episode 9 やっちまった……
重苦しい思考の闇の中から似つかわしくない電子音が聞こえてくる。その音が何なのか直ぐに理解するも、思考が浮上するのを拒んでいる。
昨夜考えてはいけない事をグルグルと考えこみながら眠ってしまったせいか、瞼が重く圧し掛かるように目覚めの邪魔をする。
一定の回数が鳴り目覚まし時計代わりに使っているスマホのアラーム音が消えた。
だが、スヌース設定にしてあるから数分もすればまた鳴り始めるだろう。このマンションは防音設備がしっかりしていて、隣の部屋に音があまり伝わらないようにできている。
だが、あまり伝わらないのであって完全防音ではないから、アラームの音だっていくらか伝わってしまう。何時もはそれを嫌ってすぐに音を消すのだが今朝はそれも叶わず、このままではまた鳴ってしまうアラームでまだ寝ててもいい夕弦を起こしてしまうのは可哀想だ。
俺はアラームの設定を解除しようとベッド脇に置いてあるスマホに手を伸ばそうとした時、自分の異常に気が付いた。
「っ!!」
俺は寝起きはいい方で朝が苦手というわけじゃない。
それは昔から親父と交代制で家事をしていた事が理由なんだけど、そのリズムが当たり前になっていて朝もすぐに目が覚めるんだ。
だから今朝の寝起きが悪いのは昨晩の事を引きずっていたせいだと思っていたが、どうやらそうではないみたいだ。勿論それも理由としてあるんだろうけど、大きな理由としてこれは……。
(……やっちまったか)
体の節々が物凄く痛むし体全体が重い。目を開ければ見えているものが少し歪んでゆっくりと回っているように見える。熱はまだ計ってないけど、この体調だとかなり高熱じゃないだろうか。
そういえばこの前ニュースで年々インフルエンザの蔓延時期が早まっていると言っていた気がする。もしインフルエンザだった場合、家族に移してしまったら大変だ。
(……家族、家族……か)
親父が再婚してから俺の生活の中心が家族になった。
家事の殆どを引き受けて皆が快適に生活できる環境を整える事が俺の仕事だと思ってた。
だけど、その家族に小さな疑念をもっただけでこんなに気持ちが沈み込むとは思ってなかった。いくら家族であっても時には喧嘩したりするだろうし(紫音とはすでにしょっちゅうやりあってるが)家の空気を悪くする事だってある。
それでもすぐに元通りになる自信があったし、家族の絆が確かにあると思ってたんだ。
(……なにやってんだ、俺)
昨日寝る前に考えていた事。
今まで見た事がない紫音の様子に困惑してしまってあの時は冷静な判断が出来ていなかったが、翌々思い返してみれば2人のやり取りに違和感を感じた。
勿論、高橋の態度の違いは警戒する必要があるのは直ぐに分かったんだけど、それとは別に感じた違和感……。何となくなんだけど、2人の会話がかみ合ってない気がしたんだ。
その嚙み合っていない原因を知るには、多分沙耶さんと腹を割った話をする必要がある。
それが分かってるのに、沙耶さんと話をするのが怖い。
(っと、今日は大学は諦めるしかないけど、皆の朝飯は作らない……と)
自慢ではないが俺は滅多に病気らしい病気にかからない。風邪だって数年に一度あるかないかという健康優良児だ。その代わりと言うのも変だが、風邪をひくとかなり重い症状になってしまう。前回風邪をひいた時は高校一年生の時で、完治するまでに4,5日かかった覚えがある。
ここのところ大学やバイトに加えて映画撮影なんて慣れない事もやってて、それが終わって一気に気が緩んだのも原因かもしれない。
「っ! ととっ!」
兎に角ベッドから降りよう上体を起こそうとしたんだけど、体中に走った激痛に思わず力が抜けて、またベッドに寝転がってしまった。
(これは本格的にマズいな。でも、皆の朝ごはん作らな……い、と……)
☆★
(……あれ? 俺はなにして――)
「ヤバい! 俺……寝て、んぐっ!?」
再び目を開けた時、俺はあのままま寝てしまった事を知って慌てたところで、喉が痛んで声が詰まった。
(ってそんな事言ってる場合じゃない! 今何時だ!?)
上体を起こして壁にかけてある時計を見ようとしっかり開かない瞼の隙間から時間を伺おうとした時、誰かに肩を掴まれたかと思うと、そのまま体をベッドに戻された。
「なにしてるの。寝てないと駄目でしょ」
「…………ぇ?」
俺の両肩を優しく押して俺をベッドに戻したのは、少し表情に影を落としている沙耶さんだった。
「……んで沙耶、んが」
疑問を投げかけようにも、上手く声が出ない。
何とか視線だけで時計を見れば、針は昼過ぎを刺している。
今日は平日でこの時間に沙耶さんが家にいるわけがないはずなのに、こうして俺の目の前にいると言う事は……。
「……さ、やさ……しご、と……」
「喉が痛くて声が出ないんでしょ? 無理に喋らないで。会社はお休みを貰ったから心配しないで」
やっぱり俺のせいで会社を休ませてしまったみたいだ。
「お医者さんが言うにはインフルエンザじゃなくて風邪だって。ただ扁桃腺がかなり腫れてて熱もかなり高いから、暫く絶対に安静にしてなさいって仰ってたわ」
え? 病院? そんなとこ行った覚えなんてない。というか朝体中が痛くて起き上がれなくなってから記憶が殆どない。
もしかして動けない俺を病院に連れて行ってくれたのか?
「……さ、やさ……どう……や……」
「だから喋っちゃ駄目でしょ。太一さんと一緒に車で病院に連れて行ったのよ。やっぱり覚えてないのね」
親父と? そうか……。親父にまで迷惑かけたのか。
「太一さんも会社を休もうとしてたんだけど、私だけで大丈夫だからって雅を病院からベッドに戻してから仕事に出かけたわ」
「……そ、です……か。沙耶さ……ごめ……」
体調が悪くなると人は心細くなり、気持ちが弱ってしまうという。そんな話をよく読んだり、なんなら自分の作品にも書いた記憶がある。
だけど、そのくだりを書いている時でさえ、いまいちピンとくる事がなかった。作品ではヒロインが風邪で体調を崩してしまったが、共働きの両親であったため1人でベッドで寝ている時の描写だったはずだ。
死の間際なら分かるが、たかが風邪でそこまで心が弱くなるものかと内心思いながら書いていた事を覚えている。
その気持ちが分かった。ずっと親父と2人で暮らしている時はそんな不安すら邪魔だと必死だったから感じた事がなかったが、この家族を手に入れて家庭というものに触れた事で、1人で生きているという感覚が薄くなったんだろう。
家庭の……家族の温かみを知ったから、その家族との繋がりに1人になる実感を植え付けられてしまったから。
「なに謝ってるの。子供が弱ってる時に親が看病するのは当然でしょ。何も心配しなくていいのよ」
沙耶さんの優しい言葉が心に沁み込んできて、今朝まであった沙耶さんに対する疑念が小さくなった。
要所要所で沙耶さんがくれる言葉に何度心が温められたか忘れたわけではない。
だけど、今回ばかりは小さくなったとはいえ、燻ぶったまま心に残っている。
これだけ親身になってくれているというのに、これだけ心細かった気持ちが救われたというのに……。
俺に向けてくれている慈愛に満ちた表情の裏に別の感情があるのではと疑ってしまう自分に、苛立ちどころか殺意さえ覚える。
やっぱりちゃんと話そう。全部話して今の俺の気持ちも伝えて、沙耶さんの気持ちを訊かせてもらいたい。
だけど、まともに声を出せない今はどうしようもなくて、それに本気で俺の事を心配してくれているはずの今の沙耶さんの表情をこれ以上曇らせたくない。
だから、今は素直は気持ちだけを伝えよう。
「……あり、……が、と」
「ふふ、どういたしまして。もう何も言わなくていいから、ゆっくりやすみなさい」
どうしても上手く話せなくて、黙って頷いた。
病院で点滴を打ったおかげか今朝より幾分ましになった気もするが、相変わらず節々が痛むし体がだるくはあったけど、さっきまであった孤独感は綺麗になくなり肩に入っていた力が抜けた。
沙耶さんには申し訳ないけど、このままもうひと眠りさせてもらおうと重くなってきた瞼を閉じようとした時、沙耶さんが思い出したように「そうだわ」と言い出した事に意識を向ける。
「眠る前に着替えないとね」
そうか。確かにかなり汗をかいたから正直気持ちが悪かったし、そうしようと痛みを我慢して上体を起こしたんだけど、何故か沙耶さんは俺に着替えを渡すどころか、部屋を出ていく素振りすら見せない。
「……あ、の?」
「さ! もうひと眠りする前に体を拭くからパジャマ脱いで」
「…………え”!?」
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