二幕:月は人ほどにものを言う③
「……かまいませんが、紅茶が実はあなたにとっては致命的な毒で、一口飲んだら血を吐いて死んでくれるくらいのメリットがないとやる気が起きませんね」
瞬間、唖然とした表情を見せたルートだったが、すぐに動揺をおさめ、皮肉の反撃を試みる。
「なるほど。それは流石に無理だな」
「では、諦めてもらうしかないですね」
ルートが手に持っていた木製のティーセット一式が地面に落ち、ガランガランと見かけによらず大きな音を立てて転がる。何の前触れもなく彼がアウルミルに切りかかったせいだった。
しかし、完全に不意をついたはずの一撃は、アウルミルの強靱な毛皮によって難なく防がれてしまっていた。
「それ、ずるくないですか? ただそこにいるだけで生き恥を晒している異端なんですから、甘んじて刃を受け入れるくらいの度量を見せてくださいよ」
「はは、だから甘んじて受け入れてやったろうて? 我輩に文句を言うくらいなら、この程度の障害も突破できない自分の非力さを呪うといい」
「分かりました。これで死んでくれればと楽な手段に甘んじてしまった自分を恥じながら、今回の経験を教訓とさせていただきますね。さようなら」
わずかに朱のさした刀身にうっすらと光が灯る。すると、余裕そうな表情をしていたアウルミルの顔色が露骨に曇った。
「なんと、貴様……貴様のほうが姑息ではないか」
「僕は魔力操作が得意ではないので、今みたいな不意打ちをする時には瞬時に刃に魔力を通すことが難しいんですよね。だから、奇襲の成功率を優先して攻撃の成功率は無視してしまったんですよ。つまり何が言いたいかというと、きちんと手順さえ踏めば、あなたの言う障害程度、突破するのは容易いということです」
じわじわとアウルミルの丸太のような首に沈み込んでいく刃。刀身から放たれる燐光は魔力の輝き。全身に魔力を通わせることで身体能力を向上させられることはよく知られているが、手に持っているものなども自分の一部として認識することでその性能を向上させることができるのだ。
しかし、分厚い筋肉の抵抗を受けて、刃は遅々として進まない。その上、おもむろにアウルミルが立ち上がる。
「むぅ、あなた、土壇場でそういう悪足掻きは見苦しいですよ」
「討伐に来たと言われて、はいそうですかとおとなしく殺されてやるだけの義理が我輩にあると思うか? 文句を言う暇があるならさっさとこの首の一つや二つ、切り落としてみることだな」
コツコツ、とアウルミルが分厚く鋭い爪で自らの首に刺さった刀身をつつく。
「くっ……だってあなた、立ったじゃないですか。さっきは座ってたのに。あなたが立ったせいで、僕は今あなたの首元に刃を当ててるだけでも大変なんですよ! 身長差倍近くあるんですからね!?」
実にごもっともな指摘。腕を伸ばして精々二mというルートの矮躯では、刀の長さを加味したとしてもアウルミルの巨体がまっすぐに立ってしまえば、頭まで切っ先を届かせることすら至難の業となってしまう。
それでもこの好機を逃すまいと、つま先立ちで必死に刀をアウルミルの首筋に当て続けるルート。彼の胴体よりも太いアウルミルの腕を躊躇なく鷲掴み、支えにすることで少しでも距離を縮めようとしゃにむに努力している。
「あ、もふもふ……」
「おい、貴様、ちょっと目的変わってきてないか」
もふ……と腕の毛にあごを埋めたルートを見て、思わずツッコミをいれてしまうアウルミルだった。
「いえ、心外な。僕はいつだって大真面目ですよ。こんな風に」
しかと掴んだ相手の腕をするすると登り、なんだなんだと目を白黒させているアウルミルの頭を両の太股でがっちりホールドすると、ルートはそのまま「えいっ」と相手の首を掻っ切った。
半ば支えを喪った巨大な獣の頭を、赤子を抱くように優しく全身で包み込み、全体重をかけて傷口とは逆の方向に引っ張り倒す。ぶちぶちと繊維の切れる音が響き、ごきりと軟骨の砕ける音がした。
「おっとっと」
千切れた頭部と共に背中から転げ落ちそうになったルートは、しかし、ほんの二m程度を落下中に器用に姿勢を整え、今し方引きちぎったばかりのアウルミルの頭を下敷きにして着地する。
首の断面から吹き出る血が天幕の天上を濡らし、雨のようにしとどに降り注ぐ中、ルートは自分が下敷きにしている頭部へと声をかけた。
「なにだんまりを決め込んでいるんですか。首を落とされたくらいで殺せるなら、もう百年は前に滅ぼされているでしょう、あなた。わざと傷の再生もしなかったくらい露骨に死んだふりをされたら、流石にこちらも萎えますよ」
はーーーーーー、と深いため息をつきながら、物言わぬアウルミルの後頭部にざくざくと刀の切っ先を刺すルート。
「少しくらいぬか喜びしていればまだかわいげのあったろうに……初めから茶番と分かっていながら、それでも確実に首を落としにくるとは、貴様のその執念はいったいどこから来ておるのだ」
それまで微動だにしていなかったアウルミルの頭部が、急に「狂信者の思考は理解しがたい……」と呆れた声で口を開いた。
「狂信者、ね……それはあなたの方では?」
「ふ、狂人に自覚なしは世の常か」
「なんですか、その笑み。出会ってまだ数分の相手にそんな悟ったような顔をされたくはないんですが」
「出会ってまだ数分といえど我輩の方がはるかに人生経験は上。お前のような青二才には無理でも、我輩にはお前がどういう人間なのか手に取るように分かるということだ」
「つまり老害という訳ですか」
「おい、待て。何故そうなる?」
「相手の話をろくに聞かずに、自分の経験からきっとこいつはこんな奴だと決めつけてかかってくる相手は、老害と呼ぶのだと姉から教わりました」
「ずいぶんと攻撃的で威勢のいい姉君だな。まぁよい。多少骨のある相手ではあるようだし、我輩ももう少しまともに遊んでやるとしようか」
飽きもせずぶすぶすとアウルミルの後頭部に刃を突き立て続けていたルートの襟首を、アウルミルの首なし胴体の方がひょいと掴み、天幕の外へとぞんざいに投げ捨てる。いきなり何を、と思いつつも、ルートは難なく空中で姿勢を整え、天幕の内側から視線を外すことなく着地する。
「さすがに一暴れするのにあの広さでは狭いだろう。周囲の天幕も少し巻き込むだろうが、まぁ、元より我輩を討滅するための部隊が設営したものだ、我輩に破壊されるというのであれば本望というものだろうよ」
接着した首の具合を確かめるようにごきごきと音を鳴らしながら、あっという間に完全回復したアウルミルが天幕の内側から悠々と姿を現す。
アウルミルの全身を覆う強靭な毛並が一瞬逆立った。齢数百年は固いという大吸血鬼の防御術式が展開されたのである。つまり、ここまでは本当に『遊び』だったということ。
「いや、それだけでは不十分ですよ。僕と戦い、その剣戟に見事討ち倒されるところまでいって、ようやく本望というものです。なので、潔く死ね」
「は、威勢だけはよいことだな」
そうして再び戦闘が始まり、今へと至る。
***
明かり一つない闇の中で神速の剣閃が疾る。鋼鉄すらも易々と切り裂いてしまうのではと思えるほどの鋭いそれは、けれども、防御術式の展開された獣王の毛皮相手には傷一つつけることさえできない。
それもそのはず。闇の中では刀身に魔力を通すと刀身が淡く光り、剣筋が丸見えになってしまうのだ。故にルートにはアウルミルの強靱な毛皮を打破するための有効打がなく、猛攻を繰り出すことで足止めするので精一杯だった。
「あぁ、もう! 本当に堅いですね! 何が楽しくてそんなカッチカチになってるんですか!」
「ふはは、堅くなること自体は何も楽しくなどないが、貴様の苛立った顔を見るのは楽しいと言ったらどうする!?」
「ええい、こちらが打つ手なしなのをいいことに、また性根の腐った発言を!」
「ははははは!」
息もつかせぬ連撃を数分にも渡って放ち続けたせいか、ルートの剣速がわずかに遅くなる。その瞬間を過たずに見抜き、アウルミルがついに彼の剣閃を捉えた。
「ふん、この程度か。思ったよりは楽しめた、か」
神速。故に数百年の時を生きた大吸血鬼ですら捉えることのできなかった刃が、アウルミルの巨大な手のひらに鷲掴みにされている。恐ろしいほどの切れ味を誇るその細い刀身も、アウルミルの巨大な手の中にあっては、少し力を入れれば折れてしまいそうなほどか弱く見える。
「まさかたった一人しかおらぬというに、手数で圧倒することでこの我輩を封殺しようとするとはな。その発想をしたものは何人もいたが、見事実行しえたものは貴様とあの鉄拳小僧くらいのものよ。だが、どうやら貴様はあの小僧には及ばんかったようだ。実に惜しいが、まぁ、久しぶりに楽しませてもらった礼だ。貴様のことは苦しまずに殺してやろう」
アウルミルがルートの頭に手を伸ばす。その大きな手のひらにかかれば、ルートの華奢な頭など赤子の手をひねるように握りつぶせるだろう。
「……あの小僧というのは、レオン殿のことですか?」
「ん? いや、知らんが……もしそうだった場合はどうなるというのだ?」
「ん? いえ、別に? どうもしませんよ?」
自分の頭を巨大な手のひらにすっぽりと包み込まれても、全く臆する様子のなくルートが応える。
しかし、アウルミルはそのことを不審には思わなかった。たまにいるのだ、死を目前にしても平然としていられる人並み外れた胆力の持ち主が。
ルートの態度があまりにも自然体だったため、豊富な経験を持つアウルミルは、ルートもその類の人間なのだと判断してしまった。様々な相手と対峙してきた経験を持つが故に、そう判断させることこそがルートの狙いなのだと気付くことができなかった。
その一瞬の油断。それをルートはずっと待っていた。
何故ルートは有効打にはなりえないと知りつつも、頑なに剣戟にこだわったのか。彼は決して、諦めずに攻撃し続ければ、いつかは相手の鉄壁の防御を打ち破ることができるかもしれない、などという淡い期待をいだいていた訳ではない。
むしろその逆。今の彼の腕では、どれだけあがいたところでアウルミルの防御を破ることはできないことを、彼自身が最もよく理解していた。
なにしろ、彼が生まれてこの方ひたすらに研鑽し続けた剣の腕である。いまだ自分は道半ばの身であり、どれだけ手を伸ばしても決して届かぬ高みがあることを、彼は痛いほどよく理解していた。
そして。
だからこそ。
彼は刀による攻撃にこだわり続けた。
つまり、彼にはまだ刀以外の攻撃手段があるかもしれないと警戒することをアウルミルがつい忘れてしまうまで、徒労と知りながらも根気強く、今にも息が上がりそうなのを隠して、目の前の相手に傷一つつけることすら能わないにも関わらず『天剣』などともてはやされている絶技を振るい続けたのである。
ただひたすら、この一瞬を待ち望んで。
「
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