三杯目

 魔女珈琲店の座席に、まだ小学生、それも低学年らしい男の子と、それからそのお母さんが座っていた。

 お母さんはメニューを見ているけれど、男の子は、あめのことを見ている。じっと、あめのことを見つめている。

 この店をやっていて、あまり人に見られるということは無い。珈琲を淹れているときは、大抵みんな注がれているお湯を見るし、食事を作っているときは手許を見ていたり、或いは携帯電話を見ていたり。

 人に見られることに慣れていないのだ。恥ずかしい、と言うのとは少し違うけれど、なんだかこそばゆいような、そんな心地がする。

「お姉さん、魔女なの?」

 男の子は、じっとあめの目を見てそう言った。見定めるような眼つきは、どうやら魔女かどうかを判断しようとしていたらしい。

 どう、答えたものだろうか。

「ごめんなさいね、この子、魔法とか、そういうのが好きで……」

「いえ、いいんですよ。うーん、魔女に見える?」

 男の子の目を見て聞いてみる。

「見えない。だって、全然悪そうじゃないし」

「魔女は、悪そうなの?」

 確かに、魔女という響きや字面は悪そうに見えなくもないけれど。否、実際に悪者にされた時期もあったことはあったけれど、それは宗教的な話であって、実際その人たちが魔女であったのかと言うと、それはまた別の話だ。

「だって、お姫様を眠らせたり、殺そうとしたりするんだよ?」

「うーん、いい魔女もいると思うけどな」

 男の子はそうかなぁ、と首をひねる。

「私はね、いい魔女なんだよ」

「そうなの?」

 そうだよ、とあめは言った。たぶん、いい魔女だと思う。――少なくとも、あの人たちよりは。

「やっくん、何頼むか決めたの?」

「まだ。ママはなにがいいと思う?」

「うーん、クリームソーダとかいいんじゃない?」

「じゃあそれ!」

 お母さんは、それを聞いてメニューを置いた。

「じゃあ、珈琲と、クリームソーダを」

「珈琲とクリームソーダですね、かしこまりました。クリームソーダからお作りしますね」

 冷蔵庫の中からメロンシロップと炭酸水を取り出す。メロンシロップと言っても緑色をしているだけで、中身は普通のシロップと大差ないような気がするけれど。両方とも瓶に入っていて、炭酸水は所謂王冠で蓋がしてあるタイプで、開けたら使い切らないといけない。シロップのほうは捻れば開け閉めできる、よくあるタイプの蓋だ。

 氷をグラスの中に入れて、まず先にメロンシロップを垂らす。そして層が出来るように、その上に炭酸水を出来るだけ丁寧に載せていく。氷にあてながらゆっくり注げば、案外簡単に層は作ることが出来る。

 ソーダが出来たらバニラアイスを丸くしてその上に載せる。

 仕上げにシロップに漬けたサクランボを載せれば完成。

「クリームソーダです」

 男の子の前にクリームソーダを置く。

「お姉さん、ほんとに魔女なら魔法見せてよ」

 魔女なんて居ないと疑っているのだろう。これくらいの歳なのだろうか、サンタが居ないと思ったり、世界を救ってくれるヒーローは実在しないと思ったりするのは。

 あめはサンタが居るのか居ないのか、ヒーローが実在するかしないかは知らないけれど、少なくとも自分は魔女だ。

 魔法を見せることくらいは、容易いことだ。指先に火をつけてみたり、水を出してみたり、或いは凍らせてみたり、出来ることなんて幾らでもある。

 けれど。

 ――怖い。

 怖いのだ。

 他人に魔法を見せるのは怖い。それは一種のトラウマのようなものであって、そう簡単に治るというものでもない。

 厭な記憶は簡単に消えたりしない。それに、世間的に言えば、魔法なんて存在しないのだ。そんな非科学的なものはあり得ない、それが世間の風潮なのだ。

 ――いつから、自分の出来ることに自信が持てなくなったのだろう。

 自分の力は、人の役には立たないんだと気づいたのは、丁度この子くらいのときだったろうか。当たり前が崩れ去るのは、往々にして一瞬で、気づいたときには当たり前は当たり前でなくなってしまう。

 けれど、こんな時くらいは。少しくらいは、見せてあげてもいいかもしれない。


「いいよ、見せてあげる」


 あめはそう言った。それから、簡単なのだけね、と付け足す。

「えー、嘘くさい。どうせ手品なんだろ」

「さあね、見てからのお楽しみ。珈琲淹れたら見せてあげるね」

 そう言って微笑む。

 水をポットに入れて火にかけて、その間にネルと豆を準備する。あまり待たせてはいけないから、魔法でもポットを温める。こういう目に見えない魔法は、よく使うのだけれど。

 ある程度温まったところでカップにお湯を入れて温める。

 それからネルの水分を拭き取って、豆を中に入れる。丁度お湯が沸いたから、カップのお湯を捨てて拭きとり、すぐにネルにお湯を少し注いだ。まずは蒸らし。最初から沢山お湯を入れるのではなくて、最初は少しだけ入れて全体を蒸らすのだ。

 それから、ゆっくりお湯を、豆に円を描くようにして注ぐ。ちゃんと蒸らせていれば、もこもこと泡が出る。

 泡が消えないように少しずつ、少しずつお湯を入れる。

「お待たせしました、珈琲です」

「じゃあ、魔法見せてよ」

「いいよ。使うと疲れちゃうから、簡単なのでいい?」

「うん。何なら出来るの?」

 まず、電気を消した。店内を照らすのは、これで入口のところにある小さな窓からの光だけになる。

「いくよ。よく見ててね」

 人差し指を立てて、その先に小さな光の玉を作る。店内が、やんわりと明るくなる。

「え? なにこれ」

「魔法だよ。はい、おしまい」

 すぐに光の玉を消して、電気を付ける。

「お姉さん、ほんとに魔女なの?」

「そうだよ。お姉さんは本物の魔女。さっきも言ったでしょ?」

 男の子の目がキラキラと輝く。まだもう少しくらい、夢を見ていたっていいはずだ。


「わざわざ、ありがとうございました」

 お母さんが財布からお金を取り出しながらそう言った。

「いいえ、そんな難しいものじゃありませんから」

「そうなんですか?」

「ええ、タネは申し上げられませんけど……」

 んふふと、あめは笑う。

「美味しかった!」

「ええ、珈琲もとても美味しかったです。またこの近くに来ることがあったら来てもいいですか?」

「勿論、いつでもいらしてください。お待ちしております」

 男の子と、それからそのお母さんの背中に、いってらっしゃいませ、と声を掛ける。

 そしてまた、小さな珈琲店は静寂に包まれた。


 魔女は久々に魔導書を読んでいた。一通り覚えているけれど、それでも改めて読み返すと間違えて覚えているところもある。

 自分で淹れた珈琲を飲みながら、自分の時間をゆっくりと過ごす。

 お客様が居なければ、することもない。だから、その間は自分の時間だ。

 それから、小柄な魔女はお客様が来るまで久々に魔法を練習した。もしかしたらいつか、使わなければいけなくなる日が来るかもしれないから。またいつか、誰かのために使う日が来るかもしれないから。

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