episode 14 沙耶の過去

「私達が離婚した理由は私が家庭を顧みない程に仕事に走った事自体じゃなくて……仕事に走らざる負えなかった原因にあるの」

「走らざる負えなかった原因?」


 わざわざオウム返ししてしまう程、その真意に検討もつかない。

 だけど、その原因が禄でもない事であるのは、今の沙耶さんの表情を見れば分かる。


 俺はじっと沙耶さんの話の続きを待つ。


「異常な程に仕事をしなければいけなかった理由……それはあいつが作った借金の返済の為だったの」

「借金!?」


 【借金】という単語を聞いた時、俺は一定の理解を脳裏に刻む。

 それは俺の前に現れた高橋の姿が原因だ。

 

 草臥れたジャケットに皴だらけのスラックス。剃り忘れたというより剃りたくても剃れなかったみたいな無精髭に決して人の事は言えないけど、手入れもしなくてただボサボサに伸びた髪。どこから見ても一般的な平均以下の生活を送っているようにしか見えない高橋の姿と、沙耶さんのいう【借金】という単語が繋がったからだ。


「あいつは付き合ってる頃からギャンブル症があったの。その事以外は不満なんてなくて、あいつとの未来を想像するくらいには好きだったわ。そんな時あいつにプロポーズされた……。だけど、私はどうしてもあいつのギャンブル症を容認できなくて断って恋人関係を解消した」


 確かに付き合ってるだけならともかく、結婚となればギャンブル症なんて弊害でしかないだろう。最もその程度なんの問題にもならないくらいの収入があれば話は別だろうけど、沙耶さんがプロポーズを断ったって事はそういう人間ではなかったんだろう。


「でもあいつは諦めてくれなくて何度もプロポーズを繰り返してきた……。だからそれだけ本気ならって条件を出したの」

「……ギャンブル断ちをしろと?」

「ええ、その通りよ。あいつはその条件に難色を示したけれど、最後には私の条件を全て呑むと約束してくれたから……私はあいつの求婚を受け入れた」


 危うい約束だと思った。

 正式な書面を起こした契約ではなく、ただの口頭による口約束だったからだ。とはいえ、そんな事を契約という形をとる時点で相手の事を全く信用してない証明になるのだから……これから夫婦として生きていく相手にそんな事出来るわけがなかっただろう。


「結婚して紫音を身籠ったところで私は仕事を辞めて家庭に入ったわ。あいつも心を入れ替えてくれたみたいで真面目に仕事をして家庭を支えてくれていたし、紫音が生まれてからは本当に子供を大切にしてくれた……だから私はあいつを信じて良かったって安心してたのよ」

「……その信用を破られた」


 黙って最後まで話を聞くつもりだったけど、話を聞き入ってた俺は思わず口を挟んでしまった。


「ええ。夕弦を身籠って紫音を連れて里帰りして生まれた夕弦を抱いて帰った時は、すでにあいつの収入ではどうしようもない程の借金を抱えてた。しかも働いている会社に執拗に取り立ての電話がかかってきていたり、時々直接取り立てに来たりして迷惑を被ったって会社が激怒して解雇されてたわ」


 まさに絵にかいたような地獄絵巻のような現実が、里帰りして帰ったきた沙耶さんを待ち構えていたってわけだ。その時の沙耶さんの気持ちを考えれば言葉なんて出てこない。


「あいつは血が出るまで額を床に叩きつけて土下座して、私の許しを請おうとしてきたわ。呆れるわよね……。これだけの裏切りをしておいてまだ私と夫婦をしたがるんだから」

「…………でも、沙耶さんは許したんだよね?」

「…………えぇ、正直離婚してからの事を考えると不安しかなくてね。それなら多額ではあるけど借金を返済する方がマシだってあの時は考えてしまったのよ」


 男と違って女性を考慮した社会をと謳っているものの、それが叶っているのはまだまだ一部の企業だけで、子供を抱える女性が安心して働ける社会のシステムの構築には至っていない。以前どこかの教授がそんな話をしていた事を思い出す。

 そんな社会と借金返済を天秤にかけて夫婦としての生活を続ける選択をした。こう言ってはなんだけど、沙耶さんは性別関係なく1人の力で社会を相手どる事に出来る人間だ。

 だけど、当時の沙耶さんの自己評価がそこまで高くなかったんだろう。でなければ、そんな選択を選ぶなんて有り得なかったと思う。


 そこでふと思考が冷静さを取り戻して、焦る気持ちを億尾に出さずに周囲を目線だけで伺ってみる。

 これだけ込み入った話を誰かに聞かれていたらと、今更に思い至った為だ。幸い店内には俺達以外の客の姿はなく、マスターも何時の間にかカウンターの奥に姿を消していた。あのマスターは本当にプロだなと思う。

 状況を確認して安堵した俺は、再び沙耶さんの話に意識を向けた。


「私は昔の伝手を頼って今の会社に社会復帰した。その会社は基本的に歩合制でね。一応基本給は設定されているんだけど、それ以外にデザインを納めた料金の一部を給料に加算されるシステムになっててね。だから私は馬車馬みたいに働いたわ」


 なるほど。恐らくスタッフのモチベーションの為に考案されたシステムなんだろう。それなら契約以上の時間を拘束されたと考える奴が減るだろうな。その結果会社にも多大な利益を得る事が出来るんだからまさにwinーwinの関係だったんだろう。


「仕事が波に乗れば乗る程収入が増えていったんだけど、増えれば増えていく程に家にいる時間が減っていってね。気が付けばまとも家に帰れなくなってた。だけど、それも借金の返済が終わるまでだと家に残してる紫音と夕弦には申し訳ない気持ちに蓋をして頑張ってきたのよ」


「その間、高橋さんは?」

「私が働いている時に子供の世話をさせないといけないから時間の融通が利くフリーターをしながら、子供の世話をしてもらってた」


「なるほど」と返したけど、時間の融通という単語に一抹の不安が過ぎる。


――そして、その予感は見事に当たっていた。


「仕事漬けの生活を頑張ってようやく完済の目途がたって定時に家に帰れるようになった。これから寂しい思いをさせてしまった娘達との時間を埋めようと心が躍ったわ」

「…………」

「早く帰れるようになって初めての週末に、紫音達にご馳走を食べさせたくてスーパーで奮発した食材なんて買い込んで家に帰った時に……ね」


 辛い……。その時の沙耶さんの心境を考えれば、その後に起こるであろう展開に心が沈んでいく。


「家に見知らぬ男の人がいたの。その男の後ろには顔を真っ青にしたあいつがいて……まさかと思ったわ」


 自分から知りたがっていたくせに、この先の話を聞くのが辛いなんて言えない。だって、沙耶さんの方が何倍も辛くて本当ならもう口にもしたくない事を話してくれているんだから……。

 世の中には救えないゴミのような人間がいる。平気で信じられない事をするゴミが……。

 有紀を玩具のように襲った男や、娘を売り飛ばす母親。そして沙耶さんの人生を何度も狂わせた男……。俺みたいな若造でも身近にこれだけのゴミがいる世の中なんて――あんまりだろ!


「その男が言うのよ。『借金の返済期限が過ぎてんだけどどうなってんだ』って」


 そう話す沙耶さんの肩が震えていた。その時の情景を思い出したのかもしれない。

 裏切られた……いや、また裏切られたんだ。2度も同じ相手、同じ内容の裏切りを受けた沙耶さんの心情を考えれば、その時の事を思い出せば今でも悔しい思いが溢れてくるんだろう。


「……私がまともに家に帰らなくなって、あいつはまたギャンブルに手を染めたみたいで、気が付けば違うところから一千万の借金を作ってたの」

「い、一千万!?」


 俺は借金の額に思わず声を張り上げてしまった。他の客がいないとはいえ、俺の声にマスターが奥から顔をだしたのが見えて慌てて口を手で塞ぐ。


「取り立てが帰ってからまたあいつは土下座して謝ってきた。雅知ってる? 日本人が謝罪する最大の方法って土下座なのよ」

「詳しく調べた事ないけど、イメージとしては確かにそうかもね」

「うん。でもね? 同じ相手に同じ内容じゃその効果はない。仏の顔も三度までって言うけれど、私にはもう一度は無理だった――私はそこまで安くない」

「それは当然だよ。もっと言えば、一度許して死ぬほど働いて借金を完済までこぎつけた沙耶さんの気持ちの深さに胡坐を掻いた、その糞野郎にもう一度の価値はないよ」


 本当にそう思う。事前にこの事を知っていたら、あの時絶対にあいつを殴り飛ばしてた。


「だから私は離婚を決意したの。それにあんな仕事漬けの生活だったけど、収穫もあったしね」

「収穫?」

「えぇ、私って本気を出せば一般的な平均収入を大きく上回る収入が得られるんだって事が分かったから。だから離婚しても紫音と夕弦を養うくらい問題ないって」

「そうだな。でも、よく高橋が素直に離婚に応じたね」

「勿論ごねたわ。それでも応じないと分かったらあいつとんでもない事言ってきたのよ」

「とんでもない事? もうすでに十分とんでもないってのに?」

「そうよ。あいつったら自分がまたギャンブルに手を出したのはまともに家に帰ってこない私のせいだって言うのよ。私が自分の相手をしなくて寂しかったから、つい魔がさしたんだってね」

「……それ、マジ?」

「私も自分の耳を疑ったわ。誰のせいで帰ってこれなかったと思ってるのって話よね。なんであんなクズに惚れてたのかしらって、あの時完全に冷めたわ」


 正気を疑うってのはこの事だ。

 加害者が被害者ぶるなんてよく聞く話だけど、実際に聞かされると鳥肌が立つ思いだった。

 それにここまで聞かされれば、沙耶さんがハリウッド女優ではない事が分かった。

 だって、今の沙耶さんの顔……というか目が心の底から恨んでますって言ってるから。これが芝居だったとしたら、俺は完膚なきまでに人間不信に陥って戻れないだろうな。


「だから本当に癪だし今でも何で私がって思ってるけど、離婚を成立させる最後のカードを切ったのよ」

「そのカードって?」

「もう少しで完済できる借金と新たに作られた一千万の借金を離婚してくれるのなら、私が返済を請け負うってね。本来なら私が慰謝料を受け取る立場だっていうのに……忌々しい提案だったわ」


 なるほど。これは俺の想像だけど、新たに借金までしてギャンブルに走ったのは、許しさえ請えれば沙耶さん自身に返済能力があると打算していたんじゃないだろうか。だとすれば――救いようのないクズだな。


「それで離婚が成立したと」

「そうよ。あいつは悲しいとか寂しいとは言ってたけど、口元が緩んでたわ。本人は気付いてなかったみたいだけど」


 それで分かった。

 以前親父と再婚する前、離婚しても仕事ばかりで紫音と夕弦を放ったらかしにしていた原因って、その借金を返済する為だったんだ。

 だけど、それに気が付いて激怒した沙耶さんの両親が子供を引き取ってしまったと……沙耶さんは全然悪くないのに理不尽過ぎるだろ。


 それでまた俺の疑問にぶち当たるわけだ。

 何故離婚の原因を2人に偽っているのか。そして何故両親にも隠していたのか。



(この話の流れなら、その事を訊いても不自然じゃないよな)


 ずっと聞き手側だったが、俺は高橋と話した時の違和感の正体を確かめる為に、一番聞きたかった事を訊く事にした。

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