七杯目
日曜日の、開店からまだ間もない十一時半を少し過ぎた頃に、おずおずと店の扉は開かれた。開店してすぐに常連さん以外が来るのは珍しいけれど、それは常連さんでは無かった。
まだ高校生くらいだろうか、顔立ちに幼さが残っている。――それは低身長で童顔のあめが言えたことではないのかもしれないけれど。それでも精一杯のお洒落をしてきたのか、それとも普段からそういう物を好んで着ているのか、服装だけを切り取って見ればあまり高校生らしくは見えない。――いや、そもそも高校生と決まったわけではないのだけれど。
こういう場所に慣れていないのか、入口のところできょろきょろと周りを見ている。
「いらっしゃいませ、お好きなお席にどうぞ」
「あっ、えっと、失礼します」
あめは礼儀正しいんですね、と言って男の子の前にメニューとお冷を置いた。
「カレーとこ、珈琲ください」
「かしこまりました。珈琲は食後でよろしいですか?」
「えっと、はい、大丈夫です」
あめはにこりと微笑むとカレーの入った鍋の乗っているコンロに火を点けた。カレーは開店前に作っておいてあるのだ。
蓋を開けて、ほどほどに混ぜる。ある程度温まってきたらカレーはいったんそのままにして、お皿にお米をよそう。
「福神漬けとからっきょうとか、載せますか?」
「あ、えっと、大丈夫です」
「かしこまりました」
ガスコンロの横っちょにお皿を置いて、カレーが温まったらご飯に半分くらいかかるようにカレーを盛る。
これでカレーは完成。要望があればチーズを載せてあぶったりすることもあるけれど、基本的にはカレーライスで出している。
「お待たせしました、カレーです」
男の子は目をキラキラとさせてカレーを見ている。
「美味しそう……頂きます」
自分の作った料理を人が美味しそうに食べてくれるというのは、何とも嬉しいものだ。細々とした店だけれど、やはり頑張ってやる甲斐はある。
「その、この間ツイッターでここのお店にフォローしてる人が来てるって言ってて」
食べながら男の子はそう言った。
「それでいらしてくださったんですか?」
「はい、その、あんまりこういうお店に来たことないんですけど」
男の子はそのまま一気にカレーを食べて、すぐに完食してしまった。
「美味しかったです」
「そんなに早く食べちゃうとは思ってなかったので、まだ珈琲の準備が……」
「あ、全然大丈夫ですよ。寧ろ、なんというか、その、心の準備をしないといけないので」
男の子はそう言うとスマートフォンを取り出した。画面をじっと見て、ぶつぶつと何かを呟いている。
そうかと思うと、両手の親指を器用に使って画面の下半分を凄い勢いで押したりする。
何かを書いているのだろうか。
――兎に角、珈琲の準備をしないといけない。
「珈琲をお店で飲むのって初めてなんですよね」
男の子はスマートフォンを見たまま言う。
「そうなんですね。珈琲自体は時々お飲みになるんですか?」
カップを出してお湯を入れて温めたら、ネルをぬるま湯で軽く洗って水分を拭き取る。
「両親が時々家で淹れて飲んでるので、それを貰ったことはあるんですけど」
「じゃあ、お店の珈琲は初めてなんですね」
「だから結構緊張してます。でも、ツイッターでめちゃめちゃ珈琲が美味しいって見たから」
それはありがたいなぁ、とあめは言った。それから、豆を量ってネルに入れる。
「高校の友達とかも、あんまり喫茶店に行ったりしないみたいだし」
どうやら高校生であっていたらしい。
あめが高校生だったころは、みんな喫茶店に行ったりしていたのだろうか。あめは高校生の間はずっとあの店に客として通い詰めていたけれど、他に高校生が居たかと言われるとなんとも言えない。少なくともカウンターで珈琲を飲みながら勉強をしていて、他に高校生が来たことは無かったはずだ。
まあ、こういうお店の敷居が高校生にとっては高いというのもわからないではない。自分とて、出会いが無ければ喫茶店に入ることもなかっただろうし。
ネルにお湯を少しずつ注いで、ひとまず全体を蒸らす。
「あの、なんてお呼びしたらいいですか?」
男の子はふとそう言った。
「うーん、お好きにお呼びいただければ――」
でも、お店に自分の名前が入っているわけでもないし、来たお客さんに自己紹介をすることもない。好きに呼べと言ったって、何もないのか。
「あ、名前は笠苗あめって言います」
「えっと、じゃあ、あめさん……?」
「あめさんです」
「あめさんは、高校生のときは喫茶店とか行ってたんですか?」
「私は好きだったので、ずっと行っていましたよ。あんまりお家が好きじゃなかったので、ずっとそのお店で勉強とかしてました」
それももう五年くらいは前の話になるのか。
「そ、そうなんですね」
男の子は、珈琲を淹れるところをじっと見ていた。
「面白いですか? 淹れてるの」
「えっ? うーん、なんか、家で父親が淹れてるのと全然違うなあと思って」
お湯の注ぎ方とか、と男の子は言った。
「なんか、結構父親はジャボジャボ淹れるから」
まあ、それも人によるだろう。
「私は、うーん、なんだろな、師匠? にこういう風に淹れろって習ったんですよね」
ちゃんと蒸せるようになるまで、あの人には手厳しく色々言われた。あれは大学生の頃だから、それも三、四年は前の話になるのか。
いずれにしたって、あっという間だった。子供のころに作られた時間の間隔が、あまりにも普通とズレていたというのもあるだろうけれど。
「淹れ方ってあるんですね」
「ありますね。特にこれで淹れるときは、淹れるところ以外でも色々と気を遣わないといけないし。まさか新品を珈琲と一緒に煮るとは思わなかったなぁ」
「珈琲と一緒に煮るんですか⁉」
うん、とあめは頷く。
「新品の、ネルっていうんですけど、まず糊を洗って落として、そのあと珈琲に馴染ませるために豆と一緒に煮るんですよ」
今だからこそやるのとやらないのでは全然違うと判るけれど。
「面白いんですね、珈琲って」
「でしょう」
カップのお湯を捨てて拭きとり、珈琲を移す。
ミルクと砂糖を置いて、それからカップとソーサーを男の子の前に置く。
「お待たせしました。珈琲です」
恐る恐る、と言ったところだろうか。男の子の指先が少し震えているのが見える。
「そんなに気張らなくてもいいんですよ」
「でも、なんか緊張するじゃないですか?」
「そうですか?」
ふふ、とあめは笑う。
男の子はゆっくりと珈琲の口を付けて、暫くぼーっとした。
それから。
――美味しい。
そう一言だけ呟いた。
暫く、男の子はじっと珈琲を味わうようにして飲んでいた。
飲み慣れていないと言っていたからミルクと砂糖を置いたのだけれど、必要なかっただろうか。
何よりも、あめは珈琲を美味しく飲んでくれることが嬉しかった。
これをきっかけに、珈琲を好きになってくれたらいいな、とも思う。
結局、男の子は飲み終わるまで何も言わなかった。
飲み終わってからは、色々と話したけれど。
「じゃ、えっと、お会計お願いします」
「はーい。えーっと、一三〇〇円ですね。……確かに頂戴しました」
男の子は頭を一つ下げてドアを開けた。
「また来ます!」
「いつでもいらしてくださいね。お待ちしてます」
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
ドアの横の窓から、男の子が通りへ歩いていくのが見える。やっぱり、スマートフォンを操作していて、何かを書いているらしかった。
「また来てくれるといいなぁ」
魔女はそんなことを呟いて、椅子に座って魔導書を開いた。
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