その5 新社会人と博士課程の学生

「あー、久しぶりに恭太に話を聞いてもらえてすっきりした。来週からまた頑張る気になれた」

 莉緒がレモンサワーを飲み干した後にそう声に出した。この日は、恭太と莉緒が一緒に居酒屋で食事をしていた。二人が直接会うのは、恭太が博士課程に進学してから初めてのことであった。

「いやあ、社会人もやっぱり大変なんだね。今までなかなか会えなかったからいろいろ聞けた良かったよ」

 恭太はウーロン茶の入ったグラスを片手に、笑顔で莉緒に話しかける。恭太はもともとお酒が好きな方ではなかったため、莉緒と一緒に食事をするときは、莉緒だけがお酒を頼むことが多かった。研究室の飲み会の時は、周りの空気を読んでお酒ばかり飲んでいたため、遠慮なくソフトドリンクを頼める莉緒との居酒屋をとても心地よく思っていた。


「まあ新人研修ももうすぐ終わるから、これからはやりたかった仕事に取り組めるようになるなあ。とても楽しみ」

 食事を始めたときは、少し元気がなさそうであった莉緒も、すっかり気を取り直してご機嫌になっていた。

「そっかあ。いよいよだね。やりたい仕事はできるの?」

「あ、うん。配属も決まったけど、希望通りになったよ。直属の上司は女性の方で、すごく素敵な方だったから本当に楽しみ」

 莉緒の目はとても輝いていて、明らかに大学院の頃よりも希望にあふれている様子であった。そのような莉緒の姿を見て、恭太は心が温まった。


「ところで恭太は博士に進学してから何か変わったことはあったの?それとも今まで通りって感じ?」

 話したいことを話し切った莉緒は、話題を恭太の生活に変えた。

「うーん、そうだねえ。やっぱり忙しくなったのは事実だけど、あまり変わらないと言えば変わらないかな」

 恭太は少しだけ返事を曖昧にした。正直なところ、博士課程に進学してからうまくいかないと感じることが多くなっていたが、莉緒の前でそのようなことを言いたくないという気持ちがどこかで働いていた。

「ふうん。そうなんだ」

 莉緒はそう言って、恭太の表情を見つめる。おそらく、恭太の本当の気持ちは莉緒にも伝わってしまっているのだろうと恭太は感じていた。しかし、恭太が話したがらない時は深く追求しないのが莉緒であった。


「あ、今年度末にまた国際学会に行くことになったよ」

 恭太はつい昨日国際災害対策学会の要旨を投稿したところであった。

「へえ、そうなんだ。どこであるの?」

「えっと、フランスだよ」

「フランス!?」

 莉緒が大きな声をあげる。

「いいなあ、フランス。私も行ってみたいなあ」

「いやいや、遊びに行くわけじゃないからそんな楽しいものじゃないよ」

「それでも自由時間とかはあるんでしょ?エッフェル塔とか見に行けるだろうし、本場のフランス料理食べられるなんて羨ましいよー」

「まあ、確かにそうだね。うん、楽しんでくるよ」

 莉緒が、フランスに行くことをあまりにも羨ましがるので、あまり学会参加に乗り気でなかった恭太も、何となく学会に行くのが楽しみになってきていた。



「今日は楽しかった。ありがとね」

 居酒屋を出て電車に乗り、最寄り駅に着いた莉緒がそう笑顔で恭太に話しかける。

「僕も楽しかったよ。また近いうちに会えるといいね」

「そうね。新しい部署での仕事にも慣れると思うから、来月とかかなあ」

 莉緒が指をあごにあてて考える。

「うん、僕も休日なら少しぐらい時間取れると思うから合わせられると思う。また連絡してね」

「それじゃあ」

「うん、お仕事頑張って!」

 電車から降りてホームを歩く莉緒の姿を、恭太はじっと見つめる。博士課程に進学してからこの日が一番楽しかったと、しみじみと思っていた。

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