駆と翔(カケルとカケル)

Tohna

意地か本能か

 遅刻ギリギリの電車に乗ると今日もアイツは同じ車両の同じドアの脇のスペースに張り付いていた。


 アイツの名前は高瀬かける


 入学してまだ二か月。


 俺とは同じクラスではないから話したことはないのだが、アイツのクラスメートが「タカセ」とか、「カケル」と呼んでいるのを聞いて偶然知ったわけだ。


 俺の名前もかけるだ。


 「名は体を表す」と言うが、俺は割合と脚力には自信があって、中学の三年間、行内のマラソン大会では学年一位だった。


 なんで高瀬アイツの事がそんなに気になるかって?


 俺は高瀬アイツに駅から高校の正門までの1480mの競争で、たった一度も勝ったことがないからだ。


 いつも俺は高瀬アイツに10秒足りない。

 圧倒的な差を見せつけられる毎日だった。


 

 オレの時計で午前8時20分32秒。

 

 俺たちの乗った電車は美岬中央駅に滑り込んだ。


 ドアが開く。目の前は階段だ。

 

 ドアの脇にへばりついていた高瀬アイツはいち早く階段を駆け上り、左手の改札を抜ける。

 

 ドア脇のポジションを取れない俺は出遅れて、2秒ほど遅れて改札を抜けると、高瀬アイツは既にオレたちの高校がある東口に向かってスムーズに加速を重ねていた。

 

 電車でのポジションが悪いから高瀬アイツに勝てないのではない。


 駅の東口を出ると、200mほどの商店街沿いに歩道がまっすぐ伸びている。


 交差点もなく、ここはトップスピードを維持しやすいのだが、高瀬アイツの方がストライドも大きくてここで更に差を拡げられるのだ。


 商店街の終わりには大きな交差点があり、右折して国道沿いを400m走る。


 国道はオーバーパスとなってさっきまで乗っていた美岬線を跨ぐのだが、オレたちは側道に入って200mほど走った美岬線にぶつかったところで左折して国道の下をくぐる。


 線路沿いをまた200m走ると、美岬線はトンネルに入るのだが、オレたちは200mダラダラとつづく坂をガンガン上って行かなければならない。


 ここではオレの脚が爆発する。30mくらいあった差は、この坂を上り切るころには10m以下に、そう、高瀬アイツの息遣いが分かる距離まで差を縮めることができるのだ。


 しかし、「俺の時間」は短い。


 坂を上り切ると、オレたちの高校の正門までは直線で280mだ。


 俺は気力を振り絞って、高瀬アイツに食らいついていくが、ここで最終的に10秒差をつけられるわけだ。

 

 正門には、生活指導教諭の横森が竹刀を持って立っている。


 今日日きょうび竹刀で遅刻した生徒を殴るなどは考えにくいが、正門で仁王立ちしている、角刈りにして赤黒く日焼けした横森の横を無事に通り過ぎるには、午前8時25分までに通過する必要があるのだ。


 さもなければニヤニヤしながら竹刀を横手に持ち変えた横森に、


「止まれ! ここまでだ!」

 と、遅刻を免れようとして駅から走って来た生徒は止められて遅刻の反省文を書かされるのだった。


 作文が大の苦手なオレはそれが嫌で駅から全速力で走っている。


 もっと早く起きればいいんじゃないかって?


 それを言われると何も返せないが、結局この時間になってしまう毎日だ。


 今日も高瀬アイツに10秒ほど離されて正門を通過した俺だったが、高瀬アイツが通過した刹那に、横森は無情にも竹刀を横手に持ち変えた。


 愛想笑いをしてみたが、横森はニッコリ笑って首を横に振るだけだった。


 今日は月曜日で、いつもは手荷物にない美術の時間に使う水彩画用の画材と、体操着が入ったバッグが邪魔でタイムが落ちたのだろう。


 遠くで高瀬アイツはオレの方を振り返って見ていた。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 あの日の後も、来る日も来る日も俺はやはり高瀬アイツの後塵を拝していた。


 俺は高瀬アイツに比べて何かが足りない。


 爆発的な加速力と、トップスピードを維持する能力が俺には欠けている。


 自分でも実に馬鹿馬鹿しいとは思いつつ、部活にも入らず授業が終わると直ぐに家に帰り、雨の日も風の日もランニングを続けて臥薪嘗胆を重ねた。


 勝ちたい。


 どうしても高瀬アイツに勝ちたい。

 

 俺が生きているその理由は、高瀬アイツそのものだった。


 

 そしてその事件はあの日突然起こった。


 あろう事か、高瀬アイツは改札でSuicaをタッチし損ね、派手に、


「ピンポーン! もう一度タッチしてください」

 と改札のやり直しを改札機に命ぜられていた。


 俺は高瀬を尻目に、


「やった!」

 と正直そう思いながら隣の改札機を通り抜けていた。


 今日こそ勝てるかもしれない。


 俺はそう思って、苦手な商店街セクションをがむしゃらに加速した。

 

 後ろを振り向いたら負けるような気がした。でも、高瀬アイツとの距離は知っておきたい。


 この「競争」を俺がコントロールするにはどうしても必要なことだ。


 国道を右折する時に横眼で見ればいい。

 

 高揚する気持ちとは裏腹に視界が急に狭くなった。


 それに自分の呼吸と心音がやけに大きい。


 20m、15m、10m。


 国道の右折だ。


 右に曲がりながら、俺は右目で駅の方をちらりと見た。


 高瀬アイツがいない。


「やった、やった! 今日こそ俺の勝ちだ!」

 俺は相好を崩し、走りながら小さくガッツポーズを作っていた。


 改札機に引っかかり気落ちして諦めでもしたのだろうか、と一瞬思ったのは俺の大きな間違いだった。


 正面を向いた俺の左目に飛び込んできたのは、国道を渡った向こう側の歩道を激走する高瀬アイツの姿だった。


 まるで羽根でも生えているかのように、軽やかに、そうでいながら力強く。

 

 歩行者信号が青だったので、トップスピードを落とすのを嫌った高瀬アイツは直進を選んで渡り切ったところでスピードを殺さずに大回りして右折したのだ。


 一方で勝手に勝ったと早合点し、スピードを緩めた俺は意気消沈して結局その日は20秒の大差をつけられて、またもや横森に竹刀で行く手を遮られたのだった。


 そして、高瀬アイツのミスをぬか喜びした自分を恥じた。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 入学して三ヵ月も経つと、俺と高瀬アイツの正門までの「競争」は全校の注目の的になっていた。


 高瀬アイツは、陸上部に入部して本格的に中距離走に取り組んでいると聞いた。

 

 だから生徒の耳目は、いかに俺が高瀬アイツに対する連敗記録を伸ばすかだけに集まっていたのは知っていた。

 

 口性のないクラスメートたちは、


「エリートの高瀬アイツ翔とドン・キホーテの山村駆のデスマッチ」と囃し立て、俺が負けるのを毎日のように楽しんでいるようだった。


 俺は結局、夏休みに入るまで一度も高瀬アイツに勝つことは出来なかった。


 そう、ただ一度だけ、最後の直線で並びかけた事があったが、結局俺は敗れ去った。


 負けたことで、クラスメート達の歓心を買ったのは間違いない。


「カケルだっせー! 並びかけただけで、なに高瀬に勝った気でいるんだよ。 バーカ‼」

 クラスメートの幸也が敗れた俺にそんな心ない罵声を浴びせてきた。


 驚いたことがその時起こった。


「じゃあ、お前は俺に勝てるのか⁉」

 高瀬アイツは幸也に向かって憤怒の形相で吠えた。


「なんだよ、高瀬までマジになってクソだせえな! お前ら一生やってろ。馬鹿どもが」

 幸也は半分恥ずかしさを誤魔化しながら吐き捨てるようにそう言って他のクラスメートと共にその場を去って行った。


「あ、ありがとう」

 俺は思わずそう言った。


 何故「ありがとう」なんて言ったんだろう。

 すると高瀬アイツはそれを見透かしたかのように、


「何が?」

 と、言い放った。


「いやさ、毎日俺なんかと競争してくれてなんか悪いな」

 自分がこんな卑屈な事しか言えないのが悔しかった。


「競争? 俺はそんなつもりないよ。遅刻して横森に反省文を書かされるのが嫌なだけさ」

 高瀬アイツはそう言って少し笑った。


「なんだ。俺と同じ動機とはね」

 俺がそう言うと、高瀬は完全に身体を俺の方に向き合って言った。


「なあ、山村は気がついていたか?」


「えっ、何が?」


「やっぱりそうか」

 思わせぶりな言い方に少し苛立ったのはここだけの秘密だ。


「だから、俺は何に気が付いてないんだ?」


「最近、オレたち正門を通過する時刻が、四月の頃より30秒は早くなっているんだ」


「なんだって?」


「間違いないさ。オレはちゃんとタイムを取っている」

 高瀬アイツは真面目な顔の通りしっかりしている。


「ってことは、三ヵ月前のお前になら、俺は勝てるっていう事?」


 高瀬アイツは言った。

「三か月前のオレに勝つことにどんな意味があるかは分からない。でもオレはお前に負けまいといつも必死だったからな」


「お前から、そんな言葉を掛けてもらえるなんて思いもしなかったよ」

 俺は高瀬アイツが俺を必要としてくれていたことに初めて気が付いた。


「いや、反省文を書きたくないだけだ」

 

「今更遅いわ!」

 照れ隠しをする高瀬アイツを、その日を境に俺は「カケル」と呼ぶことにした。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「駆、お前、最近商店街セクションめっちゃ早くなったんじゃね?」


「翔こそダラダラ坂で俺に差を縮められなくなったじゃねえか」

 息を切らし、汗を垂らしながらも余裕で横森の関所を通過できるようになった俺たちはまだ競争を続けていた。

 二人の熱量は冷めずむしろ上がっていたかもしれないが、それに反比例するが如くクラスメート達は友達になった俺たちへの興味を無くしていた。


 ところで俺は本格的なトレーニングがしたくなって、遅まきながら陸上部に入部した。

 三年生が抜けて、新しく部長になった種井さんには、


「お前たちの陸上部に入部した動機には全く賛成できないけどな」

 と、あきれられた。


 翔も俺に勝とうとして入部していたって事か。


 種井さんの期待を良い意味で裏切るように、その後の俺と翔は破竹の勢いで中距離の大会記録を塗り替え始めた。


 しかしトラックの上では俺の得意は坂道がない。坂道でのアドバンテージがないため、他の選手には勝てても、翔にはどうしても届かない。


 けれども、二年生の終わりの頃には、ほとんど翔に遜色のないタイムをコンスタントに刻むことができるようになった。


 翔は俺に半分冗談で毒づいてきた

「くそっ、まだ負けてねえし」 

 

「努力は裏切らないっていうじゃん?」

 俺がそう言うと、


「ちぇっ、駆のくせに何生意気なこと言ってんだ」

 翔はそう口答えしながらなんだか嬉しそうだった。


 そして、ついにその日が来た。

 俺は、三年の総体の予選会で初めて翔を実力で負かした。

 

 そう、俺はようやく翔に勝ったんだ。

 翔も俺の2秒落ちの2位。二人で同じ種目の高校総体出場が決まった瞬間でもあった。


「うぉおおおおおお!」

 自然と俺は絶叫していたが、何に対して絶叫しているのかが分からなくなって、直ぐにその興奮から醒めた。 

 

 そして、少し困った顔をして翔の方を見た。


(勝ってよかったんだろうか)

 正直な気持ちがこれだった。 


 翔は息を切らせながらも、俺の心配顔を見て、笑って親指を立ててくれた。

 

 悔しい、とその後言ったけれど。

 


 予選会の次の日、俺はいつもの朝の電車で翔に声を掛けた。

「翔にはまだ勝てないけど、いつか絶対に勝ってやる」

 

 俺からそう言われて翔は不思議な顔をしたが、電車が午前8時21分05秒に美岬中央駅のホームに滑り込むとやっと気が付いたように、


「まあ、言ってろ。俺だって駆にはまだ負けられない」

 そう言って、電車のドアが開くと、俺とほぼ同時に競走馬よろしく飛び出した。


 俺たちの高校最後の夏は、今始まったばかりだ。 

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駆と翔(カケルとカケル) Tohna @wako_tohna

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