九杯目

「はあ…………」

 長い長い溜息。とても悲しそうで、とても辛そうな溜息だった。

「どうかなさったんですか?」

 どうにも見ていられなかったのだ。あめはそう聞いて、女性のお客さんの前に立った。

「溜息ばかりしてると幸せが逃げるっていうぞ。確か、あんたこの間結婚したばっかの旦那とここへきてたよな」

 偶々来ていた他の常連の長嶋が言った。

 そういえば確かに、前にこの女性が来た時にも長嶋は来ていた。

「どこかに落としちゃったみたいなんです」

 女性は、そう言ってまた溜息をついた。

「落としちゃった?」

「はい、結婚指環です。あの日帰ったら、いつの間にか無くなっていて……」

 それからまた、女性は深い溜息をついた。

「そら大変だ」

「結婚指環、ですか……」

 女性の嗚咽が、静かな店内を流れる。両の手を顔の前に置いて、それでも涙はカウンターに落ちてしまう。

「あめちゃん、この子に珈琲を」

「かしこまりました」

 あめはネルをさっとぬるま湯で洗ってしっかりと絞った。

「そんな、悪いです」

「いいんだいいんだ。探し物するにしたってまずは冷静にならにゃいかんからな」

 あめちゃんの珈琲を飲んで落ち着くといい、と長藤は言った。

 豆を挽いてネルに入れる。カップにお湯を淹れて先に温め、別の容器の上で豆にお湯を垂らしていく。

「確かここへきてたのは先々週の日曜日だったか」

「そうでしたっけ?」

「はい、先々週の日曜日。本当は、先週、いえ、もっと前に探したかったんですが、どうにも、仕事が忙しくて……」

 嗚咽する、ということは無くなったけれど、まだ女性は目に涙を溜めている。

「結婚指環てぇのは大事なモンだからなぁ……」

 長嶋はそう言って、カウンターの上に左手を置いた。薬指には銀色の指環が嵌められている。

 けれど、何度見たってカウンターの上に乗っている女性の左手の薬指には、指環は嵌められていない。そこだけが不自然に白くなっているから、そこに指環をしていたことは間違いないのだけれど。

「あれを貰ってから、これまで、ずっと肌身離さず着けていたのに……」

 そうして女性はまた、深い溜息をついた。

 もう夜も遅い。今日一日指環を探して、一番最後にここへ来たのだろう。

「お待たせしました、珈琲です」

「ご馳走様です」

「いやいや。――ところで、旦那はなんて言ってるんだい」

 斜め下を見た――ように見える。

「夫は、指環は仕方がないって、新しいのを買おうって言ってるんですけれど――私は、どうしても、あの指環を着けていたいんです」

 女性はそう言って、今は何もない自分の薬指を見た。そして、酷く寂しそうな顔をした。

「美味しい……」

「ふぇっ? あ、ありがとうございます」

「あめちゃんの珈琲は美味しいだろう」

「はい。なんて言ったらいいのか分かんないですけど、甘いです」

 それを聞いて長嶋さんはガハハと笑った。

「何がおかしいんですか」

「何って? そりゃあ決まってるだろう。褒められて顔赤くしてるあめちゃんだよ」

「な、なんですか!」

 長嶋は、こういうところがいただけないと思う。いい人なのだけれど、すぐに人をからかうのだ。

「おっと、もうこんな時間か。そろそろ閉店かい?」

「そうですねぇ、まあお二人がお帰りになるまで誰もいらっしゃらなかったら」

 それから、店を閉めたらやりたいことがある。どうしても、やりたいことが。

「ごちそうさまです」

「おいおい、もう飲んじまったのか」

 女性が美味しい物ですから、と言って、あめの方を見て少し笑った。

「なんですか」

「なんでもありませんよ。そろそろお暇させていただこうかしら」

「俺もそろそろ帰らにゃいけねぇな」

 長嶋さんはそう言って、少しだけ残っていた自分のアイス珈琲を飲み干して立ち上がった。

 代金をいただいて、あめは女性の方へと向き直った。

「またいらしてくださいね」

「ええ、勿論です。来週も、指環を探そうと思っているので、その際に」

「是非。指環、見つかるといいですね」

「おいじゃ、またな」

「ありがとうございました」


 閉店後の暗い喫茶店の中で、魔女は一人鍋に水を張ってじっとそれを見つめていた。別に魔法の水でも無いただの水道水だけれど。

 その片手に魔導書を持っていて、時々ちらとそれを確認したりしている。

 魔女は指で、魔導書の一番下に書かれた文章を追い、それからもう一度鍋の水をじっと見つめた。

 それから五分ほど経った頃。魔女はふうと息をついて顔を上げた。そしてぽつりと呟く。

「新宿駅の近くか……」

 魔女はすっと立ち上がり、店を出る。鍵を閉めて、辺りを見渡して、誰も居ないのを確認する。

 ――誰も居ない。

 魔女は空を飛んだ。――住んでいるアパートとは違う方向へ。

 暫く飛ぶと、新宿の街が見えてくる。駅から少し離れた路地裏に降りて、何事も無かったかのように人込みに混ざって魔女は歩く。

 新宿の街は、夜中でも人が絶えない。必ずだれかが居て、誰かが見ていると言えばそうなのだろうし、誰も見ていないと言っても、そうなのだろう。たぶん、そういう街なのだ。

 駅から北北東くらいの方向に暫く歩いて、ゴールデン街の近くを通ってもう少し来たに行く。丁度、ホテル街の入口あたりの排水溝の中。

 スマートフォンを探すような素振りをしながら、魔女は排水溝の上に立って、手を下に向けた。

 次の瞬間――魔女の手の中には、銀色の、『KtoM』と書かれた銀色の指環が握られていた。


「こんばんは」

 もうそろそろ閉店にしようと思っていたのだけれど、やめた。

 もしかしたら、来ないんじゃないかと思っていたのだけれど。

「いらっしゃいませ。お見せしたいものがあるんです」

「え?」

「先週、お客さんが帰ったあとにお店の中を隅々まで探してみたんです。そしたら、これ……」

 あめはカウンターのところに置いていた指環を女性に差し出した。

「こ、これ……あ、あ」

「やっぱり、そうでしたか」


 ――見つかってよかった。


 魔女はそう言ってにこりと笑った。

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