episode・11 夕弦の決意
夕弦ちゃんの父親は、どこにでもいる平凡なサラリーマンだ。
2人が結婚して次女である夕弦ちゃんが生まれて数年が経ち、子供の養育費の捻出に苦労し始めた沙耶さんは、元々勤めていた会社の紹介で今の会社に入社して働き始めた。
始めの数年は家計も豊かになり、家族で色々な所に出かけたり楽しい時間を過ごしていたそうだ。
だが沙耶さんの仕事が高評価を受け続け、とんとん拍子に出世する度に帰宅する時間が遅くなり、とうとう酷い時は電車がなくなる時間まで働くようになってとうとう帰宅しない日も出始めた頃から、夫婦喧嘩が頻繁に起こるようになったらしい。
喧嘩が始まる度に姉が必死に仲裁に入り、夕弦ちゃんはいつも泣いていたという。
やがて両親は離婚して、沙耶さんは2人を連れて賃貸のマンションに移り住み、3人暮らしを始める。
だけど新しい生活が始まっても、沙耶さんの生活リズムは変わらなかった。
まだ幼い娘2人を部屋に残し、朝から深夜まで仕事漬けの日々を送り、夕弦ちゃん達は毎晩寂しい思いをさせられていた。
そんな時、沙耶さんの両親がその事実を知って怒り、夕弦ちゃん達を引き取ると言だして、離れ離れの生活になったのだという。
その間、偶に電話があるくらいで沙耶さんが実家に姿を現す事はなかった。
不思議に思い祖父に問うと、沙耶さんは勘当しているからもうあんな奴の事は忘れろと言われたそうだ。
「というわけです。再婚に反対するのは当然だと思いませんか?」
「まぁ、そうだな」
沙耶さんから聞いた話と同じで、食い違っている箇所がない事に安堵した。
もし沙耶さんが自分勝手に捏造していたら、俺もこの再婚話を潰すつもりでいたからだ。
それは、その話の後に沙耶さんが言っていた事に信憑性が生まれた事になる。
「沙耶さん、会社に辞表を提出したの知ってるか?」
「え?」
「今回の再婚をきっかけに、今までの自分の過ちを……家族をやり直したいって言ってた。だから昨日のあの席で夕弦ちゃんに頭を下げるつもりだったんだってさ」
「……何を今更」
「そうだな。俺もそう思うよ」
「だったら! だったら何で反対しないんですか!? そんな母が家族になるんですよ!? 絶対にお二人も不幸になるんですよ!?」
静かな店内に夕弦ちゃんの声が響く。幸い他の客がいなかったが、店員が怪訝な顔つきでこちらを見ている。
だがそんな事など構う事なく、俺は話を続けた。
「親父が――沙耶さんと一緒になりたいって望んでるからだ」
「は!?」
「親父は全部知ってたよ。知った上でそんな沙耶さんを受け入れてたんだ。だから俺は、親父が信じた沙耶さんを信じようと思ってる」
「そ、そんな事で信じるって言うんですか!?」
「俺には、それで十分なんだよ」
さっきまでの突き刺さる様な視線は鳴りを潜め、動揺を隠せないのか彼女の視線が宙を彷徨っている。
「この場での俺の話は参考程度で聞き流してくれていい。でも1度くらい沙耶さんとじっくり話してからでも、決断するのは遅くないんじゃないか?」
「……」
夕弦ちゃんは言葉を失ったようだ。その無言の言葉が彼女の中で迷いが生じている証明になる。
だけど、俺は説得しようとしているわけじゃない。
ただこの子には一時の感情だけで動いて、取り返しのつかない後悔をして欲しくないだけだ――。
その後、少しは前向きになってくれたのか、夕弦は俺に昨日の沙耶さんの様子を色々と訊いてきた。勿論、俺は何も変色する事なく、全ての質問に対して嘘偽りなく答えていると、気が付けば3杯目になったホット珈琲の湯気が消えていた。
「お客様。申し訳ないのですが、そろそろ閉店になります」
店員がそう告げに来るまで、時間をすっかり忘れていた俺達はお互いのスマホを覗き込む。
「うわっ! お爺ちゃんから凄い件数の着信が来てます!」
夕弦は勢いよく席を立ち、焦った様子でそう叫ぶ。
俺も時間を忘れていて話し込んでしまったせいで、電車で帰るにはギリギリの時間だった。
俺達は慌てて会計を済ませ店を飛び出したんだけど、駅へ向かっている途中で突然彼女の足が止まった。
「どうした? 急いで帰らないとなんだろ? 近くまで送って行くから急ごう」
「絶対に怒られるので、雅さんが責任とって下さい」
「はぁ!? な、何で俺が責任とらないと駄目なんだよ! ていうか責任ってどうしろってんだ!?」
「だって雅さんが話があるって言ってきたからじゃないですか! 1人で帰ったらどんな言い訳したって怒られるだけでしょうから、雅さんも一緒に来て事情を説明する義務があると思います!」
無茶苦茶な言い分だ。そりゃいきなり会いに来たのは俺だけどさ。でも、俺の要件は早々に済んだのに、夕弦の質問に答えてたからこんな時間になったんじゃん!
「い、いや! 俺も急がないと帰れなくなるしさ」
「駄目です! 絶対に一緒に来てもらいます! そ、そのかわりウチに泊めてあげますから……」
「は? 何言っちゃってんの!? 赤の他人の男を泊めるとか、お父さんはそんな娘に育てた覚えはありませんよ!」
「誰がお父さんですか!――そ、それに赤の他人じゃなくなるかもしれないじゃない……ですか」
――夕弦は前向きに、再婚の事を考えようとしてくれている。
そう判断するのに十分な台詞だった。
「いや、でも! 言ってなかったけど、学校に向かう前に夕弦ちゃんの家に行ったんだけど、門前払い喰らったんだよ」
「それなら大丈夫です。私が絶対に説得しますから! 雅さんは私が怒られない様に盾になってくれればいいんです!」
「…………わかった」
夕弦ちゃんの押しに根負けした俺は今日中に帰宅するのを諦めて死地と言っても差し支えない――沙耶さんの実家に向かう事にした。
夕弦ちゃんの祖父と祖母から予想通り、いや、予想以上の歓迎を受けた……勿論悪い意味で。
だが、彼女が沙耶さんの再婚を前向きに考えたいからもう少し俺と話をさせて欲しいと嘆願してくれたおかげで、何とか実家に泊まる事を許された。
夕弦の実家は典型的な昔ながらの建物だったが、間取りが多く3人暮らしをするには大き過ぎて、寂しくないのかなと考えてしまう家だった。
祖父に居間へ通されて、夕弦ちゃんは着替えの為に自室へ戻っていく。
祖母はお茶を淹れてくれているらしく、必然的に居間には俺と祖父だけになった。
祖父は随分眠そうに大きなあくびをする。年齢を考えると、当然な位置を時計の針が指していた。
「あの、夜分に本当にすみませんでした」
「ふんっ、夕弦にあんなに強請られたら仕方ないじゃろ」
俺は無理を聞いてくれた祖父に、もう1度頭を下げる。
「じゃがな、可愛い孫娘に妙な事してみろ……明日のお天道様は拝めんと思え!」
「ば、馬鹿な事言わないでよ! お爺ちゃん!」
着替えを済ませて居間に降りて来た夕弦ちゃんが顔を赤くして俺達の間に割って入ってきて、2人はもうとっくに寝る時間だからと強引に居間から追い出した後、ギロッとこっちを睨んでくる。
え?俺なんかしたっけ?
「そういえば、雅さんカフェで珈琲しか頼んでませんでしたね。お腹空きませんか? 簡単な物なら作りますけど」
「え? あ、あぁ、そうだな。てか夕弦ちゃんもパンケーキしか食べてないんだから腹減っただろ」
「あれだけで十分なカロリーがありますから、私は大丈夫です」
――ぐうぅ~……。
静かな室内に大きな腹の虫が響き、夕弦ちゃんは顔を真っ赤にして腹を両手で隠した。
「ははっ、ほらやっぱり減ってるんじゃん。タダで泊めてくれたお礼に俺が何か作るよ。冷蔵庫の食材どれ使っていいのか教えてくれ」
夕弦ちゃんは「うぅ……」と恥ずかしそうに唸りながら、使っていい食材をキッチンに取り出した。
「じ、じゃあ私は、お風呂沸かし直してきますから」
そう言って夕弦ちゃんは足早にキッチンを出て行った。
1人っ子だった俺にはなんだかこんなドタバタ感は初めての事で、妙に楽しくなってきた。
親父に今日は沙耶さんの実家に泊まる事をトークアプリでメッセージを送り、料理を始めた。
昔懐かしの古い振り子時計の音が耳に届く。
あの音って何だか落ち着くから好きだ。
すると時計の音と交じって、古い廊下の軋む音が聞こえてきた。
「お湯が少なかったから、お湯抜きついでに浴槽洗って張り直してるので、ちょっと時間かかりますよ……っていい匂いですね」
「あぁ、わざわざありがとうな。こっちはもうすぐ出来るんだけど、食器が分からないから準備して貰えると助かる」
「はい、分かりました。あ、ご飯はまだ十分に残ってますから、お茶碗によそっておきますね」
そう返事した夕弦ちゃんは手際よく食器を配膳して、緑茶を淹れ始める。
なんだか本当に妹が出来たみたいでむず痒かったけど、近い将来こういう事が日常になるのかと考えると、何だか温かい気持ちになった。
「ほい! 本当に簡単な物だけど、おまちどうさま」
「野菜炒め? 何を作ってくれるのかと思えば、本当に簡単な料理ですね……これなら私にだって作れましたよ」
「まぁそう言うな。遅い時間だから油は控えめに作ったんだからな」
俺達は手を合わせて、野菜炒めを口に運んだ。
「ん!? 美味しい……え? どうしてですか? 私のとどこが違うんですか? 調味料とかウチにあったの使ったんですよね?」
「勿論。口に合ってよかったよ」
本当に美味そうに食べる夕弦ちゃんを見て俺も空腹だった事を思い出し、気が付けばあっという間に平らげてしまっていた。
「御馳走様でした。あの……隠し味使ってるんですよね? 何を使ったらこんなに美味しくなるのか教えて欲しいんですが」
「う~ん、そうだなぁ。それじゃ、夕弦ちゃんが俺の妹になってくれたら教えてあげるよ」
そう言うと夕弦ちゃんは少し頬を赤らめて、ジトっとした目を向ける。
「何か言い方が……エロいんですけど」
「なんで!?」
夕弦は校門で話しかけた時と比べて、楽しそうに見える。
もしかしたら、あんな別れ方をした事を悩んでいたのかもしれない。
そう考えると結果はどうなるか分からないが、電車の運賃やカフェ代の痛かった出費も意味があったと思えた。
「あのですね、さっきお風呂沸かしに行った時、お母さんに電話したんです」
「そっか。それで?」
「細かい事は会って話す事にしましたけど、その時約束して欲しい事があって、それをお母さんが約束してくれたら再婚を祝福するって伝えました」
「沙耶さんは何て言ってた?」
「な、なんか泣きながら……ごめんねって――言ってました、ね」
夕弦は両手の指をモジモジとして俯いていたけど、頬を赤らめて嬉しそうに口角をあげていた。
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