5 / ⅶ - 耽美で、甘美な -







「会いたかったわ、私の【堕天使サリエル】」


 彼等の言う【六六〇】の刻。


 暗夜を動く一つの影を、紫苑の呉服に身を包んだ女性の妖艶な声が手招きする。


 鋭い眼光までもを愛でるような彼女は、目尻を下げながら穏やかな口調で、男性の口を覆うスカーフ越しに尖らせている唇に、陶器のように細く滑らかな指を重ねる。


「同席者は第三席の他には誰がいる?」


「同伴者はお付きの可愛いワンちゃんが一人いるみたい。女性は私だけだから、乱暴されそうになったらちゃんと守ってね」


「はいはい」


 聞き慣れた調子の軽口に、聞き流すような生返事の応酬。


 けれど決して優しさの一片も無い二人が闇の中を歩く様は、死神の出迎えにすら見えた。


「貴方は今もあのお姫様のために……いいえ、最初からだったわね。出会った時からずっと、お姫様のためにその手を黒く染めるのね」


 妬けちゃうわ、と女性は話しながらまぶたの奥で、そして言われた青年もスカーフを正しながら、二人の巡り合いの日を想起していた。


 正義の名の下に裁きの役割を担う存在を断罪の天使というなら、それが堕天したのは一人の少女の涙を見た後のこと。


 己の拳と風紀委員の白い詰襟を返り血で赤く染めた“血染め委員長”が、一人の少女にその姿を見られ涙された。


 そして、その現場を偶然目にした一人の女性が、悪に報いる時に手を汚すことへの躊躇いの無さに目を付ける。


「後悔、してるの?」


 話を聞くに、自分の手が汚れることを恐れらてしまったと、しかし悪事は罰しなければならないという己の正義感と義務感も否定出来ないと苦悶していた少年に、返り血で手を汚さない手段、即ち銃火器を差し出した。


 そして他者を傷付けることが正当化され、評価される世界───即ち無国籍テロリスト組織【N.O.i.Rノアール】の世界へと、小郷有土を誘ったのだ。


「……まさか」


 あの日、彼女が流した涙の重みに比べたら。


 あの日、彼女を泣かせた己が罪に比べたら。


「俺が死神に誓った言葉の通りだよ。一緒に死んで、一緒に地獄へ堕ちよう」


 だけど、それは今じゃない。


 だから、今はどうか───。


「えぇ、往きましょう。これが私達の非道で、邪道で、そして覇道よ」


 二人が脚を止めた先を瓦屋根の門構えが迎え、奥に進めば漆黒の夜に行灯によって仄かに揺らめく光によって朧を描く、池泉ちせん蒼碧そうへきと樹木の新緑が織り成す空間が広がっていた。


 澄んだ水面には庭石が絵画的に置かれ、左右に築かれた築山つきやまには松の木が青みを帯びている。


 夜闇と雪空に冷えた風が冷ややかに肌に刺さる中、薄明かりを頼りに池に架かる小さな石橋を歩めば、水鏡すいきょうに映されていた幽玄の美がその全貌を見せる。


 枯淡閑寂こたんかんじゃく───その言葉がここまで似つかわしい庭園もそうないだろう。


「こんな素敵な場所、用事じゃなくてデートで来たかったわ」


 その空間こそ、古来より息衝く侘寂わびさびの精神を体現化した料亭だった。


「いらっしゃいませ、当主様」


 割烹着姿の案内役に導かれ、瓦きの屋根ときめ細やかな黄褐色の聚楽土じゅらくどで塗られた土壁で作られた楼閣の中、松の廊下を奥へと進む。


 暫くすると一室の前で足を止めてふすまを開いた。


「お待たせしました、点糸第一野党代表補佐」


 青年を部屋の外へ立たせ待つよう指示し、女性が入室する。


 彼女の凜とした声が畳の広がる空間に響くも一瞬で、それはすぐに溶けては消える。


 ひのきの柱の焦茶色と藺草いぐさの新緑が相俟あいまって作るしんと音を立てない清らかな静寂には、その間に座す人の厳かな尊さを混ぜ込まれている。


「私は別段、君達に話すことなど何もないのだがね」


 貫禄のある声、勢威のある声、短くともげんとした男性の声は、冷静沈着な彼に珍しく苛立ちの色が伺える。


 自分の見識の範疇を越えた存在との接触、それも能動的ではなく呼び付けられたとあっては当然であろうか。


「そうつれないことを仰らないでくださいな……あら、点糸様。そちらの可愛らしい学生さんワンちゃんはどなたでしょう? 私にも紹介してくださりませんか?」


 本題を早く切り出して欲しいという点糸の感情を逆撫でするような、一見すると甘く蕩けてしまう勿体付けた台詞と妖艶な女性の笑みの奥を、しかし察し切れるほどは場慣れしていない黒縁眼鏡の青年は、思わず彼女の空気に呑まれ赤面してしまう。


「彼は禾生法経君。ウチの若きホープで、いずれは我々の次世代の席に座してもらう人物だ。今でこそ学生の身だが、為政者の公私を知り生活に触れることも大切だろうと、今は私の補佐を頼んでいる。今日も本来なら、普通の歓迎の席だった筈なのだがね」


「そうだったのですね。そんな貴重なお時間をいただけましたこと、とても嬉しく存じますわ」


 とんだ邪魔が入ったものだと暗に言った言葉を理解した上で、作り笑いで綴る言葉は心にもない建前をうそぶく。


 だが、視線の先にいた法経にはその表情と甘言が心地良く響いたのか、まだ若さが色濃い彼は文字通り若気にやけた締まりのない顔をしてしまう。


 もっとも、点糸と法経とでは蓄積した場数、経験の差はあれど、だから彼は未熟者だとそう強く囃し立てられるものではない。


 この風光明媚な座敷の中に最適解とも言える、呉服姿に身を包んだ流麗な黒髪の淑女など、生ける芸術と対座しているようなものであるからだ。


 美術作品を目にするような視覚的刺激に加えて、張りのある瑞々しく艶やかな肌の質感と、そこからふわりと香る女性特有の花の蜜をミルクに溶かし込んだような甘い匂いが鼻の先にまで届いている状況で、まだ男女の経験が浅い法経の心境など推して知るべしだろう。


「あらあら、随分と愛いらしいお顔をなさるのね。もしかして色の差す遣り取りはお嫌いな、実直な殿方なのかしら」


「え、あ、えっと、あの、その……」

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