第7話 グリーンロード
琵琶湖を一周してから、慣らし運転は遅々として進まなかった。というのも、ここ数年は体温を超えるような猛暑で夏は外に出れないような状態になるからだ。
「体温以上なんて、サウナと一緒だよ。サウナ。」
すばるはそう言うとパックのコーヒー牛乳を飲んだ。
「すばるちゃんならそんな日でも乗ってるのかなって思った。風があるからまだマシでしょ?」
「そんなわけないよ。体温より高いと風が吹いても熱が体に入ってくるんだよ。熱力学の法則。」
その言葉は本当だった。「少なくとも2週に1回くらいは走っておいた方がよい」という話を聞いたので、少し遠くのショッピングモールにYBRで行ってみた。風が吹くとはいえ熱風で、全く涼しいものではなかった。ショッピングモールまで片道30分程度だったけど、暑すぎて倒れそうだった。これではツーリングなんて無理だ。せっかくの夏休みなのにがっかりした。
そんなこんなで、気がついたらに9月になってしまった。YBRの走行距離はまだ201.8キロだった。
「そろそろ、ツーリング行こうか。」
9月最初の1日、お昼休みにすばるはツーリングを持ちかけてきた。
「行く行く!」
私はすぐに答えた。ちょうど私もそう思っていた。
「でも、どこ行く?」
「まだ暑いからね、山手に行こうか。」
すばるはマップアプリを開いた。
「ここ。」
国道307号。滋賀県の南東部を走る国道だ。
「ちょっとだけ山道だけど、いい練習になるよ。」
すばるは詳しいルートを教えてくれた。まず、湖岸道路を北上して彦根へ向かう。そこから国道307号に入って、そのまま宇治田原町まで走る。その後宇治へ出て、市街地沿いで帰る。
「信楽高原は気持ちいいよ。」
そう言ってすばるはコーヒー牛乳を一口飲んだ。
次の土曜日。前と同じコンビニで待ち合わせて出発した。
湖岸道路をひたすら北上する。前に通った道でも、今度は方向が違う。琵琶湖を左手に見ながらのツーリング。まだ2回目とはいえ、同じ道でも新鮮だった。
湖岸道路の途中のコンビニで1回、彦根城の横を通りすぎたところにあるコンビニで1回、休憩した。バイクを止めてヘルメットを脱ぐと、私たちは店内に転がりこんだ。9月とはいえ残暑の厳しい中を走ってきたので、ついつい声が出た。
「はあ、涼しい。」
「涼しいね。」
しばらくの間、熱くなった体を涼しい店内で冷ました。私はアイス売り場でアイスを選ぼうとした。
「ねえねえ、アイス買おうよ。どれがいいと思う。」
「アイスはね、今はやめとこう。このあと『お楽しみ』があるから。」
「お楽しみ?」
すばるは何かを企んだ顔でアイス売り場を離れた。イートインがあったので、私は菓子パン2つ、すばるはおにぎり2つを買って食べた。
コンビニを出て、国道306号に入った。ここからは初めての道。でも「国道307号」と聞いていたので、少し変だなと思っていた。すると途中から307と書かれた標識に変わって安心した。
整備された田舎道を走る。カーブもきつくなく、時々信号で止まりながら私たちはゆったり走った。高速道路を何度かくぐって、次の目的地についた。
「道の駅 あいとうマーガレットステーション」。駐車場に入ると、今までに入った道の駅と違う光景に、私は「うわあ」と声を上げてしまった。
そこには、メルヘンな建物が並んでいた。まるで小さい頃に遊んだ人形の街に迷いこんだようだった。ここまで走ってきた殺伐とした公道とまったく違う風景だった。
ヘルメットを取って、すばるが歩いてきた。
「ちょっとびっくりしたでしょ。」
私は少しはしゃいでしまった。
「すごくかわいい!こんなところがあるんだ!」
ふふん、とすばるが自慢気な顔をしている。
すばるは私を連れて、かわいらしい建物の入り口に入った。そこにはショーケースと、色とりどりのパステルカラーのジェラートが並んでいた。こっちを振り返って言った。
「ね、アイス我慢しててよかったでしょ。」
私は「うん」と大きくうなづいた。
列にならんでジェラートを注文した。私はオレンジ、すばるはメロンのジェラートを注文した。
私たちは外に出てテラスにあるベンチに座った。そしてジェラートにささったスプーンを抜き、ジェラートを口にした。今までは大敵だった熱い日差しが、今は最高の調味料だった。
すばるは遠くに目をやってつぶやいた。
「晴れててよかったね。」
私もそう思った。ジェラートを口に入れる度に、太陽と車の排気で熱せられた頭が冷えていく。
気がつくと、すばるの目線が私のジェラートに向いていた。
「一口食べる?」
私が尋ねると、すばるは少し焦って言った。
「いや、そんなわけで見てたんじゃないんだけど……。」
私はスプーンで一口すくうと、すばるの方へ持っていった。
「はい、あーん。」
すばるは顔を真っ赤にして、しばらくためらった後、目をそらして食べた。
「おいしい?」
私が聞くと、すばるは黙ってうなづいた。そして、すばるは自分のジェラートをすくって、同じようにしてきた。
「はいこれ、お返し。」
私もすばるにもらったジェラートを食べた。口のなかにメロンの味が広がった。幸せな時間だった。
だけどそんな時間は続かなかった。半分くらい食べると、ジェラートが溶ける速さも段々速くなってきて、私たちは溶けたところをすくうのに必死にならないといけなかった。すばるはそれでも足りなくて、ぽたぽたと手に垂れてしまった。大急ぎで食べると、最後にコーンをバリバリと食べて、おしまい。すばるはべとべとになってしまった手のやり場に困りながら、トイレまで手を洗いに行った。
私たちはマーガレットステーションを出発することにした。
「ここからは少し山道だよ。後ろ見るように気をつけるけど、」
すばるはわずかに表情を変えていつもの言葉を言った。
「無理はしないでね。」
とっさにこの間の話を思い出した。あの日、すばるが涙を流しながらしてくれた、壮絶な体験談。それだけにいつもの言葉とはいえ、前にもまして重みを感じた。
すばるは元の表情に戻ってヘルメットを被った。そしてCBRにエンジンキーを差し、エンジンをかけた。
すばるの言う通り、道の様子は段々山道になってきた。カーブはそんなにきつくない。だけどアップダウンが激しくなってきて、排気量の小さなYBRには少しきつかった。登り坂になると常用している5速では力負けして速度が落ちてくる。
「だけど、慣らし運転が終わっていないうちはギア下げちゃダメだからね。」
こういうこともあろうかと、お昼ご飯を食べたコンビニですばるはちゃんと忠告してくれた。走ってるときも、CBRで坂を登りきった後、速度を落として追いつくのを待ってくれた。
左折して橋を渡ると、本格的な山道になった。前を行くCBRのブレーキランプが鋭く光った。すばるとの車間が縮まる。私もブレーキを握る。私は車体を右へ曲げるのに必死だった。
左からから高速道路が現れて頭上をかすめていった。現代的な曲線美を備えた高架橋。私のバイクでは通ることが許されない、はるか高い道。
国道は高速道路と別れて、信楽の街へ入っていく。交差点を右折した後、不意にすばるが右側を指差した。その先には、大量のたぬきが並んでいた。信楽焼は芸術品なのはちがいないのだけど、同じ素っ頓狂な顔をしたたぬきがたくさん並んでいるのを見ると少し笑ってしまった。
信楽の街を抜けてしばらく行った先でコンビニに入って休憩した。すばるはペットボトルを開けながら言った。
「このあと、どうする?」
「えっ、どういうこと?」
私はあっけにとられた。すばるのことだから、この先のルートなんか決めきってると思っていた。すばるはフルーツジュースを1口飲んで、スマートホンを取り出した。。
「この先ルートは3つ考えてたんだ。1つは、このまままっすぐ行って宇治へ行く。」
いつものマップアプリをスクロールする。地図が西から東へ流れていく。すばるは指で止めると、触れないようにしてクランクをなぞった。
「だけど、このルートだと宇治から先が渋滞する。」
すばるがアイコンを押すと、道路が一気にオレンジになった。
「うわ、すごい。」
「市街地はどうしてもね。いつもこんなだよ。」
すばるが別のアイコンを押すと、地図は現在地に飛んで戻ってきた。
「次に、ここで右折する。」
すばるは地図をしばらく先の交差点にスライドした。
「ただ、これだと。」
現在地との距離を測ると28キロ。1時間程度で終わってしまう。
「少し走り足りないね。」
「そうだね。中くらいのルートはないの?」
すばるは「うーん」と言って考え込んだ。地図を改めて見てみると、緑一色だった。いつも学校や家で見ると建物がたくさん並んでいる。
「山だからね。道が少ないのは仕方ないね。」
私は山がそういう場所なんだと実感した。私たちは普段それなりの街に暮らしている。街には一定間隔で道路が敷かれている。だけど道がない場所も、いくら狭いと言われる日本国内でも、こんなに身近にあるのだ。
「あっ、じゃあここにしようか。」
すばるはルートを見つけたようだ。検索に経路を追加していった。「783」と書かれている。
「ここは通ったことがあるんだけど、割と走りやすい道だよ。」
「そうなんだ、すばるちゃんはよく知ってるんだね。」
そういうと、すばるは少し照れて、ジュースをもう1口飲んだ。
私たちはコンビニを後にして西へ向かった。道は山になって、集落になって、を繰り返した。時々緑のうねが見えるようになった。茶畑だ。ここは茶所なのだ、と実感した。この国道は「グリーンロード」という愛称がついている、と道の駅で見たのを思い出した。まさにその通りだった。
やがて、何個目かの山を越えたところで、私たちは交差点を右折して国道307号を離れた。しばらく田舎道を走った後、瀬田川へ出た。そして瀬田川沿いに走って帰った。
「今日も無事に帰ってこれたね。」
いつものコンビニで、ヘルメットを外したすばるは安堵していた。
「うん。今日もリードしてくれて、ありがとうね。」
そう言うと、すばるは照れて視線をそらした。YBRの走行距離は362.6キロになっていた。
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