六杯目

 誰もお客さんなんて居ないから、少しだけお店の外に出て息を吸ってみる。夜も更けて、街を歩く人は次第に出来上がった人か、或いは疲れ切った表情の人ばかりになる。空を見上げても星は見えない。路地裏と言ったって、都市部なことに変わりはない。ビルとビルの隙間のほんの狭い道から見える星は、一つも無い。

 いつの間にか、吐く息も白くなり始めている。

 路地の入口のところに立って周りを見渡してみれば、あたりにある店は閉まっているか、或いはもう閉店準備をしているか、そうでなければ敷居の高そうなバーか。

 少なくとも、気軽に入れるような店は二十四時間営業でも無ければ閉まってしまう。

 普段なら、自分の店もこれくらいの時間に閉店の準備を始めるけれど――今日は気分がいいからもう少しだけ営業しようと思うのだ。お客が来るかは、知らないけれど。

 店に戻ってぼーっと時計を眺めてみる。どんなに眺めていたって、時間は刻刻と進んで、十一時三十五分二十三秒は、十一時三十五分二十四秒になる。そんなことを思っている間にだって、どんどん時間は進む。

 お客なんて――


「すみません、まだやってますか」


 ――待ってみるものだ。


「いらっしゃいませ。お好きなお席にお座りください」

「あ、失礼します」

 歳は同じくらいだろうか。少し顔が赤くなっているから、さっきまでどこかで飲んでいたのだろう。サラリーマンだろうか。

 ため息を吐きながらメニューを眺めて、それからふっと顔を上げてこれなんて読むんですか、と言った。

「それは鴛鴦茶ユンヨンチャーですね。珈琲と紅茶を混ぜたお飲み物になります」

 男の人はへぇ、と相槌を打った。

「美味しいんですか?」

「私は美味しいと思いますよ。」

「じゃあ、それ一つください」

「かしこまりました。少々お時間頂きますが」

「構いませんよ」

 あめは、ありがとうございますと言って冷凍庫から氷を取り出した。

 氷を削って少し大きめのグラスに入れる。氷が溶けてしまわないようにグラスの中を魔法で冷やして、シロップを入れる。

 次にティーポットに茶葉とお湯を入れて蒸らし、その間に珈琲も淹れてしまう。

 濃い目に珈琲を淹れたらそこに氷を入れて一気に冷やす。同時に紅茶を淹れていたポットのほうにも氷を落として冷やしていく。

「不思議なお店ですね」

 珈琲と紅茶が冷えるのをじっと待つ。

「そうですか?」

「この時間までやってる個人経営の喫茶店っていうのがまず珍しいし」

 まあ確かに、あまり遅くまでやっている喫茶店と言うのは聞かないかもしれない。この店を出す前に働いていたお店は、確か十時頃までの営業だっただろうか。

 と言ったって、まだ日付は変わっていない。飲み屋はまだまだ開けているだろう。

「何時ごろからオープンしてるんですか?」

「午前の十一時半くらいですね。私の気分にもよりますけど」

 自分のことながらどうかとは思うけれど。

「もしかしてなんですけど、十二時間も立ってらっしゃるんですか?」

「いえいえ、ずっと立ってるなんてことはありませんよ。椅子に座ることもありますし」

 本を読むこともあります、と言った。

「それにしたって十二時間はね……」

 あめにとってしてみれば、感覚的にこれくらいの時間は全然活動出来る範囲なのだから、それほど長いと感じたことは無い。

 尤も、自分の時間間隔が他人とズレているのはあめにもわかっているのだ。

 昔からずっとそうだったから。

 珈琲と紅茶がアイスと呼べるくらいの温度になったら、シロップの上に重なるように、丁寧に珈琲からグラスに入れていく。更にその上に、さらに層になるように紅茶を入れ、そして最後に牛乳を入れて終わりだ。計四層になる鴛鴦茶を男の人の前に置く。

「お待たせいたしました。混ぜてお飲みくださいね」

「あ、ありがとうございます」

 まず、男の人はポケットからスマートフォンを取り出して何枚か写真を撮った。それから層になっていた全部を混ぜてストローで鴛鴦茶を飲み始めた。

「だいぶお疲れのようですね」

 見た目にも大分やつれているように見えるし、目の下には隈が出来ている。

「いえ、それほど疲れているわけでは……ただ、仕事が大変なものですから」

 趣味の時間も取れないんですよ、と男の人は言った。

 あめは、ずっと趣味をしているようなものだ。昔から、永遠にも思われるような時間の中で何かを成そうとすることには慣れているから、あまり魔女珈琲店を営むことに関して困難だと感じることは無い。

「鴛鴦茶、美味しいですね」

「お口にあったならよかったです」

 男の人が、へへ、と頬の下のあたりを掻いた。

「そういえば、ここで撮った写真をインスタに上げても大丈夫ですか?」

「インターネットですか?」

「そうですそうです」

「構いませんよ」

 あめがそう言うと男の人は楽しそうにスマートフォンをいじり始めた。インスタグラムに投稿する準備なのか、或いは他の投稿を見ているのだろうか。

「これ、このお店じゃないですか?」

 画面を見せてもらう。確かにこの店のようだった。これは、峯山さんが撮った写真であるような気がする。

「すごいバズってるんですよ、この投稿」

「バズ……?」

「このツイートだとどこにこのお店があるか書いていないので、僕はしれっと載せておきますよ」

「本当ですか? ありがとうございます」

 男の人がこんな感じです、と画面をこちら側に向ける。写真のことについてはあまり詳しくは無いけれど、あめはその写真が好きだった。

「いいお写真ですね」

「そうですか? ありがとうございます」


「じゃあ、そろそろお暇しようかな」

「あ、どうもありがとうございました。鴛鴦茶一杯で九百円になります」

「千円でいいですか?」

「はい、千円頂戴しまして、百円のお返しになります」

 もう眠くなってきたから、お店も閉めようと思う。

「ご馳走様でした」

「いってらっしゃいませ」

 男の人は少しだけ歩いて、それからまた振り返ってこう言った。

「さっきの投稿、結構通知が来てるので、沢山お客さんが来ても恨まないでくださいよ」

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