episode 29 雅との出会い 6/8

 雅と夜な夜な行動を共にするようになって一か月が経ったある日の学校帰り。

 今日はお母さんの仕事が休みの日で、家に帰ればきっと娘の存在なんて見えてないように喘ぎ声を聞かされるんだろ。

 というわけで今夜の脱走は既に確定していた。

 二週間前にお母さんはあの男と婚姻関係を結んでからは、3人であのアパートで暮らしている。

 新しい義理の父親は求職中で殆ど家にいる状態で、再婚する前と同様に今もお母さんが働いている。

 そんな男と再婚なんてと言いたい気持ちもあったけど、お母さんも1人の女であり寂しかったんだろうと、何度も出そうになった言葉を飲み込んできた。


「ただいま」


 言っても返ってこない挨拶をすると「……おかえり」とお母さんの掠れた声が届く。

 絶対に寝室に籠りっぱなしだと思ってたウチは返ってきた言葉に「う、うん」とだけ返すしか出来ない。

 家に入ると食卓でお母さんが両手を額に当てて俯いていて、傍にいるはずのあの男の姿が見当たらなかった。


「お義父さんは?」


 トイレかなと思いつつ一応あの男の事を訊ねながら冷蔵庫を開けるウチに、クシャッと丸め込んだ紙が飛んできた。


「なに? これ」


 ゴミを投げつけるなと言いたい気持ちを堪えて床に落ちた丸められた紙を拾う。

 まったくと溜息混じりに紙を広げると、そこにはあの男の名前と印鑑がつかれていて、左半分は空白になっている書類だった。


「……え? これって」


 この紙を見るのは2度目だ。

 初めて見た時はあの男の名前が書かれていた所にお父さんの名前が書かれていた――つまり、これは。


「……騙された」


 お母さんは悔しそうな声でそう呟くと、ダンッとテーブルを叩いた。


 騙されたと言うお母さんが話した内容は、あの男が出入りするようになってからは親に関心を無くして、同居人と割り切っていたウチですら唖然とするものだった。


 あの男は多額の借金を抱えていたのだ。

 その借金の利息が酷いもので苦しいからと、籍を入れたお母さんの名義で借金して元々借り入れしていた方の返済にあて、それからお母さんの方の借金を返していきたいと頼まれたらしい。

 そんな大事な事を籍を入れるまで黙っていた事を怒るところだというのに、馬鹿なお母さんは言われるまま借金をしたと言う。

 そして、男は離婚届だけを残して蒸発……つまり逃げたのだ。


 残ったのは額は知らされてないけど、恐らく容易に返済できない多額の借金だけになったというわけだ。


 そんなお母さんを哀れに思う気持ちもあったけど、中学生のウチにはどうする事も出来ず、ただクシャクシャになった離婚届を睨みつけるしかなかった。


☆★


 それからお母さんは水商売をするようになり、毎日帰るのが午前様になった。

 毎晩決して得意ではないお酒を飲んでフラフラと帰ってくるお母さんを見て、これまでの扱いに対して自業自得だと思うものの、やっぱりたった1人しかいない肉親を放っておく事なんて出来なかった。

 毎晩夜中に酔っ払ったお母さんを介抱して寝かしつける日々。大変は大変だったけど、今まで殆どなかった共有時間が増えて嬉しい気持ちもあった。

 とはいえストレスというものは気付かぬうちに溜まるもので、生活リズムが変わっても一定の間隔で雅との関わりは絶っていない。

 だがウチ達の付き合い方に変化があった。

 それは2人で街を練り歩く事をしなくなったのだ。

 理由は簡単で、適当な男に喧嘩をふっかけても雅の目的である顔面を変形させる事が出来なくなったからだ。

 プロの格闘家とかではなく一般人と喧嘩しても大抵の攻撃を本人の意思に反してかわしてしまうようになった為、大した怪我もせずに勝ってしまうからと、雅は家を抜け出す事を止めたのだ。


 ウチもウチであのクズが家を出て行ってお母さんとの時間が増えた事によって晴らす憂さもなく、頼りになる相棒である安全靴も下駄箱のオブジェに成り代わっている状態だ。

 なら雅と何をしているのかというと、ただアイツの家に行って愚痴を零しあっているだけだ。

 特に雅は綺麗な顔面を忌々しく思っているから、一度愚痴を零しだすと中々止まらない程だった。

 前に俺の顔を蹴り倒してくれと頼まれた事がある。しかも切実に頼んでくるものだからちょっと引いた。

 いくらウチが男を蹴り抜く事に快感を覚えたといっても、友人……ううん、相棒を蹴り抜くなんて出来るわけないし絶対にしたくもないって断った。そもそもの話、実際に蹴ってみたとしてもウチの蹴りなんて軽々かわしてしまうんだから意味もない。


 そんな歪な出会いだったウチらだったけど、今は普通に腹を割って話せる唯一無二の親友として楽しく付き合っているのだ。


 そんな関係が崩れる日がくるなんて、あの時のウチは考えもしなかった。


☆★


 今日も今日とて水商売に精を出すお母さんをウトウトしながら待っていると、午前2時を回った頃に玄関の鍵が開錠される音が聞こえた。

 眠りかけていた意識を奮い立たせて玄関に出迎えに行くと、家に入ってきたのはお母さんだけじゃなかった。


「やぁ、こんばんは」

「……えっと」


 お母さんと一緒に帰ってきたのは典型的な中年太りのハゲ散らかしたオッサンだった。

 顔全体が油ギッシュでテカテカしてて、その油艶が殆ど毛が残ってない頭皮にまで伸びている。


「この人はお店の常連さんでね。いつも私を指名してくれてるの」

「あ、うん……そうなんだ」


 だからなんだと言いたかった。

 常連で指名してればホステスの家に行けるなんてルールなんてあるわけがないんだから。


「君が有紀ちゃんだね、話はお母さんから聞いてるよ。もう心配しなくていいからね」

「えっと、どういう事ですか?」

「……有紀、実はね」


 お母さんが心配いらないと言ったおじさんの詳細を話してくれた。

 この人がお母さんが背負わされた借金を肩代わりしてくれるのだと。

 その提案をされた時すぐさま断ったらしいが、何度も提案を持ち掛けられる度に借金苦で弱った心がおじさんの提案を受け入れたんだと言う。


 だがこの世の中、ただより高い物はないとはよく言ったものだ。

 借金を肩代わりする代わりに付き合う事。それがおじさんがお母さんに出した条件だった。


 聞けばおじさんは×が2つ付いてはいるけど今は独身で、しかも会社を経営してる社長だという。おじさんはお母さんが初めてお店に出た時から一目惚れしたらしく、積極的に口説きにかかっていたが一行に振り向いてくれない事に焦れて、今回の提案を持ち掛けたらしい。


 正直、お母さんは面食いなところがある。

 本当のお父さんも借金を擦り付けて逃げた男も、中身はともかく見た目はかなりよかったんだ。

 そんなお母さんが外見がかなり残念なおじさんの提案を受け入れたって事は、抱えてる借金の額がウチが想像してるより高額だという事が窺えた。


 自分の気持ちとか好みを度外視しても差し伸べられた手を掴んだのは、きっとそういう事なんだろう。

 ただ、問題が一つある。

 それは借金の返済方法だ。

 社長なんてやってて借金を肩代わりを提案できる人間なんだから一括返金だって十分可能ははずなのに、おじさんは毎月返済してる金額と一括で清算すれば支払わなくていいはずの利子をのせたお金を毎月手渡すと言うのだ。


 そんな事をする意図なんて一つしかない。

 一括返済してしまえば逃げられる事を危惧しているんだろう。

 こうして毎月返済にしておけば、少なくとも借金が残ってるうちは逃げだす心配はないと考えたんだと思う。


☆★


 突然家に来て彼氏だというおじさんはすぐさまお母さんを好き放題するものだと思ってたんだけど、ウチに事の経緯の説明を終えると帰っていった。

 お母さんと2人になった後に聞いた話だと、初めは付き合おうと言われたのではなく、再婚を申し込まれたらしい。

 だけど、過去の失敗がいい経験になったのか安易に再婚の申し込みは受け入れなかった為、それならと付き合う事を了承したそうだ。

 

 翌日からおじさんがこの家に出入りするようになった。

 そして、またお母さんの喘ぎ声が耳に届く日が戻った。

 ただ前の男と違ってお母さんの声が芝居がかってると感じたのは、勿論内緒だ。

 きっとこのおじさんに抱かれる事は、お母さんには我慢でしかないんだろう。

 そう思うと借金を擦り付けて逃げたあの糞野郎と見つけた時は、絶対に全力で蹴り殺してやると心に誓った。


「へぇ、有紀のお袋さん再婚したんだ」

「……再婚じゃない。ただ付き合ってるだけ」

「でも借金肩代わりしてくれるって言ってんだろ? そいつ大丈夫なんか?」

「腹に一物抱えてる感はあるから心配は心配なんだけど、借金から解放されてちょっとずつ笑うようになったお母さん見てると、余計な事は言わない方がいいかなって」

「……そっか」


 お母さんの2度目の再婚話も借金に苦しんでいる事も、雅には全部話している。それは信頼してるからってのもあるけど、それ以上に誰かに聞いてもらわないと、1人だと不安に押しつぶされそうになるから。

 だからこういう話はお互い母親で苦労させられてきた雅に聞いて貰うのが、ウチの選択肢の中では最善なのだ。


「あんな人でも、やっぱりお母さんだから、ね」

「まだそういう風に考えられるんだから、有紀は大丈夫だよ」


 雅にとって母親は憎しみの対象でしかない。

 

 だからそんな雅がそう言うのだから間違いはないのだろうと思ってた――あんな事が起こるまでは。


 

――あとがき


 ここまで読んで下さった皆様、ありがとうございます。


 さて、少しこの場をお借りして次話のepisode 30のご案内をさせていただきます。


 結論から言いますとepisode30はかなり胸糞悪い内容になっています。

 現時点で5000文字を突破してまして恐らく7000文字くらいまで膨らむと思われるボリュームになりそうなんですが、内容はひたすら胸糞悪いものになってます。

 なので、気分を害される方もいらっしゃると思いますので、こういう内容が苦手は方はepisode30は飛ばす事をお勧めします。

 作者自身も必要だと書いていますが、書いてる本人も胸糞悪い気分になってますので(じゃあ書くなよって話なんですが)


episode31で有紀に何があったのかは簡単に書くつもりなので、飛ばしてしまっても読み進めていくうえで、問題ないようにしますので次話を無理に読む必要はありませんので、宜しくお願いします。

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