二幕:月は人ほどにものを言う①

 周囲に建物の影など欠片もない地下迷宮の入り口に、着々と野営の準備が整っていく。日が沈むまでに作業を完了させねばならないので、皆、静かに地平線に近づいていく夕日を横目に見ながら、あくせくと手を動かしていた。

 真っ先に設営された本陣たる大きな円形天幕の前で、ゆっくりと周囲を見回しているのは、今回がジャッジメントとしての初陣になるルート・フォン・スフィール。外見だけ見れば可憐な美少女のようだが、最年少で聖教会の精鋭中の精鋭たるジャッジメントに抜擢されただけあって、その佇まいは実に悠然としている。

 出発直前まではどこか浮き足立った様子だったのだが、今の彼にはそんな気配は微塵もない。彼が部隊の前から姿を消していたほんの小一時間ほどの間に何かがあったのは確実なのだが、まだその「何か」について彼に直接問いかけられるほど、隊長と隊員の間に友好関係は築かれていないのだった。

 周囲に闇の気配が濃くなり、そろそろ「夜」の足音が聞こえてくる段になって、ようやく野営地の設営が完了した。設営作業に当たっていた隊員たちは、全員本陣の前に集合し、隊長であるルートから労いの言葉を受けていた。

「皆さん、お疲れさまです。もう知っているかとは思いますが、明日の早朝にはレオン殿が港に到着し、その足でこちらに向かってきてくれる手筈になっています。そうしたら、あとは地下に潜む卑劣な吸血鬼たちを一匹残らず討伐するだけの簡単なお仕事です。初陣ということで少し頼りなく思われているかもしれませんが、皆さんを失望させるつもりは毛頭ありませんので、皆さんも僕の期待に全力で応えてくれることを願っています」

 そこで一旦言葉を切ったルートは、作業を終え、少し顔に疲れがにじんでいる隊員たちの様子をぐるりと見回し、にっこりと微笑んだ。

「では、明日の朝まで、短い時間ですがゆっくりと鋭気を養って置いてください」

「あぁ、すみません。ちょっといいかな?」

 解散。とルートが口にしようとした瞬間、まるで見計らったかのようなタイミングで背後から声がかけられた。

「はい、なんでしょうか?」

 言葉はあくまでもにこやかに、なごやかに。けれども、振り返りざま、ルートは背後にいる何者かの首めがけて、神速の抜刀を繰り出していた。相手が何者かなど見当もついていない。故に、首もとめがけての居合いも、声のした位置からおおよその当たりをつけて放っているにすぎない。

 けれど。今。このタイミングで。彼に背後を取られていることをわざわざ教えてくる相手など、どう考えてもただ者などではない。

 よしんば本当にただの通りすがりの無関係な第三者であったとして、この速度で抜刀しておきながら、相手の姿を視認してからでも寸止めで終わらせることができるだけの自信が、ルートにはあった。それ故の、後の先を狙った一撃である。

 が、しかし、彼の目論見は残念ながら外れることになる。刀身が全て鯉口を切るよりも早く、振り向きざまの彼の視界に、自らの首もとに迫り来る刃が映った。つまるところ、相手も同じことを考えていたのである。

 自らの剣速をはるかに上回る相手の練度に素直に羨望を覚えつつ、自身の喉に刃が沈んでいく感覚を受け入れるルート。けれども、決して目をつむるような真似はせず、最期の瞬間まで五感を総動員して自らの対峙していた相手の情報を全力で収集する。

 まず目に入ったのは、ゆらゆらと刃紋の波打つ妖艶な片刃片手剣(ハーフ&ハーフ)。次いでそれを持つ骨張った手と適度に金属のあしらわれた、ともすれば平服と見紛ってしまいそうなほど自然体の鎧。背後でたなびくビロードのごとき豪奢な金髪は、見事と言うほかない。

 そして、最後に目に入ってきたのは、夕闇を照らし出す斜陽のごとき深紅の瞳。思わず背筋が震えるほどの美貌に爛々と輝く二つの宝石。わずかに口元が緩んでいるように見えるのは、いったい何を思ってのことなのか。それは、もうすぐ意識の途絶えるルートには知りようもないこと。


 ……の、はずだった。


 瞬きするよりも短い時間でルートの細い首は両断され、断頭の衝撃と噴出する血の勢いとでしばし宙を舞った彼の頭部は、あえなく地へと落ちる。何度かバウンドしたあと、足の短い草の上をゴロリと転がり、光の失われた瞳が、呆然と虚空を見つめる。

 それで終わり。の、はずだった。

 ルートは薄れゆく意識の中で、どこかから、なにかから、視線を感じた。

 どこにいるのか、どんな相手なのか、何もかもが一切分からないというのに、けれども、こんなところで終わることなど許さないという意思だけは伝わってくる。あまりにも強いその意思は、まるで全身を業火に炙られているかのよう。

 そこで彼ははたと気付くのだ。

 そう、まるで全身を業火に炙られているようだと。

 今しがた両断されたはずの首から下の感覚が、はっきりと存在していることに。

 呆然と見開かれていた瞳に、光が戻る。

「狼狽えるな! これは幻術だ!」

 一喝。

 突然の凶事に動揺する部下たちを叱咤する。

 きちんと首がつながっているのでなければ、こんな大声など出せるものか。その認識が、より自らの体が無事であることの自覚を強くする。

 自らの体が健在であるなら、たとえ視覚的には首一つであろうとも、目の前の相手に刀を振るうことなど造作もない。

 神速の抜刀が唸る。

 けれども、相手は悠然と、口元に浮かべた笑みを崩すことなく、あっさりと剣戟を素手で受け止めてみせた。

「驚いたな。まさかわずか二百回程度のループでこの『封印』を突破するとは。百年に一度の逸材という話は、どうやら嘘ではなかったようだ」

 自分の攻撃を打破されたというのに、どこか楽しげな様子すらある相手。ルートの放った渾身の一撃を苦もなく白刃取りしてみせる程度には実力に隔たりがあるので、それもさもありなんということなのだろう。

 だが、ルートの狙いは、その余裕に付け入ることにこそあった。

 指先で摘むように受け止めた刀、それが突如として爆発した。自分を巻き込むことも厭わない捨て身の一撃。さすがにこれは予想外だったのか、それまで緩く弧を描いていた瞳を見開き、金髪の青年は驚きを露わにする。

「ははは、少し君を見くびっていたようだ。すまない。まさかここまで躊躇なく自分の命を軽んじることができるとは思っていなかったよ」

 爆煙の中から、けれどもさしたるダメージもない姿で現れた青年は、わざとらしく煤を払う仕草をしながらルートに告げた。

「それはどうも。見た目よりも動揺してくれたおかげで、僕も助かりましたから」

 同じように爆煙の中から姿を現すルート。そこにいたのは草むらを転がる生首ではなく、きちんと首と胴体のつながった姿。突然の爆発に青年が虚を突かれた隙を見逃さず、そのわずかな時間で自らにかけられた幻術を解除していた。

「あなたが何者か僕には見当もつきませんが、僕らの正義を邪魔するというのなら、たとえどんな思惑があろうとも、僕らにとっての悪だと断じて排除します」

「君は……彼我の実力差が分かっていないのだろうか?」

「まさか。僕では逆立ちしてもあなたには適わない。そんなことは初撃で分かっています。けれど、それで逃げ出す訳にはいかない立場にあるんですよ、僕も」

「なるほど。難儀な立場にいるものだね」

「えぇ。ですから、僕としてはあなたが陽動は十分と判断してこのまま引いてくれるとありがたいです」

 微笑み、正眼の構えを取るルート。口ではそう言いつつも、逃がすつもりなどさらさらないのがうかがえる。

「ははは、目は口ほどにものを言うとはまさにこのことかな。まぁ、今君の言ったとおり、陽動の役は十分に果たしているので、私はこのまま失礼するんだがね」

 先ほどまでのものとはまた違う、どこかおどけた笑みを浮かべる青年。

 次の瞬間、音もなく目と鼻の距離まで詰めてきていたルートの突きが青年の喉を抉った。

「なんて言うはずがないだろう。吸血鬼きさまのような神の恩寵も理解できない低脳、差し違えてでも排除しなければ、信徒たちに顔向けができないんですよ」

「もちろん、この程度で倒せる相手だとは思っていないんだろう?」

「えぇ、もちろん。千回死ねという念は込めましたが、念だけで殺せるほど甘くはない相手というのは重々承知です」

 鋭く張り詰め、満ち満ちていた殺気を、あまりにもあっさりと雲散霧消させて微笑むルート。落差が激しすぎるのではと思ってしまうが、本人にその自覚はないようだった。

「今の突きは、あなたの顔は覚えたので次会う時にはこの一撃で殺してやるからなという呪詛です。できればあなたの本体にも届いているといいのですが」

「ふむ、ふむふむ。それなりに勘はいいようだが、少し足らないね。惜しいことに。あぁ、実に惜しい」

 その発言を受けて、初めてルートが怪訝そうに眉をひそめた。今自分の目の前にいる相手は幻術で作り出された偽物にすぎないが、どこかに本体がいるはずだ。その理解は正しいはずだというのに、何が惜しいというのだろうか。

「つまり、こういうことだよ、君」

 指先で軽く自分の首に突き刺さったままの刀を弾く青年。それを合図に、彼の首にひびが走る。否。首だけではない。ルートの刀が突き立っている部分を起点として、空間そのものがひび割れていっている。

 これにはさしものルートもぎょっと目を見開く。

「これは……この空間そのものが……!? でも、いつの間に……!?」

「かけられた自覚のある幻術など、幻術でも何でもない。ということさ。君がこんなにも短い周回で一端だけでも認識したのには、素直に驚かされたけれども」

 今ではひび割れは青年の首もとから足下や上空にまで伸び、地平線の果てまで広がっているはずの草原が、ディスプレイに映し出されていたただの映像にすぎなかったかのように平面的に崩壊していく。遠近感の狂ったその光景にしばし唖然とするルート。

「さて、これは自力で幻術に気付いた君へのサービスだよ。このチャンスを活かせるかどうかは君次第だ。せめて健闘を祈ろう」

 既に粉々に砕け散り、細かい破片となった青年の声が、崩壊を続ける空間の中にこだまする。その言葉の意味がすぐには理解できなかったルートだが、自分の視界にあるもの全てが幻覚だったこと、そして自分はいつから幻覚の中にいたのか全く分からないこと、それらの事実から、空間が完全に崩壊し、現実世界へと回帰するまでの間には、彼の言わんとしていたことをほぼほぼ理解していた。

 つまり――

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