ここ吹け恋
笹霧
ここ吹け恋
文化祭が間近に迫っている。そのせいか
窓ガラスの外を見やる。外ではトンボが飛び交い、セミの鳴き声がガラスを突き抜けて廊下にまで響いてきた。制服が肌に張り付く不快感。見えてくる教室内は廊下と違って涼しそう。羨ましく思っていると、そこを
黒板の前の段差に上り教卓に束を一度置く。バッグが重たいけど私は先にプリント一種類を再度持った。置かれていた束に横から手が伸びてくる。
「三宅さん。手伝うよ」
日野原君が荷物を置いてすぐに来てくれていた。哉影君も来てくれて残ったプリントを配ってくれる。当然私が一番に配り終わった。席に座り二人を待つ間に静香とお喋りをする。
普段静香とは当たり障りのない落ち着いた会話をしていた。中学ではもう一人、騒がしい友人が私達を引っ張っていたから、その友人が離れると私達の間にはどこか簡素な話しか流れなかった。特に仲が悪いわけじゃない。彼女がそういう人で、私はそういう関係をよしとしていただけだった。
でも、私は彼女のことが嫌いだったりするだろうか。誰であっても態度が変わらない彼女は女子からも男子からも頼られていた。態度というのは割と無意識に変わってしまうものである。日野原君を始めとした男子は女子への相談を静香にしていた。
思わず静香の顔を見つめていた。髪が長く、私より少し小顔で綺麗な目の人。
プリントを配り終わった日野原君と哉影君が席についた。私は先程までしていた話を二人に振る。他のクラスメイトも加わっていつもの朝が始まった。
また、いつもの日々だ。
好きな人の顔を見る。何でもない顔をしていつも誰かを助けている優しい顔。だから、彼の周りにはいつだって人が居た。
彼が私だけに優しかったら……なんて考えてしまう。また同じクラスに高校でなれて、また話ができるようになった。けど、私はここからの関係が進められない。あの時から変わっていないのはどうしてか。
…………怖いから、だよね。
溜め息をついていると先生から文化祭の出し物を何にするか、案を幾つか考えるように言われた。日野原君が哉影君と共に助けを申し出てくれる。やっぱり彼は優しい。私、
男の子を追いかけて私は走っていた。そばに居たいのに彼はずっと遠くに居ようとする。待つように願うも私の声なんて気にもせず離れていった。
暫く走ってやっと追いついた、と思ったらあの女が私の目の前に居た。秀がずっと追いかけていた六つ歳が上のお姉ちゃん。
「そんなんじゃ、彼を取っちゃうぞ」
嫌な夢を見た。ふつふつと湧き上がるものが眠気をどこかへと追いやる。今日は土曜日の午前六時。まだ寝ていたいのに、あの顔が忘れられなくて寝られない。ベッドのそばのクローゼットを開ける。私は居ても立っても居られなくて家を出た。
久しぶりに郁珂お姉ちゃんの顔を見たせいか、自然と足は懐かしい場所へ歩を進めていた。私の家からそこそこ遠い公園。お姉ちゃんが居た時に何度も遊んでいた場所だ。
あの頃に楽しい思い出は少ない。悔しい思い出はたくさんある。
霧が少し出ている公園の中を歩く。池を囲む程度の小さな公園で、誰かがジョギングをしているのに気付く。速くない、呼吸も安定してないけど背筋の伸びた姿勢で走る姿。
どこか既視感を感じながら眺めていると、その走っていた人物がこちらへと来た。それが誰か分かった時、胸の奥に寂しい痛みを感じた。
日野原君が私の前で足を止める。俯いて肩で息をする彼はとても苦しそうに見えるけれど決して膝に手を置いたりはしない。呼吸が整ったのを見て私は声を掛けた。
「また走り始めたんだ」
「うん、思い出したからね」
思い出したからと言われて心がざわめく。日野原君が思い出したのはきっと郁珂お姉ちゃんとの約束。あんな昔の、守る必要のない言いつけを彼は。
私も走ろうかな。
そう思ったけど止めた。運動靴じゃないとそう長くは続かない。
「どうせもう少し走るよね。ベンチで見てる」
「風邪を引く前に帰りなよ」
日野原君は高校生になった身長であの道を行く。郁珂お姉ちゃんは決まった時間まで走り続ける人だった。後を追って走る彼を遅くても走らせ続けていた。今走る彼の姿に小さい幻影が重なる。
いつまでもお姉ちゃんは邪魔をするんだね…………。
休日明けの月曜日。教室に入って来る日野原君。彼が
そばに居る時間は私の方がずっと長かったのに。遊ぶことも私の方が多かったのに。あんなトシウエなのに
私の…………あげたのに……もおっ。
お弁当箱にある揚げ物を取って口に放り込む。
いつもの冷凍食品だけど……ってあれ、こんなに美味しかったっけ。
「聞いてるの、葉子……あ、ああああっ」
「え」
静香が口を開けて私を恨めしそうに見ている。箸が空を掴むように開け閉めしていた。もしかしてと自分の弁当箱を見ると一つだけ入れていた揚げ物が減っていない。この子の表情からも私が間違って食べてしまったことは明白だった。
「ご、ごめん。代わりに――だよね」
静香は目に見えて落ち込んで首を横に振る。沈む肩を日野原君が優しく叩いた。弁当箱を持ち上げて中の揚げ物を指している。静香は満面の笑みでそれを頬張った。そんな静香を見る日野原君が気になる。その視線に何か意味があるような気がしてならない。
「何かあったの」
哉影君が弁当箱を閉じて聞いてくる。何でもないのと笑って残ったおかずを食べていった。
午後の教室が振り分けられる数学の時間。お昼の二人がどうしても気になった私は、ちょうど隣に座る静香の様子を探ることにした。隣に座る静香は中学から見ている雰囲気と変わったりはしていない。日野原君と実は付き合ってました、なんてことはなさそうだけど。
私がそんな風に思っていると、今度は静香から話しかけられる。のんびりした心持ちでいると、思わぬ質問で思いっきり咳込んだ。
「た、誕生日かぁ」
昨年は何も無かったのにどうして今年……。
じっと見つめる。静香は照れる様子もなく首を傾けて悩んでいた。好きだとしてもラブじゃなくてライクの方に見える。けど、日野原君の方がどう思うかは分からない。彼女を遠ざけたくて、分からないやと言って謝った。
「文化祭が終るまで考えてても良いんじゃない。一ヶ月ぐらい先だし」
手伝えなくてごめん。けど、彼の好きなものは私があげたいから。
重たい胃を引きずって日が傾く通学路を一人帰る。そんな私の頭の中は静香の意外な言葉で一杯だった。
誕生日プレゼントをあげたいってどういうことだろう。静香は日野原君が好き。日野原君は静香が好き。いや、いやいやない。
疑いが焦りのせいで払いきれない。否定すればするほど不安は増していく。私の嫉妬深い心は大きくなるばかりだった。奥歯を噛み締める。
この苦しみをどれだけ我慢すれば良いの。もう言っちゃえば……でも好かれている自信なんてない。私の意気地なし……。
文化祭まで二週間を切った。出し物は洋食系に決って、今は教室全体の飾り付けを皆で分担して作っている。放課後だけど帰る人はいない。もう少ししたら部活組は抜けるけど、たぶん人手は大丈夫だろう。先生が教室に来たので、幾つかに分けたグループから一人ずつ呼ぶ。作業の進捗具合は良いらしい。
「問題ナシね。じゃ、解散」
それぞれの持ち場へ戻って行く中で一人が申し訳なさそうに残っている。話を聞けば買い物を忘れていたらしい。私の仕事は家でもできるし急ぎじゃない。代わりに買うことを申し出て作業に戻らせた。
手元のノートに視線を向ける。書いてあるのは料理の一覧や予算と……他愛もない落書き。男の子らしい下手な落書きを指先でなぞる。書いている方は一生懸命描いているのは知っているのだけど、どうしても笑ってしまう。
日野原君が見たらまた怒られるかな。
「あのな」
「ひゃいっ」
隣に居た日野原君の顔を恐る恐る窺う。怒ってはいなさそうだけど、呆れているような。
「あ、別に笑ってないよ」
「まあいいよ。で、聞いてた」
首を横に振る。彼は隣の椅子に腰を下ろした。
「何か手伝うことないかな。一通り作ったけど問題なしだから」
日野原君は料理班だけど、実家がお店なら練習はそこまでいらないらしい。少し悩んで辺りを見渡す。回す必要はなさそうだった。ピンときて彼の表情を見る。これはデートのチャンスか。
「買うものがあるんだけど手伝って欲しいな。量が多くて」
「量が多いね、理」
量の部分を気にした日野原君は哉影君を呼んだ。荷物を
「何かな」
「荷物持ちの手伝い。多いらしいから」
「……良いの」
何を聞かれているのかは考えたくない。顔を隠しながら良いのと返した。
少し余分に買ったからか三人の手にはそれぞれ袋が下げられていた。夕日の時間帯。茜色に染まる空を見上げて立ち止まる。色に誘われて盛大に溜め息をつくと日野原君に心配された。君のせいだよとは言えず、重たくてと誤魔化す。
ふと胸の内に痛みが
これは、夕日のせい。夕日のせいだ。
欲求という風船がみるみるうちに膨れ上がっていく。これ以上いくとあの時みたいに――――。
「んっ」
一瞬触れた指先。何が起こったのか分からず、触れた指の先の日野原君を見つめる。その瞳には特別なものはない。高まっていた気分は一気に落ち込んで平静になる。
手を離れていた荷物は日野原君が持っていた。軽くなったことにお礼を言って歩き出す。夕日が眩しくて下を向いて教室に戻った。
文化祭で忙しいからと減らされることを期待していた宿題は何も減らなかった。水曜のお昼の教室では、四時限目の数学をやる人とご飯を食べる人で分かれていた。私達はいつも一緒に食べているから関係ない。しかし今日は一人が風呂敷を広げずにずっと空を見上げていた。
「日野原君……ねえ」
「ああ、三宅さんか」
気だるそうに返事を返す姿はらしくない。
何かあったのかな。何かあったなら力になりたい。
「何を見てたの」
「別に」
不機嫌そうに彼が首を横に振る。
「ねえ、お昼食べないの」
「ちょっとね」
「体調悪いの。保健室、一緒に行くよ」
「……」
何も言ってくれない。何に悩んでいるのか分からない。心配で力になりたいのに。
……私じゃだめなのかな。
気付くと手を伸ばしていた。でも、肩に触れた手は弾かれる。少し乱暴な程度だったけど、私にはそれ以上近付くことができなくなった。震える手をそっと背中に隠す。しつこかったことを謝りたいのに、私の唇は力なく震えるだけだった。
「秀、お前」
静かに席を立った哉影君が日野原君に詰め寄る。彼の肩を掴む手には力が籠っているのが分かる。
「……ごめん。手が少し痛いって」
「……」
落ち着いているけど凄い怒っている。こんな怒った姿は初めて見た。
「哉影君。大丈夫だから」
哉影君が手を放して椅子に座る。日野原君はばつが悪そうに風呂敷を広げた。それでも、空を見つめることを止めない。
……何に悩んでいるの。
「三宅さん、大丈夫」
「ありがとう。大丈夫だか――」
「ご馳走さまでしたっ……あれ、この空気は」
そばに居たのに静香は不思議そうに私達を見つめている。皆の顔に少しの笑顔が浮かんだ。
「あれ、静香だけなんだ」
私が教室に入るといつもの席に居るのは彼女一人だけだった。毎日一緒に来ているのに変だ。
「おはよう。もう少ししたら来る」
あくびを噛み殺して静香は小さな笑みを作った。どうしたのかな。見つめていると彼女は笑って窓の外へ顔を背ける。
私が椅子に座って荷物を机に入れると静香が向き直っていた。
「何か知っていること、話さないの」
「……しいて言うなら友情」
仲が良いとは思うけど言うほどかな。それとも何かあったとか。
「ねえ、何かあっ……たんだ」
教室の扉が開く。けど、入ってきた二人の様子がおかしかった。互いにそっぽを向いて入って来たような。それに頬が腫れている気がする。日野原君と哉影君はいつもしている会話をしないまま席に着いてしまった。
今日は久しぶりに集まらずに食べた。日野原君も哉影君も、静香まで一人で何かを考えながら食べているようだった。
チャイムが授業の終わりをお知らせする。背伸びをして硬くなった背筋をほぐしていく。重苦しい空気を振り払うように何度も伸ばした。
準備は順調だし、都合がつかない人が多いから今日の放課後の作業はなくした。時間がかからずに教室からは人が居なくなる。私は教卓の横に立て掛けていたパイプ椅子を取り、教卓に陣取った。
一人しか居ない教室はただ静かな孤独の箱になる。
勢いよく扉が引かれ生徒が私の目の前に近付いてくる。部活に行ったはずの哉影君だった。
哉影君……部活は終わったのかな。でも、まだ早いような。
哉影君が教卓の前の席に座った。朝から続く彼の様子が気になる。よそを見ていた視線が私に向けられる。孤独じゃなくなったのに教室には音がしない。
「朝から気になってたんだけど。喧嘩でもしたの」
「うん。喧嘩、したよ」
一日話さないくらいの喧嘩なのに、哉影君は喧嘩したと楽しそうに言った。私が
「三宅さんはさ、秀のことになると分かりやすいよね」
分かりやすい。茶化しているのかな。そう思ったが、続く言葉は予想とは違った。
「初めて会話した時のこと覚えてるかな」
「はじめて、はじめて」
「一年生の五月頃、将来について話し合う時間があったよね。あの時」
一年生の五月。言われて思い出した。日野原君とまだ再会する前だ。哉影君とよく話すようになったのは二年に上がってからだった。でも、そういえば一年の頃にたまに話していたっけ。
哉影君は当時した話を幾つか話してくれるのだが、私はあまり覚えていない。申し訳ない気持ちでいると彼は判っていたように笑った。
「話を戻すけど、初めて話した時に僕は自分の進路に悩んでたんだ。不安と反発心と嫉妬で。でも三宅さんのおかげで、農作業が好きだと気付いたんだ」
本気。哉影君の態度は普段の冗談で笑うお喋りのものじゃない。一層申し訳なくなるけど、覚えていないことを話した。
「そっか。僕の実家は田舎の農家でさ、夏休みはお父さんやお母さんと一緒に手伝いに行ってたんだ。農作業は楽しかったけど、行くことを断れない雰囲気が嫌で……縛られてない他人が妬ましかった」
彼は一度口を閉じた。私から窓の外に流れた視線は沈みつつある太陽へ向けられている。眩しいのか悩んでいるのか、歪む眉が皺を作る。哉影君は視線を戻すと寂しそうに笑った。
「秀には二つのことで嫉妬したよ」
「日野原君に」
「あいつは人からの頼まれごとを断らない。少なくとも僕は見たことがない」
私も日野原君が断るところを見たことない。むしろ人の手伝いは進んでやっている。自分よりも他人を優先するのを度々目にした。そんなことができるところが――――。
「……ほんと、分かりやすいね。いや、好きになるのも分かるよ」
視線に気が付いて顔が熱くなった。力なく頷くと、彼は笑って話を続ける。
「あんなに優しくて頼りになって、度量もあって……羨ましいよ。三宅さんから好かれてるのも」
「それはどういう……」
「初めて話した時のワクワクした顔。楽しいって思うなら好きだって言ってくれたこと。君は……三宅さんは僕のヒロインだから」
寂しそうにする哉影君。その目に、影に包まれる彼に息を呑む。微笑んだ彼は――――。
焦る気持ちで授業を過ごす。教師の言葉は風に流されて聞こえない一日だった。自分の中で渦巻く何かに翻弄されながら考え続ける自分。
誰かの想いを気にしたことはなかった。静香のこと、哉影君のこと、日野原君のことでさえ気を向けたことはなかった。自分が好きな人のことを、私は考えていなかった。
私は……私しか見ていなかった。いや、私自身さえ見ていなかった。見ていたのは好きという感情だけ。感情に従うだけで、感情に振り回されていた。
教室を出た私は階段を上る。日野原君が戻ってこないからだ。廊下の窓から見えた
階段を上りきった私は閉められたドアノブに手を添える。これを捻って引けばすぐに彼と話せるだろう。だけど、私の手は添えただけで固まってしまった。
でも私には逃げることは許されない。何も話せないままいつもの日々に逃げて、自分の想いや他人の想いに背を向け続けるのなんて、許せない。
昨日の哉影君は逃げなかった。判っていたことに目を逸らさなかった。
あの勇気を私は見た。私なんかのために示してくれた。臆病で嫉妬深くて、情けない私に。
日野原君はヒーローだった。出会った瞬間から仲良くしてくれた。一人の時はそばに居てくれた。遊ぶ時はいつも誘ってくれた。一番最初から今という最後まで私にはヒーローだった。
ゆっくりとドアノブを捻っていく。目線の先の彼を睨んで片足を少し前に出した。もう少しで開く。
私は優しい彼が好き。私は料理が上手な彼が好き。私は絵が下手な彼が好き。私は……。
「私は…………日野原君が好き」
渡り廊下へ踏み出した。風が吹くこの場所で彼は何を考えていたのか。ここで考えていた事が最近の彼の悩みなのだと思う。
「あの時からもう五年か」
話かける前に日野原君は独り言を呟いた。出てきた数字に私は言葉を失う。ドアの前の决意も昨日の記憶も風に流されたように失っていく。
「俺……僕は
「日野原君」
感情が私の中で
その顔は何なの。その想いは誰に向けているの。
彼の口が開く。優しくて悲しい顔で。
聞きたくないっ。そう強く思った。けど、耳は確かに彼の言葉を聞き取る。
「俺は好き、だったのかな……あの人を」
一際強い風が私の髪を巻き上げる。前髪が目の前を覆ったことで私の中の何かが決壊した。
喋り続ける彼の胸に拳を打ち付ける。右手で何度も叩く私に彼は驚いていた。
その時の私は彼に何を言っていたのだろう。私はひたすらに泣いて、喚いて、彼の胸の内に届くよう叩き続けた。叩いている間、あの日までの事、あの日からの事を私は考え続けていた。
「あの日……」
数時間前に身を投げ出したベッドから身を起こす。机の前に立って棚にしまっていた写真を取り出した。五年前くらいの写真だ。写真には私と日野原君と郁珂お姉ちゃんが写っている。
彼の気にしていた五年前。それは郁珂お姉ちゃんと別れた日。私と日野原君が遊ばなくなった日。
彼を見ているだけだった日々を思い出して手の震えが写真に伝わる。涙で視界が
――――しっかりなさいっ。恐くても、不安でも相手を見なさい。気持ちって伝わるからね。
「……うるさいよ、邪魔くさいな」
震えは収まっていた。日野原君だけじゃない、郁珂お姉ちゃんは私にも残っていた。胸の内に暖かさが灯る。
嫌な記憶ばかりじゃなかった……。
波を拭ってベッドに潜り込んだ。あの日々からもう逃げないよう、サヨナラの日を浮かび上げた。
あの日の空はよく覚えている。快晴の澄んだ青。名前を知らない花が風に吹かれて辺りを揺らめいていた。幾重にも重なる青い花。
お姉ちゃんは私たちを池を囲う程度の小さな公園にいつものごとく呼び出した。また強引に遊ばされるのかと思っていた私は不満げな顔をしていたと思う。でも郁珂お姉ちゃんは落ち着いた調子で話を始めた。遠くに引っ越すと告げたあの人。私は何を返せばいいか分からなかった。沈黙が場に広がった。どこに引っ越すの。辛うじて口に出せた言葉はそんなもので、大阪と言った彼女に気をつけてねとしか言えなかった。
郁珂お姉ちゃんは私たちを順に見て背を向ける。遠ざかる背が途中で止まって、戻ってきたと思うといきなり日野原君の頬をつついた。それをただ見ているとあの人が空を見上げた。釣られて私も空を見上げる。郁珂お姉ちゃんはちらりとこちら見ると、秀にそっと身を寄せて額にキスをした。顔を赤くして瞬きをする日野原君を見て、私の中に抑えの効かない衝動が湧いた。笑いながら去る郁珂お姉ちゃんが見えなくなると、
今やっと分かった。郁珂お姉ちゃんはあんな…………自分勝手で思いやりのない乱暴な、そんなやり方だったけど。あの人なりに私の背を押したのだと。
文化祭当日の朝。最後の準備に全員が
見慣れない赤髪を見送ったところで、材料の確認から日野原君が教室に戻ってきた。教室に入る彼と私の間に会話はない。
文化祭が始まってからは悩む暇もなく仕事に追われた。お昼にもなると店から行列がなくならない。接客班を交代で休憩に出して凌ぐ。でも時間が三時を過ぎるとさすがに客足は落ち着いてきた。料理班でずっとコンロの前に立ち続けていた日野原君。彼を休憩に回さないといけないのだけど私の足は動かない。迷っている間に彼は自分で休憩室に向かってしまった。
話さないでいられることに安堵している自分がいた。しょうがないとも思えた。私の足はいくら揺すっても動かないから。背を見送るだけだった私の前に哉影君が来る。彼は良いのと聞いてくるだけだった。
思わず後を追いかけていた。教室を出る直前振り向いた私に彼は親指を立てて笑っていた。笑顔の意味は分っている。
人の波を掻き分けて休憩室へと向かう。その間には様々な音があった。喧騒の中で響く小銭を落とした音。プラスチックの容器が
音の
ごめん。私は彼の隣に座ってそう言った。彼は私を見て首を横に振る。その目はしっかりと私を見ていた。
昔からそばに居て欲しいと思っていた。実際居てくれたことは多かった。けど、足りないなんて感じていた。そんな私の嫉妬深い部分、私のだめな部分を好きになってくれた人がいた。その人から応援されている。あの人からも応援されている。
いつだって誰かを助けている皆のヒーロー。でも彼には私のそばに居て欲しい。日野原君には私だけのヒーローになって欲しい。
郁珂お姉ちゃん……私、勇気を出すよ。理君、私も頑張るよ。伝えよう、私の気持ちを。
教室内に音は途絶えていなかった。なのに、彼と私の間には音がなかった。呼んだ声が、紡がれた言葉が相手の胸の内に吸い込まれていくのを感じる。
「日野原秀君、あなたが好きです。小学校からずっと、好きです」
ここ吹け恋 笹霧 @gentiana
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