その9 親子の絆

「恭太おはよう、昨日はゆっくり眠れた?」

 朝ごはんを食べにリビングにやってきた恭太に、理美は優しく声をかけた。

「うん、なんとか。お母さんは?」

「私もいつも通りグッスリ寝たわよ」

 そう理美は微笑むが、彼女の目にははっきりとしたくまが残っていた。何しろ恭太が生まれて初めての親子喧嘩が昨晩おこなわれたのだから、二人ともうっすらと疲れが残っていた。


「はい、トーストと目玉焼き。召し上がれ」

 理美が恭太に声をかける。その声はどことなく上ずっており、平静を装うと必死なようであった。恭太も正直理美にどう接するべきか悩んでいた。昨晩のことはなかったものとしたい気持ちがあったが、避けて通れない話であるため、大学に行く前にもう一度したいとも考えていた。二人が朝ごはんを食べている間は、お互い終始無言になってしまった。


「ごちそうさま。歯を磨いたら大学に行くね」

 結局話を切り出せないまま、恭太は朝ごはんを食べ終わってしまったので、そう声をかけるしかなかった。理美も無言で頷くだけで、気まずい空気がなかなか抜けない。



「恭太、待って」

 恭太が荷物をもって玄関に向かったとき、ようやく理美が思い立ったように声をかけた。

「どうしたの、お母さん」

 恭太が振り返ると、理美は深呼吸をしてから話し出した。

「昨晩はいきなり大声を出してしまってごめんなさい。恭太からしてみたらわけわからなかったわよね」

「ううん、僕の方こそごめんなさい。そもそも事前に伝えてなかったし、そのあと僕もカッとしちゃったから」

 お互いに言いたいことが言えたからか、今日初めて二人は笑顔になった。しかし、理美はすぐに真顔になった。

「あのね、昨晩あの後いろいろ考えたんだけど、やっぱり母親としては、恭太が選んだ道を応援するわ。恭太が、いろいろ考えて進路を選んでいることは私もわかっているつもりだし、やっぱり本人が納得できる人生を歩まないとね」

 そう、理美が言うので、恭太はホッとした。恭太の博士進学への決意は固かったが、やはり今まで独り身で育ててくれた母親の理解なしではあり得ないとも感じていたからだ。

「ありがとう、お母さん。その言葉聞けて嬉しい。これから、後悔のない人生を送れるように博士に進んでも一生懸命頑張るよ」

 恭太は笑顔で応じた。

「ただね、そのために一つだけお願いしたいことがあるの。あ、ごめん、ちょっと待っていて」

 そういうと、理美は自分の部屋に慌てて戻っていった。


 一分ほどして、理美は玄関に戻ってきた。

「ごめん、待たせちゃって。お願いしたいことっていうのは、誓ってもらいたいことがあるの」

「え、何を誓うの?」

 突然の理美の提案であったため、恭太はどのようなことをこの後言われるのか想像がつかなかった。

「あのね、博士課程進学するってとても大変なことだと思うの。もちろん、私は行ってないからわからないで言っているのだけど、これから今まで以上に大変なことが待ち受けていることだと思うわ。もちろん、恭太には進学する以上は研究とか頑張ってもらいたいし、納得できる結果を出してほしいと思っている。だけど、だけど・・・」

 理美は話疲れたのか緊張しているのか、少し話すのを中断して深呼吸し始めた。恭太は続きがとても気になっており、無言で理美の次の言葉を待っていた。

「母親として一番願っているのは、恭太が健康に、そして何よりも幸せに暮らしていることよ。研究が忙しくて追い込まれることが多いかもしれないけど、それは絶対に忘れないでほしい」

「なんだ、そんなことわかっているよ。お母さん、ありがとう。だけど、僕は大丈夫だよ。もちろん、お母さんのために、健康に幸せに暮らすことを誓うよ」

「ううん、恭太に誓ってほしいのは、私に対してじゃない。」

 そういうと、理美は手に持っていたものを、恭太に見せた。



 それは、父親である明敏の写真であった。しかも、生まれたばかりの恭太であろう赤ちゃんと一緒に満面の笑みで映っている。

「これは、お父さん・・・?」

 恭太がそう言うと、理美は黙って頷いた。恭太は明敏の記憶は残っておらず、また恭太と明敏が一緒に写っている写真は今まで見たことがなかったので、この写真はとても新鮮に見えた。恭太が少し戸惑っている様子を見て、理美が話を続けた。

「さっきの話を、明敏さん、いやあなたのお父さんに誓ってほしいの。恭太が生まれてきて、あの人はすごく喜んでいたわ。その時の写真をしっかりと見たうえでもう一度誓ってほしいの」

 恭太は、じっくりと写真を見る。写真に写っているときの明敏は何を考えていたのだろうか。今まで見たことのある写真とは比べ物にならないくらいの笑顔であるため、それだけ恭太のことを大切に思ってくれていたのだと、恭太はすぐにわかった。


「お父さん、お母さん。今までありがとうございます。僕は、博士課程に進学しても、研究は頑張るけど、健康に、そして幸せに生きることを大切にします。だから、お父さんは天国から、お母さんはそばで見守っていてください」

 そう、恭太は言い切った。理美はようやく落ち着いたようで、再び笑顔になった。

「ありがとう、恭太。これで私も決心できたわ。それじゃあ、今日も気を付けて大学に行ってきてね」

 恭太は、理美に見送られて大学に向かっていった。



 大学に向かっている途中、恭太の頭の中にはいろいろなことが浮かんでいた。まず、先ほど見た明敏の写真は、確かに満面の笑みであったが、それと同時に今まで見てきた他の写真よりも、明らかに頬がこけていたのだ。

「僕が生まれてきたとき、お父さんは何をしていてどのような状況で、何を考えていたんだろう」

 恭太はそう呟いた。そして、明敏は先ほど見た写真の時から、三か月もしないうちに、この世からいなくなってしまっているのだ。頬がこけていたとはいえ、亡くなるちょっと前の人のようには、恭太には見えなかった。父親の死因は、今まで恭太が避けていたことであったが、先日祖父母を訪ねた時くらいから、日に日に気になりだしていた。



「いや、まずは自分のこと考えなくちゃ」

 恭太はそう言い聞かせて切り替えようとした。

「せっかくお母さんに認めてもらえたことだし、これから本当に頑張らなくちゃ。数年後、博士進学して良かったって笑顔で言えるようにしよう」

 恭太は決意を深めて研究室に向かっていった。

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