一幕:身を焦がすは水の底③

「何か……来る? いや、いるだけ。これはもしかして、待ちかまえてる……?」

 この大陸ではポピュラーな便利エネルギーである「魔力」とはまた違う「気」と呼ばれるもので前方の様子を窺う風花。陣術使いであるシヴァたちが不得手とする索敵を、代わりにこなしていた。

「サイズは? 分かるか?」

「うーん、周囲に比較対象っぽいものがないので正確には分からないっすけど、たぶん馬車並にでかいっすね……あ、いや、違う。もっと大きい。比較対象あった。平屋よりでかいっす、こいつ」

 その言葉を聞いて、リーゼリットが露骨に顔をしかめた。

「それはつまり……ちっ、まだ活動期には早いはずなんだが……」

「あー……魚竜、ね。このメンバーで倒せる? 倒せそう?」

「俺はムリに一票。とりあえずマジでシャレにならんというのは分かったので、一旦引き返そう」

「待って、ルシール。風花が探知できる程の距離ってことは、あたしらの足じゃまず逃げきれない。ここはイチバチで撃退狙ってみない?」

「ぼくも倒すのはムリに一票。でも、ただ逃げるよりはこっちから仕掛けてアドバンテージ握った方が脱出には有利な気がするから、先手必勝にも一票」

「どうだ、風花。いけそうか?」

 臨戦態勢になった仲間の意見を一通り聞いたところで、リーゼリットは、判断はお前に任せるとでも言うように、風花へと話を振った。

「うーん、皆様にうれしいお知らせと悲しいお知らせ、表裏一体な耳寄り情報をお届けしまっす。今やっこさんは“食事中”みたいなので、仕掛けるなら今がモアベター。でも絵面は確実にヤバい。向こう数日は肉料理が食べられない覚悟はしておいた方がいいっすね」

「……決まりだな。シヴァ、マリー」

「あいよー、僕らの方は準備完了だぜ」

「耐衝撃防御に対魔力防御、二重共鳴デュアルユニゾンでできるだけ結界を補強しました」

「これなら魚人の十体二十体が束になって突進してきても平気だぜ。もう少し時間があれば乗り合い馬車が突っ込んできても耐えられるくらいの強度にできたんだけど、ないよりはマシってことで勘弁してくれ」

 シヴァの発言の意味するところ、それはつまり、身も蓋もない言い方をしてしまうなら、彼らがこれから対峙する相手の攻撃を食らえば、彼らを溺死や全身火傷から守ってくれているこの結界など、障子紙のように容易く破壊されてしまうということ。それでも、直撃さえ受けなければ、余波の水流などで結界に穴が空いてしまうという事態は防げるということ。

 本当にないよりはマシ程度の気休めでしかないが、なければ致命的なので、ないよりはあった方が安心して戦えるというもの。

 ネルの弟だというあの異能者オーヴァリアンがいてくれれば、と思わずないものねだりしてしまうリーゼリットだが、いないものは仕方がない。そもそも、彼はリーゼリットたちのクラン所属ではない。ここにいてくれれば、と願う方がお門違いという話なのだった。

「よし、術式圧縮完了。これでいつでも移動できるぜ」

「了解だ。フロントは私とルシール、ネルとマオはシヴァたちを守れ。そして風花は、先ほど魚人たちを倒した時のあの技、あれは今回の相手にも効きそうか?」

「いや、ムリっすね。まず大きさが違いすぎっす。ウチワ扇いで岩を動かそうとしてるようなものっすよ」

「分かった。ならお前もフロントだ。相手が満腹で見逃してくれることを祈ろう」

「こんなところで祈っても、届くかどうか」

「地下迷宮って神様の管轄外なんだっけ?」

「さぁ? 知らんな。とりあえず聖書の天地開闢で生まれたという場所の中に、ここのことは書かれていないことだけは確かだが」

「へー、そうなんだ。ぼく、聖書って読んだことないから知らないんだよねぇ」

「あ、あたしもあたしも」

「お前ら、不信心で犬に噛まれても知らんぞ……」

「そもそも信徒じゃない人のことまで気にかけてられるほど、神様も暇じゃないでしょ。ぼく、信じてる宗教違うから」

「おっと、無駄口叩ける時間は終わったみたいっすね。……来ます」

 にやにやへらへらしながら雑談に興じていた風花が急に表情を引き締め、静かに刀の柄へと手をかけた。

 それに呼応して、リーゼリットたちの雰囲気も真剣なものへと変わる。リーゼリットは自身の刀に手をかけ、マオは両手に短剣を忍ばせ、ネルは手斧に延長用の柄をつけて長物に変え、ルシールは盾から剣を抜き半身を隠し、シヴァとマリエッタは手をつなぎ、互いの回路をシンクロさせる。

 彼らがこれから相手をしようとしている魔物は、魚人ではない。彼らと同じくこの水底の森に生息している種族ではあるが、魚人と比べれば圧倒的に個体数が少なく、生息域も限られているため、普通に『採掘場』に行って帰る程度では遭遇することなどまずあり得ない。

 魚竜。

 地下迷宮は様々な階層に分かれており、それぞれに種々様々な魔物が生息しているが、中にはある程度共通する外見を持つものがいる。

 たとえば、この階層で最もオーソドックスな魔物である魚人などは、外見が人によく似ているため、魚『人』と呼ばれている。他にも、獣人や蜥蜴人、鳥人、虫人などが確認されている。

 そして、『人』と同じように複数の種族の呼称に使われている名前の中に『竜』がある。

 かつて、まだ世界が原初の混沌に満ちており、そこに生まれた生命を管理するために人間たちが天より遣わされてもいなかった頃、本当にこの世界に生命が生まれたばかりの黎明の時代、その時代に世界の支配者として君臨していたと言われる種族。それが『竜』である。

 彼らは全身を固い鱗に覆われ、ぱっと見は蜥蜴によく似ているが、蜥蜴よりもはるかに巨大で、高い知能を持ち、口からは炎や氷、雷など、様々な自然現象を自在に吐き出したという。

 しかし、強大な力を振るい、かつて世界の頂点に君臨していた彼らは、天地開闢の際、世界に新たな秩序をもたらそうとする聖レヴェノスに対し、驕れる人間たちと共に牙をむいた。そのことを悔いた人間たちは不死の力を失うことで犯した罪をあがなったが、竜は決して悔い改めようとはしなかったため、神の手により地上からも、天上からも、追放されることとなってしまった。

 その後の彼らがどこへ消えていったのか、それは聖書にも記されていないため、彼らの行方を知るものはいない。

 そんな、失われた種族によく似た外見を持ち、彼らのように強大な力を秘めている魔物が、この地下迷宮にはそれぞれの階層につき必ず一種類は存在している。一説には、天上にも地上にも居場所を失った彼らは地中へと逃げ、この地下迷宮に新たな楽園を築いたのではないか、各階層に住む『竜』と呼ばれる種族は、彼らの遠い末裔なのではないか、という話もあるが、かつての『竜』と今地下迷宮に住む『竜』と呼ばれる種族とのつながりを示すものは、いまだ何も見つかってはいない。

 そして、このあらゆる場所が水に満たされた第五層に住む『竜』が、リーゼリットたちのこれから対峙する相手、魚竜である。

 前に「魚」とついているとおり、この竜は肺の代わりにエラを持ち、手足の代わりにヒレを持っている。そして、水中を自在に泳ぎ回り、魚人やその他、自らよりも小さな生き物を捕食しているのだ。

 しかし、その巨体故に基本的には活発に活動する種族ではなく、数ヶ月に一度、満腹になるまで捕食活動を行うが、それ以外の期間は巣穴で休眠している。

 現在確認されている『竜』の中でも最も巨大な体躯を持つ種族だが、巨体故の燃費の悪さを、長い休眠期間を持つことで補っているのである。

 だがしかし、魚竜による捕食活動はつい先日沈静化したばかり。再び彼らが活動を開始するには、今の時期は明らかに早すぎた。巣穴で休眠する魚竜の姿が確認された、と知り合いの情報屋から話を聞いたからこそ、他の探索者たちに先んじて第五層での採掘活動を再開したというのに、何故このタイミングで魚竜との遭遇が起きるのか。

 それは当然の疑問であるが、今のリーゼリットたちに答えを得られるだけの手がかりはない。ならば、今は全力で魚竜による捕食から逃れることを考えるのみ。

 少なくとも初手さえしのぐことができれば、脱出できる可能性は大きく跳ね上がる。無理をしてまで捕食する必要のない相手ではないかと感じてくれればいい。それだけで、既にある程度腹の満たされている魚竜は、積極的には襲ってこなくなるだろう。

 実は、空腹に駆り立てられていないのならば、魚流はそこまで危険度の高い魔物ではないのだ。

 彼方に、ぽつり、と黒い染みのようなものが浮かび上がる。それは瞬く間に大きくなり、リーゼリットたちの頭上に巨大な黒い影を落とした。

 全身を隙間なく鱗に覆われ、小屋よりも遙かに大きな体躯。蜥蜴というよりは魚に近い面長の顔。それが「魚」竜と呼ばれる由縁なのであるが、蜥蜴などとは違う瞳孔のない濁った瞳は、どこを見ているのか、ようとして知れない。

 新たな獲物を品定めするようにゆらゆらと旋回する巨大な影。いつ戯れに攻撃に転じてくるかと、固唾を飲み、上空を睨むリーゼリットたち。

 そのままどれくらいの時間が経ったのか。数秒か、数分か、緊張する彼女たちには定かではないが、そう長くはない時間が流れた後で、不意に魚竜が大きく身を翻した。

 ついに来るか……!と、その場にいた全員が得物を固く握りしめた時、魚竜の反転した方向が、彼らに向かってではなく、彼らに背を向ける方であったことに気付いた。

「あれ?」

 ネルとマオの声が重なる。

 来た時と同じようにゆらゆらと、けれども素早く遠ざかっていく魚竜のうねる尾ビレを、彼らは呆然と眺めているしかできなかった。

「なん……だったんだ、結局……」

 水底の向こうに横たわる霞の中に、露と消えてしまった巨体の影を探すように、目を細めるリーゼリット。

「わからんっすねぇ。何がしたかったのかもさっぱり」

「下見、とか?」

「何のさ」

「いや、分かんないけど」

「ふむ。こういう時はマオに聞いてみるか」

「えっ、ぼく?」

 急に水を向けられたマオは、ぽかんとした顔で自らの顔を指さす。

「そうだ。言っただろう、私はお前の勘を信用していると」

「え~~~? こういう時にそんなこと言われても、単なる無茶振りなんですけどー?」

「うわ、めっちゃ嫌そうな顔。リズー、年下イビりはダメだよー?」

「イビってない」

「えー? 本当にー?」

「本当だ」

「えー? 本当にー?」

「本当だ」

「えー? 本当にー?」

「次同じこと言ったら、お前の首に峰打ちするぞ」

「無限ループって、怖いわよね」

「よし、首を差し出せ……」

「わー! タンマタンマ! それ絶対峰打ちじゃすまないやつでしょ!?」

「今回はおふざけが過ぎたな」

「右に同じく」

「同じく、です」

「くっ、これが四面楚歌というやつか……!」

「で、これからどうするんだ? 普通に階層の入口まで戻るか? それとも、ダメもとで魚竜の跡でも追ってみるか?」

 剣を盾に納めたルシールが、とりあえず聞いてみただけ、という雰囲気がありありの態度で他のメンバーに問いかけた。

「もちろん帰るに決まってるでしょ? やぶ蛇はつつかないに限るわ」

「竜だけに?」

「竜だけに」

「あ、あの! 竜と蛇は全然違うと思うんですけど!」

「あら、マリーってばそういうの気にするタイプ? 細かいこと気にする女は男に面倒くさいって思われるわよー?」

「全然細かくない! 実在していたのかもあやしいものを上位互換みたいに言われる蛇の気持ちにもなって!」

「あ、食いついてきたの、そっちの方だったんだ……」

 思わぬ熱弁を振るってきたマリエッタに、思わずたじたじになるネル。周りの面々に視線で助けを求めるが、彼らは「面白そうだからもう少しこのままで」と目線だけで返事をしてきた。

「この薄情者ー!」と目線だけで反論するネル、周りからさっと目を逸らされてしまう。

 そんなやりとりを横に、マオは魚竜の去っていった方向をじっと見つめる。

「ん? 何か見えるっすか?」

 気付いた風花がわずかに屈み、目線をマオの高さに合わせた。

「んーん、別に何も。ただ、本当にこっちのこと観察してただけなら、微妙に厄介かもなぁって思っただけ」

「ふぅん? まぁ、難しいことを考えるのはリーダーたちに任せるっすよ。あたしは気楽に刀を振るうだけっす」

 のんきに頭の後ろで手を組む風花を横目に見ながら、マオは言いかけていた言葉の残り半分を、音に乗せることなく舌の上で転がした。


「だってあいつ、とっくの昔に死んでるみたいだったし」という言葉を。

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