第8話 宇治川ライン

 「ねえ、インカム、買わない?」

すばるはバイク用品のショップサイトを見せていった。

「インカムって、何?」

「無線で走りながらでも会話ができるんだよ。買うとしたらメーカーそろえないといけないしさ。」


 次の日曜日、すばるとバイク用品店に行った。

 「インカム」と書かれたコーナーに行くと、ショーケースに商品がたくさん並んでいた。3万円や5万円という値段を見て「うっ」となった。

「た、高い...。すばるちゃんは大丈夫なの?」

「バイト代、貯めてたから。」

私は再び値段をまじまじと見つめた。やっぱり5桁は私たち高校生には高い。

「あ、これなら安いよ。」

すばるが一番端にあるものを指差した。17000円。私とすばるはこれを買うことにした。

 高い買い物が終わると、外のテラスで私たちはテーブルについた。私は机に突っ伏した。今日はお金を使ったから飲み物もなしだ。

「はあ、これで貯金がすっからかんだよ。すばるちゃんはバイト代があっていいなあ。」

「私だって財布がすっからかんだよ。貯めてたとはいえバイクってお金使うし。」

すばるはかばんから飲み物を取り出して飲んだ。フルーツミックスとペットボトルに書いてあるけど、中身はきっと麦茶だ。

「でも、欲しかったから。」

「そんなに欲しかったの?」

私は少し上目遣いになって尋ねた。

「だって……。」

すばるは少し顔を赤くして、黙ってしまった。少し間をおいて、たどたどしく話しだした。

「おしゃべり、したかった。バイクに乗りながら、一緒に、おしゃべり。」

私は少しびっくりして、こそばゆくなった。

「ヘルメットを被ると、私たちは『独り』になっちゃうじゃん。何か言いたくなってもハンドサインが精一杯だしさ。何かきれいな風景を見たりしたときに、一緒にきれいだねって言ったりしたいな、って。」

唐突な話を聞かされて、私も顔が熱くなった。確かにバイクで走っているときは、私たちは互いにハンドサイン程度でしか意思表示できない、『独り』のライダーになる。きれいな風景が開けても指を差すくらいしかできない。琵琶湖や信楽を走っているときも「きれいだね」とすばると言い合いたくなるところがあった。それができるようになると思うと、段々嬉しくなってきた。

 すばるは少し間を置いて言った。

「行こう、ツーリング。」

「うん。」

私がうなづくと、すばるも笑顔になった。


 「そろそろ、あかりも宇治川ライン走れるようになろっか。」

 今日行くのは瀬田川沿い、「宇治川ライン」と言われる道路だ。有名なツーリングルートなのと同時に、これまでと別物の本格的な山道になる。地図アプリを見ても、道が左右へ曲がりくねっているのがよくわかる。

「大丈夫かな、こんな山道、初めてだし……。」

私が少し心配すると、すばるはフォローしてくれた。

「大丈夫だよ。宇治川ラインはワインディングの中では走りやすい方だよ。交通量も多くないし、センターラインがちゃんとあるし、アップダウンも小さいからカーブに集中して練習できるよ。」

すばるの優しそうな顔を見ると、気持ちもほぐれてきた。

「そうなんだ。確かに、すばるちゃんもいるから大丈夫だね。」

そういうとまたすばるは照れて目をそらした。すばるは照れ屋さんだ。


 「ブンブン、ハロー、アカリ」

「ふふっ」

インカムをセットアップすると、すばるは有名タレントの真似をした。唐突な物真似で少し笑ってしまった。インカムのおかげで、こんな他愛もないおふざけも聞こえるし、それに生じる感情も筒抜けだ。

「じゃあ行くよ、あかり。」

「うん。」

いつものコンビニを左折で出る。でも今日は、すばるの声が聞こえる。

 でも出発してからは運転に集中してしまって、互いに無口になった。エンジン音だけを響かせながら、私たちは湖岸道路を南下する。

 途中の道しるべに「夕照の道」と書いてある。私は読み方がわからなかった。

「『夕照の道』だって。なんて読むのかな。」

インカムを通じて独り言が筒抜けになる。

「うーん、『ゆうてるのみち』かな。」

すばるもわからなかったみたいだ。後で調べたら、「せきしょうのみち」と読むらしい。


 突き当たりを右折して、洗堰を渡った。琵琶湖と瀬田川を分ける瀬田川洗堰。ここから先は琵琶湖じゃなくなる。

「ここからが宇治川ラインだよ。」

段々建物も少なくなってきて、瀬田川が近くなる。だけどまだカーブはきつくない。

 瀬田川を左手に、いくつかの橋の横を通りすぎた。そしてある橋の前を通りすぎたところで、私たちはバイクを止めた。マップを見ると「曽束大橋」と書いてあった。

「ここからが本番だよ。」

すばるはヘルメットを脱いでそう告げると、ペットボトルの麦茶を1口飲んだ。私は進んできた方向の道路を見た。センターラインが消えて、強烈な上り坂になっている。私は思わず心配になって、すばるに尋ねた。

「えっ、ひょっとしてこれ登るの?」

すばるは私と同じ方を向いて何かを思い出したような顔になって笑った。

「ああ、こっちじゃなくて橋を渡る方だよ。」

私は橋の方を見た。向こう岸は登り坂の方よりはマシそうだ。

「まっすぐ行く方はものすごい山道だよ。でも分かりにくくて、私も最初に来たときはまっすぐ行っちゃったんだ。途中で気づいたけど。」

 一応公道で長く駐車するわけにいかないので、一息着いたらまもなく私たちは出発した。橋を渡って右折すると、まもなくきつい左カーブにさしかかった。すばるは左に車体を傾けてスムーズに曲がっていく。私はハンドルを握りしめて、なんとか左に曲がった。

 ほどなくして再び左カーブ。路面の黄色いボーダーがRのきつさを警告する。その警告通り、90度に近い鋭角カーブが目の前に来る。イン側の車線にいるので、見通しの悪いきついカーブになる。

 カーブを抜けて顔を上げると、すばるは相当先にいた。カーブを通り過ぎる度に、すばるとの距離は離れていく。排気量だけでなく、ライディングテクニックの差もあるのだろう。きついと思ったカーブは緩くもたついてしまい、緩いと思ったカーブはきつく焦ってブレーキをかけてしまう。

 すばるはますます遠くへ行ってしまい、私は心細くなって思わず声を上げた。

「待って……、待ってよ……、すばる!」

いくら心細くても、バイクは先へ進んでいく。

 そして先が見通せない断崖のような左カーブに差し掛かる。もし曲がりきれなければ、その先は崖と湖。飛び込んでくる「死亡事故発生」の文字。怖くなって半ば無意識に右手の指に力が入る。前のサスペンションが縮む。それでも目の前にセンターラインが近づいてくる。

 その時、インカムから声が聞こえた。

「あかり!」

私を呼ぶ声。握っていたフロントブレーキが緩み、前傾になっていた車体が戻る。きつすぎたブレーキのおかげで速度も落ちていたので、交差点を左折する時の要領でカーブを曲がりきった。

 目線を上げると、すばるがいた。速度を落として待っていてくれたのだ。

「ごめんね、あたし、つい……。」

道は再び右へカーブして橋を渡る。橋の先は丁字路になっていて、私たちは右ウィンカーを出して曲がった。

 ワインディングはますますさらにきつくなった。すばるは相当速度を落としてくれて、何とかついていくことができた。今度はすばるの姿がずっと見えているし、すばるも私に合わせてくれている。だけど、私は一言も交わさなかった。

 減速を促すボーダーが入った下り坂を過ぎて、私たちは大きく右折して側道に入った。大きな吊り橋の近くに私たちはバイクを止めた。

「さっきはごめんね。」

ヘルメットを脱ぐなり、すばるは謝ってきた。

「ここは慣れるとすごく楽しいからさ、つい飛ばしちゃって……。」

自分の機嫌が悪くなってるのがわかった。「怖かった」と正直に言いたいけど、何かが言葉をせき止めてしまう。じゃあ「大丈夫だよ」と言ったらいいのだけど、私の気持ちが大丈夫じゃないから、それは嘘になってしまう。もやもやした気持ちの中から、なんとか言葉をひねり出す。

「意地悪……。」

理屈では私の技量不足と排気量差のせいだ。それでも口をついて出てしまった。すばるも私も、何も言えなくなる。

「次から気をつけるよ、えっと、その、」

すばるはボキャブラリーの中の謝罪の言葉を捻りだしているようだった。いろいろな気持ちが頭のなかにたまっているのに、すばるにもわかってほしいのに、何の言葉にもできない私。今までにないくらい、自分自身に腹が立った。その気持ちが、必死に言葉を出そうとしているところとつながってしまう。

「もういいよ!」

私は強めに怒鳴ってしまった。どうして。悪いのは私の技術不足だし、ほとんど一本道だから置いていかれても途中で道に迷ったりはしないし、最後には待っていてくれた。それなのに、感情が抑えられない。

「もういいよ……。」

私が下を向くと、ポタポタと涙が落ちてしまった。すばるはどうしたものかなあと困った顔をしていた。珍しく気まずい沈黙を自分から作ってしまった。

 その時、どこかから楽器の音が聞こえてきた。つられてすばるが沈黙を破った。

「きれいだね。」

「……うん。」

名前はわからないけど、どこか懐かしさを覚えるような管楽器の音だった。私とすばるの間を穏やかな音楽が、噛み合いが悪い部分を満たしてくれた。

「私、とても怖かった。置いていかれるんじゃないかって、このまますばるちゃんが、私から見えない、どこか遠くに行っちゃうんじゃないかって。」

「そんなことしない!」

私の話に割り込むように、すばるは叫んだ。

「そんなこと、絶対にしないよ。あかりを置いてどこかに行くなんて……。」

すばるは一度言葉に詰まってから、絞り出すように言った。

「二度と嫌だ、私の前から誰かがいなくなるなんて……。」

 すばるの瞳を見つめる。そうだ、すばるだって私と同い年でしかない1人の女の子なんだ。それでもこの子の眼は、いくつの景色を見てきたのだろう。そしてその身体からだでいくつもの逆風も切ってきたのだ。

 私たちは数分間、お互いを見つめあっていた。穏やかな旋律の中で、再び沈黙が漂う。ただし今度はさっきとは違う沈黙。

 この後は宇治、山科と市街地を通って帰った。YBRの走行距離はついに500kmを越えた。慣らし運転第2段階終了だ。

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