episode 7 昔と今

「はぁ……本マグロの大トロ……」

「まだ言う? 雅しつこ過ぎ」

「金持ちのお前に俺の気持ちが分かってたまるか!」

「あははは、まあまあ」


 打ち上げの帰り道。思いの他盛り上がった為そこそこ遅い時間になったからと、男性陣がそれぞれ女性陣を最寄り駅もしくは自宅まで送る事になった。

 とはいえ、半分以上のメンバーが二次会だと街に繰り出したのだが、無料なのは一次会までという事で俺は迷わず帰宅を選択した。

 それにともなって俺と同じ理由ではないだろうが、有紀と瑞樹さんも帰るというので方向的に同じ俺が2人を送る事になって今に至る。

 かなり美味い店でどれも満足できる料理を堪能したのだが、頭に頼んでおいた本マグロの大トロが有紀に平らげられてしまっていた為、これだけが悔いが残った。

 勿論、有紀もいたずらしただけですぐにまた注文すればと言われたのだが、今日に限って大トロの入荷量がかなり少なかったらしく再注文した時には既に売り切れていたのだ。


「食い意地はって……まったく。今度回らない寿司屋に連れて行ってあげるって言ってるでしょ」

「それは……そうなんだけど」


 正確には単に回らない寿司屋ではなく、一等地にある老舗らしくネタの半分が時価と表示されている店らしい。そんな店で腹いっぱい食ったらいったいどれだけの支払いをする事になるのか、考えただけで心臓がヒュッとなる思いだ。


「あっはは! しかし清々しい程に潔いというか、月城君って女の子に奢られるのとか抵抗ないんだね」

「それは勿論あるよ。でも……」

「でも?」

「持ってる奴に性別の壁はないと思ってるからさ! だから有紀に奢ってもらうのは問題なし!」

「……あ、ははは……コメントに困る」


 瑞樹さんに思いっきり引かれてるが、まぁそんなの今に始まった事じゃない。

 俺だって女の子に意味もなく奢って貰ったりするのに抵抗がないわけじゃない。

 だが、今はそんな事を言ってる場合じゃないんだ。家庭教師のバイトのおかげで大学生のうちに目標額に達する算段がついたんだから、今はそれに向かって頑張るだけだ! その結果、周囲の人間に後ろ指さされようとも気になんてしてられないんだ!


「あ、駐輪場に自転車預けてるからここまででいいよ」

「そっか、わかった。それじゃ気を付けて」

「ん、ご苦労様、希」

「うん。2人ともお疲れ様。また試写会の時にね!」


 A駅まで送った瑞樹さんはそう言って俺達に手を振って去っていく。試写会の時にと言っていたが実のところ俺は参加する気がない。本打ち上げの時は会費を支払うからというのもあるが、それ以上にこれまで撮影でバイトを減らしていた分を取り返す為に、ギチギチにシフトを組んでいるからだ。まあ、マスターにお願いする前に向こうから頼み込まれたんだけど。


 だから瑞樹さんと会うのもこれが最後だと思う。

 撮影が終われば普段の接点はないわけだし、お互いの連絡先の交換すらしていないのだからこれで関係は切れたのと言っていいだろう。

 

(……それに)


 瑞樹さんと一緒にいるのは正直キツイものがあった。普段は全く真逆のような性格のおかげでそんな事を考える事は殆どなかったんだけど、役者としてヒロイン役を演じる瑞樹さんの動きと表情が、あの人と重なる事が多々あったからだ。


(……思ってた以上にまだ引きずってんだな、俺)


「どうしたの、雅」

「ん? あぁ、なんでもない。さて、次は有紀を送る番だな」


 そういえば有紀が今どこに住んでいるのか訊いた事がなかったな。配信動画の撮影もできる部屋を借りてると聞いた事があったから、それなにりいい部屋に住んでそうだけど。


「このままタクシーで帰るから、ウチはいい」

「この金持ち風吹かせやがって!」


 1人なら最初からタクシーで帰ったんだろうけど、瑞樹さんの事が心配で付き添って来たってわけか。


(俺も信頼されてないんだなぁ)


「言っとくけど、ウチは雅を怪しんでここまでついてきたわけじゃないから」

「そ、そうなのか?」

「当たり前。アンタはウチにとって恩人だから。そんな男を疑うわけない」


 ついさっきまで流暢とは言えないが、有紀なりの口調だったのに、急に昔見たいは口調に戻った。

 だけど、それは決して悪い事じゃないのは分かる。

 きっと、その変化は有紀なりの信頼の証だと思うから。


「ここまで付いてきたのは、単純にウチがそうしたかっただけ」

「そっか。わかった」

「ん、じゃあウチ帰るから」

「おう、おつかれ」


 相変わらず表情の変化に乏しいまま、有紀はタクシーが待機してる駅前のロータリーの方へ足を進める。

 思えば有紀と再会できるなんて少し前まで想像もした事がなかったというのに、一つの作品を作り上げる事になるなんて……まだ大して生きてきたわけじゃないけど、人生って面白いなと思った。

 

 元々小柄な背中を見送っていると、ある程度足を進めたところで有紀が静かにこっちに振り返る。なんだろう。


「雅もこのままウチに来る? それなりの珈琲くらいは出せるけど」


 俺と有紀は昔一度だけ肌を重ねた関係だ。

 だけど、その際にあったのはお互いに恋愛感情を抱いた末に起こした行動ではなく、ただ壊れそうだった有紀の心を救う為の行為。

 どんな理由があろうと客観的にみればいい加減で、不純な行為だっただろうが、俺はあの時の事を後悔した事は一度だってない。

 とはいえ、それはあくまであの時に話であって、今も同じように出来るかと問われれば……。


「美味い珈琲は惹かれるけど、遠慮しとくよ」

「そ、わかった。じゃあね」

「あぁ、おやすみ」


 有紀がどういうつもりで部屋に誘ったかなんて俺には分からない。 

 だけど、どういう理由があったとしても、俺はもう昔の俺ではない。こうして再会できて嬉しい気持ちもあるし、これからも有紀とは良好な関係を築けたらとは思うが、それでもこの誘いに乗るのは違うと俺に中にある何かが訴えかけてきて選択した結果だ。

 この件で今後有紀に真意を確かめる気もないし、また同じような事があったとしても、俺の選択は変わらないだろう。


 有紀の姿が完全に見えなくなった所で、俺は元来たホームへ足を向ける。


 だけど、自宅の最寄り駅から出てすぐの所で、あの時有紀の誘いに乗ってタクシーに乗っていればと後悔する事になる。


☆★


「失礼。月城雅君だよね」

「……はい?」


 最寄り駅であるR駅で電車を下車した俺は真っすぐに改札を潜って、駅の出口からすでに見える自宅があるマンションを見上げる。

 今日も今日とて立派であり、ちょっと圧倒される存在感に苦笑してすぐ先にあるマンションを目指そうと足を進めたところで、不意に男にそう声をかけられた。


 声をかけてきた相手を見てみるが、聞き覚えのない声だったから当然といえば当然だけど見覚えのない男だ。


 少し草臥れたジャケットに皴を伸ばし切れていないパンツ。インナーはワイシャツにネクタイではなく少しオーバーサイズのシャツを着ている。靴はかなり痛みがある革靴で、かなり長く履き続けている事が一目でわかった。

 年は40歳後半くらいといったとこだろうか。顎回りに無精ひげが見て取れて、その風貌はどこかの会社で働いているようには見えない。


「あの、どちら様ですか?」


 見覚えのない男だったけど、もしかして親父の知り合いの可能性もあるから、不自然にならない程度の敬語で男に問う。


「突然声かけてすまんね。俺は高橋たかはし義之よしゆき。沙耶の夫で紫音と夕弦の父親だよ」

「……………………え?」


 あの時、有紀の誘いに乗ってタクシーを使っていれば、少なくとも今日この場でこの人と会う事はなかった。

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