episode 10 薄暗い我が家のリビング

 今朝いつもの時間に起きてすぐに違和感を感じた。


(あれ?)


 違和感の正体は匂いだ。

 何時もこの時間に起きると雅が作ってくれる美味しそうな匂いがこの部屋まで届いていたのに、今朝はその美味しそうな匂いがしない。

 情けない話だけど、我が家の家事の殆どを雅に頼っている。これじゃいけないと言うのだけど「沙耶さんは仕事頑張ってるんだから、一番時間に融通が利く俺が家事をやるのは当たり前」だと母親らしい事をあまりさせてもらえないのだ。

 雅の気持ちは凄く嬉しいのだけど、やっぱりこの家の母は私なのだからと思うのだけど……掃除と洗濯はともかく料理のレベルに絶望的な差があるせいで強く言えないのが現状だ。

 勿論、雅が夜遅くなる時は率先してご飯を作るのだけれど、夕弦の評価が芳しくない。夫である太一さんは美味しいと言ってくれるのだけれど、間違いなく私に気を使っているのが分かる。

 誤解がないように言わせてもらえば、ここに住みだした当初はともかくとして、今ではそれなりの腕前にはなっている。何と言っても優秀は先生にマンツーで教わっているから。


 その先生である雅が送ってくれる朝の匂いがしてこない。

 勿論毎日欠かさずというわけではない。大学のレポートや最近では映画の撮影で朝が早い時は、私が作るようにしている。

 だけど、そんな時は必ず事前に連絡してくれるはずなのに、昨晩までにそんな話は聞いていない。


(そういえば、昨日は雅の様子がおかしかった)


 ぐったりと疲れて帰ってくる事は何度もあった。その原因は色々あったけど、それでも私が作ったご飯を食べないなんて事は一度もなかった。

 そんな雅がご飯を食べずに部屋へ戻っていく後ろ姿に、今まで感じた事のない距離を感じた。

 思えば雅は初めて会った時から積極的に関わってくれていて、距離をあまり感じた事はなかった。遠慮なんかは当然あったけど、壁みたいなものは一度も感じた事がない。

 だからあの時、初めて距離を感じた時、声をかける事が出来なかった。もし声をかけて雅の口から拒絶の言葉が出てしまったらと思うと怖くて。

 そう思ってしまう心当たりはない。ないけど……ううん。ないからこそ怖くなってしまった。


 だからいつもの匂いがしない事が怖い。

 寝る前に太一さんに雅の様子がおかしいと話したんだけど「雅にも色々あるんだよ。2人で生活してる時もあったしね」と気にするなと言われた。本当にそうだろうか。確かに私達は家族と言っても本当の家族と比べたら圧倒的に過ごしてきた時間が短い。

 だけど、短い時間なりに雅の人となりを見てきたという自負がある。その私の勘が訴えかけてくるのだ――危ない、と。


 私はまだ寝ている太一さんを起こさないようにベッドから降りて恐る恐る部屋のドア開けると、シンと静まりかえり朝の光がさしていないリビングがあった。

 普段であればスクロールカーテンが上げられていて、朝の光が差し込んだリビングがあり、キッチンに目を向ければ雅が手際よく朝食を作ってくれている姿がある。

 すっかり当たり前(になってしまった)我が家の朝のキッチンに雅がいない。薄暗いリビングがまるであの人と暮らしている時を思い出されて、背筋に冷たい感覚を感じた。


 私は誰もいないリビングを横切って私達の寝室と真逆にある雅の部屋へ向かいながら、昨晩帰ってきた時の雅の姿を思い出す。

 太一さんは気にする事ないと言ってくれたけど、私にはどうしてもあの時の雅が気になって仕方がなかった。

 私から視線を切る時の雅のあの目。私の姿を見ているようで見ていないかのような目。ううん、違う。私にはあの時の雅の目は私の姿じゃなくて、まるで私の中を見ているような……そんな気がしたから。


 雅の部屋の前に着いて2回ノックをする。

 だけど、中からは何の反応もない。


 私は外から声をかけずに静かにドアを開けると、薄暗く静まり返った部屋にあるベッドに雅が寝ているのを確認して、一先ず安堵の息を漏らす。

 まさかとは思ってはいたけど、もしかして部屋にいない可能性を危惧していたから。


「雅、どうし――」


 寝ている雅をなるべく驚かせないように気を付けながら声をかけようとした言葉が止まり、息をのんだ。


「…………はぁ、はぁ……はぁ……」


 雅の呼吸が粗い。それにあの表情――もしかして!


 私は静かに部屋に入ってきた足に力を込めて、ベッド脇へ向かって膝をついて苦しそうにしている雅の額に手を当てた。


「熱い。風邪かインフルエンザかは分からないけど、これはかなりの高熱――」


 言うが早いか、私はすぐに雅の部屋を出て体温計と氷枕、それとタオルを準備してまた部屋に戻る。

 ベッド脇に戻った私は氷枕にタオルを巻いてグッショリと汗で濡れた枕と交換して、電源を入れた体温計を雅の脇にさした。


「雅……雅……」

「…………さ、や……さ」


 体温を測り終えるまで動こうとしない雅に呼びかけると、微かに瞼が開いて掠れ掠れの声で私の名前を呼んでくれた。


「雅、大丈夫!? すぐに病院に連れていくから動けそう?」

「………………はぁ、はぁ」


 返事が返ってこない事に自力で動けないと判断した時、脇に挟んでいた体温計からアラームが鳴り体温を確認する。


「……39度4分」


 やはりかなりの高熱だ。

 ここまで高熱だとインフルエンザの可能性もある。


「雅、ちょっと待っててね!」


 私は急いで自分の寝室に戻って寝ている太一さんを叩き起こして簡単に事情を説明して、急いで服を着替える。

 自力で動けない雅を病院まで運ぶのは女の私では無理だと、同じく着替え終えた太一さんに雅をおぶってもらい、私は保険証の入った財布と車の鍵を鞄に仕舞って車を出した。


 雅を運び出す際物音が大きかったのか起きてきた夕弦にシリアルを食べるように伝えると、自分も一緒に行くと言い出した夕弦に「アンタは学校に行きなさい!」とだけ告げて家を出た。


 結果から言うとかなり高熱であったが、インフルエンザではなく風邪だと診断された。

 とはいえ、風邪であってもこれだけ高熱であれば肺炎になる恐れもある為、安心なんて出来ない。

 そのまま点滴を打ってもらった後、すぐに帰宅して雅をベッドに戻した。

 太一さんがこのまま仕事を休むと言ってくれたが、看病は私がするからと遅れて出勤する太一さんを見送ったあと、会社に今日は休むと連絡を入れてすぐさま雅の部屋へ戻った。


 ベッドで眠っている雅は点滴を打ったおかげか今朝より幾分か苦しそうな表情が和らいではいるが、まだまだ安心できる状態ではない。

 私は軽く雅の顔を冷たい水に漬けた濡れタオルで汗を拭き取り、冷却シートを額に張り付けた。シートが冷たかったのか一瞬「うっ」と小さな声を漏らしたが、その冷たさが気持ちよかったようで眉間に出来た皴が浅くなる。


「ホントに綺麗な顔立ちをしてる。ただ街を歩いているだけで女の子の方から声をかけてくるのも分かるわね……」


 雅は家族である私達にも極力顔を見せない。仕事上どうしても仕方がない場合だけ目が全然見えなくなっている髪を上げて顔を見せてはいるが、その時だけだ。

 風呂上りの時もバスタオルを頭から被せた状態で部屋に戻り、部屋から出てきたらもうしっかり顔が見えないようにしている。

 雅が自分の顔を嫌い周囲に極力見せないようにしている理由は知っている。

 だけど、外見を含めた全ての自分自身を肯定しないと、本当の意味で前に進めない事も――私は経験上知っている。

 こればかりは簡単な言葉ではどれだけ家族を大切にしてくれている雅であっても、心には届かないだろう。

 もしちゃんと向き合って話が出来る機会があれば、その時は必ず雅の心を救い上げてみせると前々から考えてはいる。


 だからその時が来るまでに今よりもっと心の繋がりを強くする必要があるんだけど、今の私の心は少し曇っている。

 

 その原因は昨晩の雅の態度だ。


 ただ疲れているだけで、雅が私のご飯を食べないなんて事は今まで一度もなかった。気にし過ぎだと太一さんは言うけれど、それは血縁者の考えであって、血の繋がらない他人の私とは考え方が違うと思う。

 他人の私だからこそ、これまで色んな角度から雅を見てきた。だからこそ違和感があったんだ。

 昨日の雅は私に思う所があるように感じた。それもあまり考えたくはないけれど、恐らく悪い意味で。

 拒絶されているわけじゃないけれど、何か言いたげな、何かを疑っている……そんなふうに感じた。

 それを考え過ぎだと思考を投げ出すなんて出来ない。

 きっと、なにかあるんだ。そしてそれは時間を引き延ばせば延ばす程、溝が深くなってしまう気がする。


(風邪が完治したら、雅に時間を貰おう)

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