十一杯目

 そろそろ豆を買わないといけないなと思いながら、あめは豆を入れている瓶の蓋を開けた。もう、ほんの少ししか入っていない。今日くらいはこれで何とかなるかもしれないけれど、明日の午前中には買ってこないといけないだろう。

 明日ならば、お店は開いている。

 ふうと息を吐いて、あめは豆を電動ミルに入れた。

 バイトをしていた頃から、ずっと豆を買いに行っているお店。

 思えば、豆の何たるかを教わったのもあそこだった。今となっては、なんとなく好みの豆とかそういうものもあるけれど、全然珈琲の頃なんてわからなかった頃は、バイト代を使って色々な豆を買ったものだ。

 そんなのも、まだまだ数年前の話なのだけれど。

 ちょっと昔のことを思い出しながら、あめは多分今日最後の一杯になるだろう珈琲を淹れた。


 朝起きて、ベッドから抜け出して、いつも通りペーパードリップで珈琲を一杯淹れる。ネルの感覚で淹れると、意味が解らないほど濃くなって、目が醒めるのだ。カフェインがどうのとかいうのではなくて、苦みで。

 寝ぐせを直して適当な服に着替えて、毎回豆を買うときにだけ使っている、少し大きめな鞄をクロゼットの中から引っ張り出す。

 これで準備完了。

 今一度財布の中身を確認して、アパートの外に出る。周りを見渡して、それからあめはすっと浮き上がった。

 豆を買いに行くのは、店に行くよりも長旅になる。長旅と言ったって東京の中で済むけれど、都心のほうと多摩の方では大分違う。家自体が都心に近い側にあるから、店に行くよりも断然時間もかかる。

 目下に広がる街並みは少しずつ変わり、ビルのような高い建物が減って緑が増えてくる。緑が沢山目に入るようになると、なんとなく多摩の方に来たような気がする。勿論都会の方にだって緑豊かなところはあるけれど。でもそれは公園だから残っているような場所が殆どで、山があって緑があるというわけではない。

 偶にこっちへ来ると、なんとなく植物の力を貰える気がしたりもする。

 もう少しで山へ着くんじゃないかというあたりで、あめはひっそりと地上に降りた。駅の近くは人がそれなりに多いから、少し離れた場所だ。そこから少し歩けば、目的の店に到着する。

 看板は掛かっていない。ただ小さく扉の所にお店の名前が書いてあるだけの小さなお店。電気が点いているのが、唯一の開店の印だ。

 扉を開いて中に入ると、一見偏屈そうな眼鏡のおじいさんが出迎えてくれる。大抵は、しかめっ面をして焙煎した豆をじっと見ながらああでもないこうでもないと自分の煎った豆を品評している。

「ああ、あめちゃん、いらっしゃい」

 あめが入ったのに気づいた店主は、眼鏡の奥で少し微笑んで立ち上がった。

「そろそろじゃないかと思って準備してあるよ」

 あめは店主が店の奥に入っていくのを見て、近くにあった豆を眺めた。瓶にはコナと書かれた紙が貼りつけられていて、五分目あたりまで焙煎済みの豆が入っている。丁度それくらいになるように焙煎しているのだろう、他も産地の豆も大体同じような感じで、同じ大きさの瓶の半分くらいの量入れられている。――ブルーマウンテンは、流石にそれよりは少なかった。

「はい、これね」

 店主が台車を押してカウンターの外に出てくる。台車には『魔』と書かれた麻袋が載せられている。

「ありがとうございます」

 麻袋の端を少しだけ開けて中を見てみる。

「前回と同じ感じの煎り方だけど、ほんの少しだけ深入りになっているかもしれない」

 店主はそう言って、そのあたりの瓶の中身を見た。

「こいつらとは煎り具合が違うし、まあ一応言っておくとあっちの店とも違うように煎ってあるからね」

 代金を払って、持ってきた袋に麻袋ごと詰め込む。

「そうだ、お金は払うから、一杯珈琲を淹れてくれないかな」

「ええ、勿論」

 店主はそれを聞くなり、嬉しそうに自分の後ろにあるコンロに火を点けた。

「最近は手が震えてどうにもデミタスが淹れられなくてね」

「私は熟練度が足らなくて未だに手が震えちゃいます」

 そんなことないだろう、と店主は笑う。そんなこと、あるのだ。

「ネルはここにある」

「豆はどれがいいですか?」

 振り向く。そこには、さっきも見たいろんな種類の豆が所狭しと瓶に詰められているのだ。

「そうだな、ブルーマウンテンを頂こうかな」

 店主はそう言って立ち上がり、少し減ったブルーマウンテンの瓶から二人分豆を出してミルに入れた。

「二人分ですか?」

「そりゃあ、ここには二人居るんだからね」

 カウンターの内側に入って、ネルを軽く洗ってしっかりと水分を取る。普段使っているネルとは違うから、なんだか不思議な気分だった。

「デミタスじゃなくていいんですか?」

「デミタスは今度お店にお邪魔したときに頂くよ」

 手間もかかるからね、と店主は言った。

 店主から挽いた豆を受け取って、ネルの中に入れる。カップ二つにお湯を注いで温めて、その間に別の鍋に珈琲を淹れる。さっきも珈琲を飲んでいたのか、鍋は元から温かい。

 ゆっくりゆっくりと、時間を掛けて珈琲を蒸らしていく。

 換気扇も無いから、店の中は余計珈琲の匂いで満たされる。元から珈琲豆ばかりで、珈琲豆の匂いしかしないのに。

 カップのお湯を捨てて、珈琲をカップに移す。

「お待ちどうさまです」

 カウンターを挟んで、店主と座って、珈琲を飲む。

「相変わらずの腕だね。師匠譲りと言うべきかな」

「まだまだ師匠には敵いません」

 でも、と店主は言った。

「ここのところ、あめちゃんと君の師匠の珈琲の味が変わってきたような気がするんだ」

 そう言って、珈琲を飲む。なんとなく、それにつられてあめも珈琲を飲んだ。豆のせいか、ネルのせいか、味は普段と全然違う。

「あめちゃんの味が出るようになってきたんだよ」


 なんだか嬉しくなって、帰りは往きよりも速く飛んだ。

 珈琲豆は、ちょっとだけ、普段よりも軽い気がした。

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