iの証明

立川マナ

iの証明

「こら、どこ見てるの?」


 彼女の深みのある漆黒の瞳が、ばちりとこちらに向けられた。珍しくむっとした表情。責めるような視線。それでも、いじけた子供のような可愛らしさがある。

 化粧いらずの雪のような白い肌。暖房のせいか、やや赤らんだ頬。それよりも紅く染まったふっくらとした唇。とがった顎の影が落ちるほっそりとした首筋。

 気づけば、見惚れている。――高校の入学式で初めて彼女を目にしたときのように。

 艶のある黒髪の間からのぞく耳たぶまで愛おしく見える。重症だ。


「いや」と、間抜けな声がこぼれた。「その……」


 まさか、お前の横顔に見とれていた、なんて恥ずかしすぎて言えるわけはない。俺はすぐさま彼女の視線から逃げるように顔をそむけた。


「……この数式……」


 咄嗟に、そんな言葉でごまかしていた。逃げるようにずらした視線の先にあったのが、暗号のような数字と記号の羅列だったからだ。

 考えもなしに、持っていたシャーペンの先でそれを指し、俺は口ごもった。適当に、質問をでっちあげることもできない。

 当然だ。ずっと彼女の横顔を眺めていた俺は、これ――真っ白なローテーブルに広げられている数Ⅱのノート――には、ちらりとも目をくれていなかったのだから。このページが果たして、来週の試験範囲なのかどうかもあやしい。

 せっかく、彼女が「勉強会をしよう」と部屋に招いてくれたってのに……何してるんだ、俺は。


「ん?」


 そんなこととはつゆ知らず、彼女はふっと微笑を浮かべ、斜め横に座る俺に身を寄せるように体を近づけてきた。

 身震いのようなものがした。

 入学式で見初めた彼女が隣にいる。それは信じられない出来事で、奇跡にも思えて……高校三年の冬、こうしてやっと付き合いだせたといっても、高まる鼓動を抑えられない。もうキスもしたし、一線を越えたことはないが、肌を重ねたことはある。今更こんなことで――そうは思っても、男としての本能は冷静になることを知らないようだ。些細なことでも、身体は彼女に反応してしまう。


「これ、練習問題の答え? 複素数の問題だね。どれどれ……」


 肩が触れるか、触れないか。その距離で、彼女がぽつりとつぶやいた。

 放射線状にのびたまつ毛が、黒珊瑚のような瞳を上半分だけそっと隠す。やや伏し目がちの彼女の横顔は、いつにも増して色っぽかった。といっても、それは決して『淫猥』なわけではなく、絵画にでてくる女神のような高潔さもしっかり兼ね備えている。これがもし、幻術か何かの類で、彼女が悪魔の手先だとしても……俺は喜んで騙されて魂を差し出すことだろう。

 ああ、だめだ。勉強できる状態じゃねぇや。全然関係ないことばかり頭を巡って、それを妄想の域に止めておくだけで精いっぱいだ。ちょっとでも身体を動かしたら、このまま彼女を押し倒しそうで……。


「だめだよ!」

「!」


 心臓がびくついた。すみません、と思わず叫びそうになった。

 あまりに絶妙なタイミングに、彼女に心を読まれたのかと思った。が、もちろん、彼女にそんな力があるわけはなく、


「ここ、間違ってる」


 そう言って、こちらに見向きもせず、彼女は俺のノートの数式を指差した。無論、それはつい先刻俺がシャーペンで指したのと同じものだ。

 バレないようにひっそりと安堵のため息を漏らす。

 だめ、て……そうだよな、勉強のことだよな。まさか、俺の頭の中で繰り広げられている、理性と本能(煩悩?)の熱いバトルに気付くわけがない。


「ま、間違ってる?」と返す俺の声は上擦っていた。


 愛おしい彼女の横顔。春に咲くどの花よりも芳しい彼女の香り。俺の意識は、感覚――特に、視覚と嗅覚――に集中していた。そして、触覚が刺激を求めている。その渇望が、彼女を抱きしめたときに感じたぬくもりと柔らかさを、記憶の底からひっぱりだして甦らせる。もう一度味わいたい、という欲望が募ってしまう。

 こんなことがバレたら、即刻フラれるだろうか。


「だって、ほら、iアイが無いもん」

「へえ……」


 下手な相槌だ。話を聞いてないのはバレバレだな。


「もう、ちゃんと聞いてるの?」とすぼめた唇もまた魅力的だ。艶やかで柔らかそうで……触れたくなる。こんな彼女が隣にいて、どうやって勉強しろ、ていうんだよ。


「ねえ、あのさ」しばらく黙っていると、彼女は遠慮がちに切り出して、こちらに振り返った。「iが何か、分かってる? 説明でき……」


 急に言葉を詰まらせた彼女。その表情が固まった。

 彼女が振り返って、予想以上に至近距離だったことを知る。鼻の先がかすかに触れるほどだった。

 動けなくなった。いや、動きたくなかったのかもしれない。

 彼女の頬が赤らんでいくのが分かった――暖房のせいじゃないだろう。俺の姿を閉じ込めた瞳が潤んでいく。唇がきゅっと結ばれ、頬がこわばる。困ったような表情。恥じらうその姿に、俺の胸はさらに高揚した。


「えっと」と、自信無げな声を漏らし、彼女は視線を泳がせる。「その……だから」

「アイが何か、だよな?」


 囁くように訊ねると、彼女ははっと目を丸くした。いきなり真剣になった俺の声に驚いたのだろうか。

 俺は微笑して、低い声で続ける。


「ちゃんと分かってるよ。――いつも、感じてるから」


 頬を紅潮させて上目使いで見つめてくる彼女。みぞおちのあたりで何かが燃え滾るのを感じた。我慢できるわけがなかった。右手が誘われるように彼女の頬へと伸びていく。

 彼女に抵抗する様子はかけらもなかった。滑らかな頬の感触を右手に感じつつ、さらに顔を近づける。

 潤んだ瞳が目の前に迫り、


「そう……なんだ」そのぎこちない動きを感じられるほどに、唇は今にも触れそうだった。「じゃあ、説明……できる?」

「ああ――できる」


 頬に触れた手を彼女のうなじのほうまで滑らせる。艶のある黒髪が俺の手をくすぐった。そのまま彼女を引き寄せ、勢いのままに唇を重ねる。

 その説明に、数式も言葉も必要なかった。

 窓の外、ベランダによりそうようにのびた大樹。その枝の先で春の息吹を待つ桜のつぼみが、一足先にを味わう俺たちをのぞいていた。


 あとになって、「二度と君と勉強会はしない」と宣言されたが……後悔はなかった。どうせ、彼女のそばでは、『愛』が邪魔して勉強なんてできないことは、今日はっきりと証明されたのだから。

 しかし……なんで数学に『アイ』なんて言葉がでてきたんだ? その謎が残ったまま、俺は試験にのぞむことになった。

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