八杯目
気配無く、扉がカラカラと音を立てて開く。この感覚は久々だ。
「あめちゃん⁉」
――魔女が近くに居る感覚。
前にこの子と会ったのは、もう三年くらい前になるだろうか。あめはもう実家を出ていたけれど、その頃はまだ年に何回かある、魔法使いの会合に参加していた。全国に散らばった魔法使いがその日決められた場所に集まって、それで
「久しぶりだね」
一つ年下で、名前は確か――大沢桃香。奈良とか、あっちの関西の方の家の出だったはずだ。
「魔女珈琲店なんて名前を誰が使ってるのかと思った。魔女じゃなかったら懲らしめてやろうと思って」
「どうやって懲らしめるの?」
「そりゃ勿論、本物の魔女の実力を見せてあげるんだよ」
桃香はそう言って、店内に二人しかいないのをいいことに掌に水の玉を作って見せた。
「仕舞えるの?」
「あっ」
「そのままで居てね」
店の中を水浸しにされるのは困る。あめは桃香の掌の水の玉に小さな手を上から被せて、ぐっと押して魔力を吸収した。
「やっぱりあめちゃんはすごいんだね」
別に凄いわけではないのだ。ずっとやらされていたから、出来るだけなのだ。
今珈琲を淹れて暮らしているみたいに、自分でやりたくてやっているのとは、やっぱり全然違う。ただ出来るだけなのだ。ただ出来るだけで、そして誰かが喜んでくれるわけでもない。否――寧ろ、怖がられるばかりなのだから。
「せっかく来たんだから、珈琲飲んでいく?」
あめがそう言うと、桃香は是非と言って席に座った。
「最近会合にも全然来ないなあと思ってたけど、まさか喫茶店を始めてたなんて知らなかったなぁ」
「喫茶店やるなんて言ったら、何言われるか分からないもの。父上にも母上にも、何も言ってない。高校卒業してからはまだ会合でしか会ってない」
会合で会ったところで、二人とも重役会みたいなものに属しているから、特に話す時間があるわけでもなかった。
好き勝手やっているのだ。
「心配してないのかな」
「してないと思うよ。魔法使いとしての跡継ぎを作ること以外にあの人たちに興味はなかったみたいだから。私に魔法使いをちゃんと継ぐ意思がないと判った今、私に構ってる暇はない」
今頃、色々なところを駆けずり回って養子でも探しているのだろうと思う。
「あ、食べ物は何があるの?」
そういえば、ずっと話していたからメニューもお冷も出していない。
メニューを渡して、それから冷たい水をコップに注いで桃香の前に置く。
「え、いっぱいある! おすすめは?」
「おすすめ? 食べもので?」
一番美味しく作れるものはなんだろう。あまり、考えたことが無かった。
「珈琲に合う奴!」
「うーん、それなら――フレンチトーストかなぁ。ケーキ食べるならそれもアリだと思ってるけど」
食べ物という括りで言うなら、やっぱりフレンチトーストだと思う。
あまり出ることは無いけれど、あめは結構気に入っているのだ。
「フレンチトーストかぁ、昔お母さんが作ってくれたなあ」
桃香は懐かしいなあ、と言ってお冷に口を付けた。
淹れ終わったネルから立つ湯気を見ながら、ふと昔のことを思い出した。
これは確か、小学校の頃だ。調理実習らしい風景で、鍋でお湯を沸かしている。男の子が調子に乗って熱々の鍋に触って、火傷を負ってしまうのだ。先生は他の子と話し込んでいて、こちらに気づく様子もない。同じ班の他の子に先生を読んできてと言って、私はその男の子の火傷を、そっと氷の魔法で冷やすのだ。
それから、どうなったんだっけ。
――そんなの、考えなくても決まっているじゃないか。
普通じゃない力は、往々にして畏怖の対象となるのだ。それが仮令自分を助ける力であったとしても。
「あめちゃん、どうしたの?」
「え? ああ、ごめん、ちょっと考え事してて。珈琲お待ちどうさま」
カップに淹れた珈琲を移して、桃香の前に置いた。
「すごい! 本格的な珈琲って初めてだなぁ」
「喜んでもらえたならよかった」
桃香は、本当に美味しそうに食べるし、飲む。
「ご両親とは、喧嘩しちゃったの?」
「ううん、喧嘩なんてしてないよ。ただ、私が耐えられなくなっちゃったの」
あの二人の執着と言ったら、並大抵のものではなかった。
「でも、今楽しくやってそうでよかったな。今でも魔法の腕は落ちてないみたいだし」
そんなに簡単に努力が無くなってしまってたまるものかと思う。
「ほかのみんなは元気なの?」
「ほかのみんな? そりゃみんな元気だよ。私たちの世代だと、あ、そうそう、うずめちゃんが最近お仕事に就いたって」
「そうなんだ」
珈琲を飲みながら、フレンチトーストを食べつつ、桃香は楽しそうに語った。
あめが界隈に顔を出さなくなってからのこと。今のみんなのこと。
みんな、それぞれの人生を歩んでいるらしい。――魔女として。
「なんだか、逃げたみたいだね」
ふと、そう思ってしまった。
「え?」
「ううん、なんでもないよ。気にしないで」
でも、耐えきれないのだ。どんなに他人のために力を使ったって、怖がられて、蔑まれて、石を投げられて。
「あめは、戻るつもりはないの?」
あの日珈琲と出会って、自分のやりたいことを見つけられたから。
「戻るつもりはないよ」
――これが私のやりたいことだから。
「また来るね!」
桃香はそう言って店を出て行った。
自分も、もう少し魔女として認められていたなら、あれくらい明るくなれたのだろうか。
小さな魔女は椅子に座ってカタカタと音を立てるポットを見た。お湯がくつくつと沸騰して、店の中で聞こえる音はそれくらい。
いつかは、向き合わなきゃいけない日が来るもの、心のどこかでは解っている。けれど今はもう少し、整理する時間が欲しい。
喫茶店の魔法使いの小さな身体には、まだまだあの痛みは大きすぎるのだ。
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