2章 変わりゆく、それぞれの日常

episode・1 新しい朝 

 朝、うっすらと意識が覚醒するにつれて、ショボショボと開く瞼が段々と視界を大きくしていく。見慣れぬ天井、やたらと寝心地の良いベッドの感触、いつもなら近くを通っている国道からの車の走行音が朝のラッシュが始まっている事を告げてくるのに、ここにはそんな朝の騒音が入ってこない。

 シンとした空間にベッドのシーツが擦れる音だけを残し、俺はベッドから降りて僅かに光が漏れているカーテンを開く。

 カーテンに隠れていた分厚いガラスの壁が隔てる先に、まだ目覚めて間もない見慣れない街が広がっていた。


「そっか、そうだった。引っ越したんだよな」


 独り言ちながら最寄り駅であるR駅を上から見下ろせば、上下線共に活発に電車が行き交い、その動きに合わせて稼働を始めた人々の姿があった。

 この光景を目の当たりにして、息をのむ。


 少し大袈裟に言えば、どこかのホテルにいる感覚に近いと、この部屋が俺がよく知る部屋ではない事を改めて実感させられた。

 暫く眼下に広がる景色を眺めれば、朝の出勤時間に入りつつある為、日本の経済を支える働く人々の姿が多くなり、俺の目にはそんな人達の姿が眩しく映った。


 何時までも見ていれそうな景色だったけど、そろそろ朝食の準備をしようと部屋のドアを開けてリビングに目をやると、すでに起きていた沙耶さんがソファーに座って珈琲を飲んでいた。


「沙耶さん。おはようございます」

「……」


(あれ?聞こえなかったのかな?)


「あの、沙耶さん? おはようございます」

「……」

「あ、あの~」

「そりゃね、いきなり全部は無理だとは思ってるわよ? でもね、こうして一緒に暮らすようになったんだから、挨拶くらいは……ねぇ」


 沙耶さんの言い分を訊いてハッとした俺だけど、そんな事で拗ねる仕草を見せる沙耶さんが何だか可愛く思えた。


「おはよう! 沙耶さん」

「! えぇ、おはよう! 雅君。良く眠れた?」

「えぇ、おかげ様でスッキリと起きれましたよ」

「ふふっ、それはよかったわ」


 嬉しそうに微笑む沙耶さんの姿に、朝起きて親父以外の人間に挨拶をする事で家族が増えた事を実感して、俺はその事実を素直に喜んだ。


「雅君も飲むでしょ? 珈琲」

「あ、はい。そうですね」

「それじゃあ淹れるついでに、朝食を作るわね」


 沙耶さんがそう言って空になったマグカップを片手にキッチンに向かおうとしたソファーから立ち上がった所で、朝食は俺が作ると沙耶さんを呼び止めた。

 それは決して沙耶さんの料理がどうこうという話じゃなく、単純に沙耶さんが昨日の夕食を作ったからという事と、親父と沙耶さんは仕事、夕弦も今日から新しい学校に登校する。

 それに対して俺は学生と言っても大学生で時間的に一番余裕がある身なのだから、忙しい朝は極力自分が作ってなるべくゆっくりとした時間を家族に過ごして欲しかっただけで、他に他意はない。


 そう説明すると納得してくれたようで、キッチンを空け渡してくれた。沙耶さんがカプセル式のコーヒーメーカーで淹れてくれた珈琲を啜りながら、俺は冷蔵庫の中身を確認して今朝のメニューを決めた。

 

「何を作ってくれるの?」

「今日は夕弦が初登校で緊張してるでしょうから、あいつの緊張を少しでも和らいでやれる朝食ってやつですかね」

「ふふっ、あの子の事をそうやって考えてくれて嬉しいわ」

「俺にとっても、もう妹ですから」


 沙耶さんと笑い合って早速調理に取り掛かろうと、材料を並べる。

 まずはと野菜を洗い始めた時、ふと視線が気になって顔をあげると、沙耶さんがメモ用紙とペンを握って俺の手元を凝視していた。


「あの……沙耶さん?」

「気にしないで、先生!」

「え? でも……」

「気にしないで!」

「……はい」


 俺は観念して、調理を再開した。

 その間、沙耶さんは気になった事を積極的に質問してきたりして、熱心にメモを取っている。恐らく沙耶さんは料理が出来ないわけではなく、これまで料理に関心がなかっただけじゃないだろうかと、昨夜から今朝にかけての沙耶さんの行動で予測した。


 それに料理を特別に美味く作るのは才能が必要だと思っているが、一般的に美味いと言ってもらえる程度の料理なら才能より努力だと思っている俺にとって、今の沙耶さんがそうならない理由が見つからないとも思った。


 朝食を作り配膳を終えた俺と沙耶さんは一息ついた後に、沙耶さんは親父を、俺は夕弦を起こそうとそれぞれの部屋へ向かう。

 因みに研究家の沙耶さんは配膳を終えた朝食をスマホのカメラであらゆる角度から写真に収めていた。


 そんな沙耶さんを見て、そう遠くない未来に自分より料理が上手くなった義母さやさんの姿が見えたんだけど、まだ内緒にしておこうと笑みを零すにとどめた。


 ◇◆


 沙耶さんが親父と同じ寝室に入っていったのを見たのが、失敗だったと思う。

 よく考えなくても、一緒に寝ている部屋なのだからノックは必要ない。だが、その流れで俺が夕弦の部屋をノックせずにドアを開けるのは違う事に気付いたのは、ドアを開けて夕弦の部屋を覗いた時だった。

 あっ!と思ったのと同時に、眠っている夕弦の姿が目に入ってしまった時、俺はパンッ!といい音を鳴らす勢いで口を手で被せて、目線を脇に逸らして肩を震わせる。


 俺が何を見たのかというと、どうやら夕弦は寝相が悪いようで上掛け布団を派手に蹴飛ばし、パジャマもはだけてお腹が露出してしまっていたのだ。更に露出した腹をポリポリと掻いている現場を目撃してしまった俺にはそんな夕弦がオッサンにしか見えなくて、吹き出しそうになったのを堪える為に慌てて口を塞いだのだ。


 マズい――この現場を見た事が夕弦に知れたら、朝っぱらから何を言われるのか分かったものじゃない。

 俺は必死の笑い声を殺しながら、細心の注意を払い部屋を出てドアを静かに閉めた。


 ブフッ!


 堪えていた笑いが限界を迎えて、部屋で気持ち良さそうに眠っている夕弦を起こさないように、極力声を殺してクックックッと笑った。決して馬鹿にしているわけじゃなくて、初めて夕弦と会った時とのギャップが凄すぎて、どうにも笑いが抑えられなかったんだ。

 俺や親父がいるこの生活を受け入れて、警戒心を微塵も感じない夕弦の姿が嬉しかったんだ。

 そんな夕弦に悪戯したくなる俺は結構Sっ気があるのかもしれないと、新しい自分を発見した気がした。


 笑いが収まりだしたのを見計らい1度大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから、ゴホンと咳払いをひとつ。

 そして夕弦の部屋のドアを〝コンコン〟と優しくノックした後――


「朝だぁ! 起きろ! 夕弦ーー!!」


 大きく吸い込んだ空気を一気に言葉に乗せて吐き出す。

 こんな起こし方が出来るのは、このマンションの防音設備が凄いからで、これを以前の家でやったらお隣さんから白い目で見られる事だろう。


 ドンッ! ギシ……ドタンッ!!


 ドアの向こう側から何かが飛び跳ね、床に落ちた音が聞こえた。部屋の中の様子が目に浮かんで、今度は我慢せず盛大に笑ってやった。 


 部屋の中から音が聞こえなくなったかと思うと、ドアが勢いよく開き、中から腰を手で摩りながら俺を睨む夕弦が出てきた。


「ちょっと、雅君!? 他にも色々と起こし方ってあると思うんだけど!」


 うん――やっぱり敬語を使わなくなってるな。


「それは部屋に入って優しく起こせって事か? そんな事したら俺に腹をポリポリと掻いて、よだれ垂らしてるのを見られちゃうだろ?」

「……なるほど、それもそうか――って! それもう見てるやつじゃん!」

「おっと! つい余計な事を」

「雅君! ちょっとそこに座りなさい!」

「何でだよ! お前は俺のオカンか!」


 威勢よく抗議する夕弦だったけど、顔が真っ赤になってて照れ隠しなのは直ぐに分かった。


「もういいじゃん。それより朝飯出来たから、さっさと顔洗ってこい」


 俺はそう言って、手に持っていたタオルを夕弦の頭にかけてやる。


「分かってるよ!」


 俺は頭に被せられたタオルを手に持ち、口を尖らせてリビングを出ようとする夕弦の背中を呼び止める。


「ちょっと待った」

「……なに!?」

「朝の挨拶がまだだろ? おはよう、夕弦」


 ニッコリと微笑んで挨拶しているのに、夕弦は拗ねた表情を崩さずジト目を向けている。


「挨拶だよ、あ・い・さ・つ。沙耶さんの言った事、もう忘れたのか?」


 沙耶がこのマンションを購入しようと決めた理由。

 リビングを通らないと各々の部屋を出入り出来ない間取りで、家族皆がちゃんと挨拶が出来るからと嬉しそうに話していた。


 夕弦は少し眉間に皺を作り、俺から視線を外して天井を見て口を開く。


「……おはよ」

「え? なに?」


 ボソッと小声で朝の挨拶をする夕弦に、俺は片耳に手を添えて聞こえないと露骨なポーズをとってやった。

 まぁ、聞こえてたんだけどな。


「おはよう!!」


 今度は大きな声で挨拶をすると、夕弦はドスドスと床を鳴らしながらリビングを出て洗面台に向かっていった。

 ふと視線を感じてリビングの出入口から親父達の寝室に視線を移すと、親父と沙耶さんがポカンとした顔でこちらを眺めていた。

 どうやら朝っぱらから騒がしくして、驚かせてしまったようだ。


「おはよう、親父」


 俺は苦笑いを浮かべてそう挨拶すると、親父も「お、おはよう」と返し寝室から出てくる。


 4人分の珈琲を淹れてダイニングテーブルに置くと、親父と夕弦がリビングに戻ってきてそれぞれの席に着く。すると、ついさっきまで不機嫌な顔をしていた夕弦の目がキラッキラと輝きだした。


「フレンチトーストのプレートだぁ! 美味しそう!」


 今朝のメニューは、フレンチトーストにゆで卵、ハッシュポテトとサラダのモーニングプレートだ。

 もっと手の込んだものを作ろうかと思っていたけど、冷蔵庫の中身が寂しくて、これくらいしか作れなかった。

 それでも膨れっ面だった夕弦の変わり様を見て、喜んでくれたみたいでよかったと安堵した。


「ん~! 美味しい! でもあんまり甘くないんだね」

「うん。もっと甘いかと思ってたけど、俺はこっちの方が好きだな」

「ホントに美味しいわ。まるでカフェにいるみたいね」


 夕弦が感想を述べると、親父と沙耶さんも続く。


「おやつじゃなくて、あくまで朝食だからな。それにこういう味付けにすると、こういう食べ方が合うんだよ」


 そう言って、一口サイズにフレンチトーストを切り分け、その上にカットしたハッシュドポテトとサラダを乗せて、その上にまたフレンチトーストを挟み、フォークで突き刺して、豪快に口に放り込んだ。


「うん! 美味い!」

「あー! 雅君だけズルい! 私もするもんね!」


 美味そうに食べる俺を見て悔しそうに夕弦も同じ様にサンドイッチを作り、小さな口に頑張って頬張る。


「うー! 滅茶苦茶おいひい!」


 夕弦はナイフとフォークを置き、両手を両頬に当てて絶賛の声を上げた。


「あはは、大袈裟だろ」

「そんな事ないわ。本当に美味しいもの」

「うん! お前今までこんなの作った事なかったよな?」

「ありがとうございます。親父はどちらかというと朝は和食派だっただろ? だから作らなかったんだよ」


 俺達4人は楽しく食事を続けた。少し前までは親父と2人で食べるのが当たり前で、ずっとそうなんだと思ってた。

 でも……どうせ作るのなら、喜んでくれる人は多い方が良いに決まっている。

 そんな事を考えている時、あまりに誰も何も言わないから忘れそうになっていた事を思い出し、沙耶さんに気になっていた事を訊く事にした。


「あの、そういえば、もう1人の方っていつ来られるんですか?」


 もう1人というのは、夕弦の姉であり、年齢が24歳と訊いていた為、俺にとっても義姉ねえさんになる人の事だ。

 仕事が忙しくて来れないと訊いていたけど、結局今日まで一度も顔を見ていないのだ。


 その姉の存在の事を訊いた時、親父と沙耶さんは苦笑いを向け合い、夕弦に至っては面白くなさそうに、まるでフレンチトーストを何かに例えるようにフォークでグサリと突き刺している。


「そうね、まだ1度も会えてないものね。ここのカードキーは渡してあるから、もう少ししたらひょっこり顔だすはずよ。だからもう少し待ってもらえる?」

「えぇ、別に急いでいるわけではありませんので。何かトラブルとかになっているわけじゃないのなら、僕は全然構わないですよ」


 沙耶さんは「ごめんね、御馳走様」と申し訳なさそうに言い、そろそろ支度にかからないといけないからと席を立ち、食器をシンクに置いて自室へ向かう。


「親父は会った事あるんだよな?」

「あぁ、凄くしっかりした人だったよ。ご馳走様」


 親父も席を立ち、支度に取り掛かりだした。

 名前は親父から訊いていて、知っている。


 確か、成瀬なるせ 紫苑しおんだったか。


「なぁ、紫苑さんってどうして顔を見せないんだ?」


 この場に残っている夕弦に姉の事について、訊いてみた。


「さぁね。まぁ、あれだよ……蛙の子は蛙って事なんじゃない? 私も御馳走様でしたっと!」


 意味深な事を言い残して、夕弦も食器を片して自室へ向かいドアを閉めた。

 姉の事を話す夕弦の様子を見る限りあまり仲が良くないのかと心配になったが、未だに顔すら見た事がない相手ではどうしようもないと諦めて、洗い物を片付ける事にした。


 暫くして、身支度を整え終えた親父と沙耶さんが自室から出てきた。

 2人共、戦闘服を身に纏うと、戦闘準備万端と言わんばかりに働く人間のそれを醸し出し、俺はそんな2人を格好いいと見惚れた。


「それじゃ行ってくるぞ。雅」

「いってくるわね、戸締り宜しくね。雅君」

「はい、任せて下さい。いってらっしゃい! 親父、沙耶さん」


 俺は2人を玄関先まで見送り玄関の鍵を閉めてリビングに戻ると、今度は支度を終えた昨日の夜お披露目した、新しい制服に身を包んだ夕弦がいた。

 高い階層にある部屋は他の建物に遮られる事なく、朝の光が制服姿の夕弦を照らす。

 さっきまでは元気いっぱいだった夕弦だったが、制服を着て気持ちが転校先の学校に向いたのか、キラキラと輝く姿とは裏腹に少し不安気な緊張した面持ちを見せていた。出来るだけ緊張を解こうと朝から色々してきたけど、やっぱり転校初日の緊張を完全に和らげる事は出来なかったようだ。


「不安か? 夕弦」


 俺がそう訊くと、夕弦は黙ったまま頷いた。


 俺は転校経験がないから、夕弦の気持ちを完全に理解してやるのは無理だろう。でも、やはり知った顔が1人もいない学校に行くんだ。不安な気持ちが先行するのは当然だという事は解る。


 だから元気だせだとか心配ないとか無責任な事を言いたくなくて、夕弦の頭にポンと手を置いてこう尋ねたんだ。


「今晩、何が食べたい? 夕弦の好きなの俺が作ってやるよ」


 そう言う俺の顔を少し目を大きく開いた目で見つめた夕弦は、少し口元を震わせながらニコッと笑みを見せる。


「私、ハンバーグが食べたい」


 そう言う夕弦が可愛くて心が温かくなるのと同時に、転校初日が上手くいくようにと心から祈った。


「了解! 夕弦が腰抜かす程、滅茶苦茶美味いハンバーグ作ってやる!」

「うん! ありがとう、雅君」


 夕弦は満面の笑みを見せて、さっきまでの不安気な雰囲気なんてなかったかのように、元気に玄関のドアを開けた。


「いってきます! 雅君!」

「おぅ! いってらっしゃい夕弦。あ、そうだ」

「うん?」

「緊張して言葉が出なくなったら、昨夜ゆうべの事を思い出せ」

昨夜ゆうべの事って?」

「いいから、それだけ覚えといて。いってらっしゃい」

「う、うん。いってきます?」


 夕弦は首を傾げながらも、手を振りながら玄関を出て行った。


 俺は小さく息を吐き、大学へ向かう時間までまだ余裕があるからと、袖を捲り家族の洗濯物に取り掛かるのであった。

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