五杯目

「デミ、頂いていいですか」

 グラタンを食べ終わった初老の男性がふとそう言った。

「デミですね、かしこまりました。お好きなんですか? 珈琲」

 デミタス珈琲の注文が入ることは殆どない。もっと大きなお店なら、母数が多いからもっと注文が入るのかもしれないけれど。

 そもそもデミタス珈琲自体がマイナーなものだから、珈琲が好きなのかなと思ったのだ。そうでもなければ、量の少ないデミなんて頼まないだろうと思う。

「そうですね、珈琲は好きです。昔はよく喫茶店巡りなんてのをしたもんですけどね」

 そう言って男性は時計をちらりと見た。

「お時間は大丈夫ですか?」

「ええ、デミが入るのを待つ時間はあります」

 男性はそう言ってスマートフォンを操作し始めた。

 デミタス珈琲は、簡単に言えば一番おいしい部分だけを濃く淹れた珈琲だ。だから量も半分くらいしか作れないし、手間もかかる。けれど、普通の珈琲よりも甘味が沢山出る。

 小さなカップとソーサーを出して、ひとまずお湯を入れてカップを温める。

 それから普段は牛乳とかを量るのに使う軽量カップを出して、そこにもお湯を入れておく。注文が少ないから、未だにデミは感覚で淹れられないのだ。

 普通に珈琲を淹れるときよりも多く豆を挽いて、ちゃんと水分を取ったネルに入れる。

「暫く、こういうところで珈琲を飲んでなかったんですがね、この店を偶々見つけたものですから」

 珈琲好きの血が騒ぎまして、と男性は言った。

「お詳しい方の目に留まるとは光栄です」

「そんな大層なモンじゃありませんよ。ただの珈琲好きです」

「珈琲好きの方に見つけて頂いて寄ってもらえることほど嬉しいことはありませんから」

 計量カップのお湯を捨てた。タオルでしっかりと水分を拭き取る。そして一つ息をついて、あめは右手にポットを持った。

「しかし、お若いってのに一人で喫茶店を切り盛りするってのは、凄いですね」

 一滴ずつ、ゆっくり、ゆっくり、お湯を垂らしていく。

「あまり沢山の人といるのが得意ではなくて」

 ネルの中の豆が、少しずつ膨らむように蒸れていく。

 最初に入れたお湯が、少し薄いまま垂れてくる。それを捨てて、それからまたじっくりとお湯を入れる。

「なるほど……」

 一滴ずつ。

 普通に珈琲を淹れるのの何倍も濃い液が計量カップに少しずつ溜まっていく。一目見るだけで、濃いのが分かる。

 贅沢な珈琲だなと思う。贅沢と言ったって、珈琲豆が沢山手に入らないからと生まれた珈琲なんだけれども。

「昔はよく妻がデミを淹れてくれたもんなんですがね」

「奥様も珈琲がお好きなのですか?」

「ええ。若いころは喫茶店で珈琲を淹れていました。まあ、あなたの様に自分の店を持ってたわけじゃあありませんけど」

 じっと、珈琲が落ちるのを見つめていた。知っている人に見られると、どうも今でも緊張してしまう。

「でも、好きだったんです。二年前に亡くして、珈琲を見るとどうも思い出してしまってね、あまり飲んでいなかったんですが」

 悲しそうな目は、それか。

「奥様は、どんな珈琲を淹れていらっしゃったんですか」

「妻の珈琲は、甘かった。砂糖で甘くしなくてもね、甘かった」

 甘い珈琲――満足してもらえるかは判らないけれど。

 それきり、何も言わなかった。

 ただ、外から聞こえてくる車の音や人の声、或いは工事の音が聞こえるばかり。

 ともすると、珈琲が落ちる音さえも聞こえるだろう。

 六十ミリリットルくらいになったら、もうそこで淹れるのはやめる。やはり、贅沢な飲み物だと思う。

「お待たせしました」

 音を鳴らさないように、丁寧にソーサーにカップを置く。

「ありがとうございます。――いただきます」

 男性は少し震える手でカップを掴んで、ゆっくりと口元に動かした。暫く水面を見つめてから、一つ息を飲んで珈琲に口を付ける。


 ――甘い。


 そう、呟いた。

「よかった」

 久々の淹れたデミタス珈琲は、うまく淹れられたようだった。

「懐かしいなあ……。今日は妻の三回忌なんです。ふと思ってここに入ったんですが――来てよかったな」

 あめは、何も言わなかった。

 ゆっくりと、普通の珈琲の半分の量も無い珈琲を味わいながら飲む男性を見つめていた。言葉は要らない。

「このお店は、魔女珈琲店と仰いましたか。どうしてそのような名前を?」

「それは――」

 自分が魔女だから、なんて言えない。魔女だなんて言ったところで信じてもらえないだろうし、しんば信じてもらえたとしても、どうなるかなど目に見えている。

「秘密です」

 だから、そう言った。

「秘密ですか。こりゃ参った。僕はてっきりね」


 ――あなたが魔女なんじゃないかと。


「どうしてですか?」

「私の妻が、魔女だったんですよ」

 魔女――か。

「初めて出会ったときね、雨も降ってないのにびしょ濡れだったんですよ。そう、丁度あなたくらいの歳の頃じゃないかと思うんですが」

 魔女は、ずっとずっと迫害されてきた。他人ひとと違う力が使えるから。

「放って置けなくってね、家まで連れて帰ってシャワーを浴びさせたんですが。あとから聞いてみりゃ魔女だと言うじゃないですか。わざわざ魔法を使って証明して見せた。びっくりしたもんですが、でも怖くはなかった。世間の人がどうして彼女に冷たく当たるのか、どうも解らなかった。彼女は、素晴らしい人間ひとだと言うのに」

 そう言って、男性は残っていた珈琲を一気に飲んだ。

「今でも腹立ちますよ、まったく。――って、そんな話、信じられないか」

 男性は自嘲気味に笑う。

「信じるに決まってるじゃないですか。だって――」


 ――私も魔女ですから。


 指先に、小さく光を灯す。火ではない。

「やっぱりそうでしたか。どこか、彼女と同じがしたんですよ」

 すごい出会いだな、と男性は独り言ちた。それから立ち上がり、上着を着た。

「そろそろ行かないと法事に遅れてしまう。施主が遅れたんじゃ話になりません」

「奥様に、よろしくお伝えください」

「ええ、伝えておきます」

「また、よろしければお越しください」

「ええ、是非」

 男性はそう言って、財布を取り出す。会計を済ませて、扉に手を掛けた。

「いってらっしゃいませ」

 その目じりが、少しだけ光って見えた。

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