episode 8 疑惑
高橋と名乗った今目の前にいる男が沙耶さんと別れた男。
離婚しただけで死別したわけじゃないんだから、どこかで生きているのは当たり前の事。
だけど、その男がわざわざ俺を待っていたかのように今目の前にいる現実は、とても当然ではない出来事だ。
気に食わない。
それは俺の前にその男が現れた事じゃない。いや、それも気に食わない事ではあるが、それ以上に気に食わないのは……。
(なんで≪元≫を付けないで自分の事を沙耶さんの夫と名乗っているかという事)
「そうですか。それで? その≪元≫ご主人の高橋さんが俺に何の用です?」
「用件? 紫音から聞いてないかな。俺が沙耶と寄りを戻したいって考えてる事」
確かに以前、紫音から復縁を望んでいるというのは聞いた事がある。
だけど、アレは紫音さんの希望じゃなかったのか!?
「寄りを戻すって事は復縁したいって事ですよね? それって高橋さんが沙耶さんの事を許すって事ですか?」
「許す? 君は沙耶から俺達が離婚した原因を聞いてるんだよね?」
ん? なんか思ってたのと違うリアクションが返ってきた。
確か2人が離婚したのって最初は生活資金が苦しくて沙耶さんが仕事に復帰して、仕事が楽しくて家庭を蔑ろにした事に我慢出来なくなった旦那さんが離婚を決意したんだよな。
それなら復縁したいというのは、そんな沙耶さんを許すって事じゃないのか?
「沙耶さんが仕事に熱中し過ぎて家庭を顧みなくなったのが原因だと聞きましたが……」
「くっくっ……。そうか、やっぱりそうなんだなぁ」
俺が知っている事を話したら高橋って奴の口元がニヤリと口角が上がる。なんとなくその表情が沙耶さんを軽んじてるように見えて、苛つきが増した。
そもそもの話。再婚相手の息子を目の前にしてこの対応はどうなんだ? 俺は沙耶さんを奪いに来た相手であっても、もし噛みついたりして沙耶さんに迷惑をかけたらいけないと、極力感情を表に出さないように我慢してるってのに。
「きみの話を聞いて確信した。あいつは、沙耶はまだ俺に惚れてんな」
「…………っ!」
(もういいか? もういいよな!?)
沙耶さんは親父の事を好きになってくれて、新しい家族と上手くやろうと苦手だった料理だってプライドを投げ捨てて教わろうとしたり、俺自身の事だって本当の息子のように接してくれる自慢の家族の1人なんだ。
その沙耶さんが裏でこいつに気持ちを向けているとか、そんな事あるわけがない。俺は親父が信じた沙耶さんを信じるって決めたんだ。
「……沙耶さんはそんな人じゃね――――」
「――そこでなにしてんの?」
沙耶さん事を軽んじる高橋って奴を怒鳴りつけようとした俺の言葉を遮るタイミングで、女の声がかかった。
その声は聞き覚えがない声じゃなく寧ろよく聞く声であり、この場で聞きたくない声の一つだ。
「……紫音さん」
俺達に声をかけてきたのは恐らく仕事帰りであろう、義理の姉である紫音だった。
何も知らないであろう夕弦や当人である沙耶さんではなく、元々復縁を望んでいた紫音さんだからまだマシだったが、それでもこの場を見せなくはなかった。
「紫音、勝手してしまってごめんな」
「もう、ホントだよ! お父さん達の件は私に任せてって言ったでしょ」
「はは、申し訳ない。でも、一度彼と話をしてみたくてね」
……おい、誰だよこいつ。
ついさっきまでの俺を煽るような……言い方が悪いかもだけど年齢を考えれば品のない口調だった高橋が、紫音が現れた途端別人みたいになったんだが?
しかもそれは紫音も同じで、俺達と接してる時と比べたら完全に別人レベル。前提として俺は沙耶さんを復縁させようとしてる紫音にとっては邪魔な存在というのは理解してはいるけど、それでも最近は少し丸くなったかもしれないって喜んでたんだ。
だけど、高橋に対する紫音を見せつけられたら……やっぱりクるものがある。
「そうだ。このまま家にお邪魔して沙耶とちゃんと話すのはどうかな。もう家はすぐそこなんだし」
「駄目よ、お父さん。そんな事したらちゃんと伝えられる事も伝わらなくなちゃうでしょ? お母さんだって冷静に話し合ってくれなくなるよ」
「……そ、そうか。そうだね……。すまんな、ちょっと焦ってるのかもな」
「うん、大丈夫。とにかくお父さん達が別れたのはお母さんが原因なんだし、訊く耳持たないなんて事にはならないよ。第一線で働くお母さんは尊敬してるけど、それが元で離婚してしまったんだから、お母さんだって後悔してるはずだもん。だからちゃんと向き合って落ち着いて話が出来る時間を必ずアタシが作るから、もうちょっとだけ待ってて」
「うん。分かった。お父さん達の事で迷惑かけてすまないね、紫音」
「気にしないで。お母さんが反省してお父さんと復縁してくれるのが、娘として嬉しいのは当たり前なんだから」
完全に別人同士の話に、俺は割って入る事が出来なかった。
そう、割り込めなくて最後まで2人の話を聞いていた事で、俺はどこかで沙耶さんを疑ってしまっているのに気が付かされてしまったんだ。
沙耶さんが俺達に見せる顔の裏で、復縁したいと高橋を待っていると……。
「雅!」
「…………」
「この事はお母さんにも他の誰にも言うんじゃないわよ! もし話した事が原因で纏まる話が纏まらなくなったら……私は絶対に許さないから! いい! わかった!?」
「…………あぁ」
沙耶さんに対して疑念が湧いてしまったから、紫音の横暴な要求に拒否する事なく大人しく頷いてしまった。
本来であれば紫音と取っ組み合いになってでも、こんな馬鹿な話は沙耶さんの耳に入る前に潰すのが正しいと思ってるのに、どうしてもその気が起きなかったんだ。
「それじゃ、俺は帰る事にするよ。月城君、付き合わせて悪かったね」
「…………」
話しかけられた時とは真逆の口調に苛立ちが募るものの、俺は何も言えずに立ち去る高橋の背中も見ずに、ただ俯いていた。
「それじゃ私も帰るから、一緒に帰ってきたって思われるの嫌だしアンタはちょっと遅れて帰ってきなよ」
「…………」
先に帰ってきたのは俺だと反論したいが、やっぱり何も言う気が起きなくて、高橋と同様に紫音の足音が遠くなっていくのを俯きながら聞く事しか出来ない。
俺は新しい生活を頑張ろうとする沙耶さんを応援してきた。
仕事を頑張れるように家事は率先して引き受けてきたし、料理が出来るようになりたいっていう沙耶さんの気持ちを汲んで、出来る限り親身になって料理も教えてきた。
夕弦だって新しい生活に不安ばかりだろうから、少しでも早く不安を取り除いてやって、新しい家族と新しい生活を送れるように努めてきたつもりだ。
親父も娘にどう接したらいいか分からないなりに、必死に夕弦達との距離を詰める努力をしている。
残念ながら紫音とは決して上手くいってるとは言い難い状況ではあるけど、時間をかけて新しい家族と向き合って貰えるように頑張っていくつもりだった。
それもこれも親父が望んだ事であり、その相手である沙耶さんにも幸せになってほしかったから。
(その沙耶さんに疑惑が湧いてしまったら……)
「…………帰るか」
紫音がマンションに入って15分経って頃合いだと、俺もマンションの方に足を向ける。
これまでこの家に帰る時に、こんなにも足が重く感じた事なんて一度もなかったのに……今はあの家に帰るのが怖い。
「……ただいま」
何時ものように玄関の鍵をカードで開錠して家の中に入っていく。玄関にある靴の数を見て俺以外の家族が全員帰宅しているのを確認して、脱いだ靴を揃えてから奥にあるリビングのドアを開きながら帰ってきた事を伝えた。
「おかえり、雅! 映画の撮影お疲れ様。打ち上げは楽しかった?」
リビングに入るとキッチンにいた沙耶さんが何時もの様子で俺を迎えてくれる。
その楽し気な声で迎えて貰えるのが凄く嬉しかったはずなのに……今はその声すら違うものに聞こえてしまう。
「……うん、楽しかったよ」
「そう、よかったわね。ちょっと前に紫音が帰ってきたからご飯温め直してるんだけど、雅も食べるでしょ?」
普通なら打ち上げで飲んできたのだから夕飯は食べないのだろうが、我が家では沙耶さんが夕飯を作ってくれた日は少しでも食べる事にしている。
それは沙耶さんの料理をチェックする意味合いもあるんだけど、それ以上に沙耶さんが頑張って作ってくれた料理を食べるのが好きだから。
だから沙耶さんは何時ものように俺の分も温めようとしているわけなんだけど……。
「……沙耶さん、ごめん。今日は腹いっぱいだし、疲れたから風呂に入ってすぐに寝るよ」
「………そ、そう。わかったわ」
俺が食べるのを断ると、あからさまにシュンと俯いてションボリといった仕草を見せる。
何時もの俺ならそんな沙耶さんを見たらすぐさまフォローするところなんだど、そんな沙耶さんの姿でさえ疑ってしまっている自分に苛立ち、それを見られまいとすぐに部屋に向かう事しか出来ない。
そんな俺を食卓に座っている紫音の視線が、部屋へ向かう俺の背中に突き刺していた。
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