終了と同時に会場を出た。
有賀さんはパーティーが終わったら、そのまま空港に向かうと聞いた。何人かの親しい人たちは空港まで見送りに行くらしい。私はそこに参加する気はなかった。
家に帰る途中でコンビニに寄ってお酒とおつまみを買った。会計をしたら七千円ほどだったから、レジを打っていたアルバイトの男性は、これからパーティーでもするのだろうと思ったかもしれない。
ずっしりと重い袋を二つ抱えて家に帰ると、私はすぐにテーブルの上に買ってきたものを適当に並べた。
これだけの量を飲めば、きっと嫌なことも忘れられるだろうと思った。
服も着替えず座り込んで、私は一番近くにあった缶チューハイのプルタブを開けてほとんど一気に飲み干した。
甘くて飲みやすかったけれど、私が望んでいたのはおいしさではなかった。
よく見ると、アルコール度数の弱いカクテルだった。手当たり次第に買ってきたから、どんなお酒を買ったのかも覚えていない。
今度は、缶に記されているアルコール度数を確認して、高めのものを選んで飲んだ。
だけどやっぱり酔うことができない。
酔っていないのに、なぜだか涙があふれ出した。
泣き上戸の癖はなかったはずなのに、突然涙腺が壊れたように涙があふれ出す。
胸の奥がギュッと締め付けられて、息苦しさも感じた。
それの感覚が嫌でさらにお酒を飲んだ。
あまりに酔わないので、キッチンにグラスをとりに行ってウイスキーを飲むことにした。
普段、ウイスキーなんて飲まないからどれくらいの濃さで飲むのが良いかわからなかったから、適当に水で割って飲んだ。
そうして飲んで、泣いているうちにいつの間にか寝てしまっていたようだ。
不快な音で目が覚めた。
どうやらスマホに着信があったらしい。電話はすでに切れていて、画面に『遠野咲美』という名前が表示されていた。
有賀さんと仲の良い同期の人で、何度か一緒にランチを食べたことがある。ほとんど強引に連絡先を交換したけれど、今まで一度も電話がかかってきたことはない。
遠野さんは、空港まで有賀さんを送って行ったはずだ。見送りが終わって仲間たちと飲み直しにでも行ったのだろう。そこで盛り上がって、独りぼっちの私を遊び道具にでもしようと考えたに違いない。
過去に、そうした遊びに真面目に付き合ってひどく馬鹿にされたことがある。
私は遠野さんからの電話を無視することに決めた。
ふと顔を上げると、カーテンを閉めていなかった窓にみすぼらしい女の姿が映っていた。泣いて腫れた顔に、化粧がドロドロに落ちたひどい顔の私だ。
目が腫れて半分も開いていなかったから、はっきりとその姿が見えなかったのがせめてもの救いかもしれない。
私は、なんとなくリモコンを持ってテレビを付けた。
ほんの少しの間をおいてテレビがつくと、アナウンサーがニュースを読んでいた。
私はチャンネルを変える。
暗いニュースを見る気分ではない。
今は頭を空っぽにできるような馬鹿げた番組が見たい。そうしてチャンネルを変えた先もニュースだった。
次の番組もニュースだった。
普段ならば、どこかで何が面白いのかサッパリわからないようなネタを繰り広げるバラエティ番組が流れているはずなのに、どこのチャンネルもアナウンサーが緊迫した表情で繰り返し何かを伝えている。
「はぁ?」
言葉ともいえないマヌケな音を漏らし、私は次々とチャンネルを変えた。しかし、どのチャンネルもニュースで、ほとんど同じ内容を話しているように見えた。違っていたのはアナウンサーの顔だけだ。
私は左手でテーブルの上にあったグラスを持ち、中に残っていた液体を喉の奥に流し込んだ。焼けるような熱さが喉を通るのを感じて、その液体がウイスキーだったことを思い出した。どうやら、ほぼ原液だったようだ。
ぼやけた頭でもその異常事態を理解できた。
私は目をこすり画面に集中する。
そのとき再び携帯電話がなった。表示されている名前は遠野咲美だ。私はその電話を無視してニュースの画面を食い入るように見つめる。
アナウンサーが繰り返し伝えているのは、今日日本を飛び立ちロサンゼルスに向かっていた航空機が太平洋上で消息を絶ったというニュースだった。
乗員乗客の安否は確認されていないが、何らかのトラブルが起きたのだろうと伝えている。
そして画面の下には、搭乗者名簿に載っていた膨大な数の名前が次々と流れて行く。
私はその名前を食い入るように見つめた。
あり得ない。
絶対にそんなはずはない。
そう思いながら一人の名前を探した。
KIE ARIGA
見つけたくなかった名前を見つけて目の前が真っ暗になった。
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