第7話 グッドバイ
衰弱の果てに墜落する様を所々で垣間見た。
生きるもの全てに平等に与えられた時間は、人からすれば無意味で空虚な概念なのかも知れない。
ならば何故、人は生き抜いて行こうともがくのだろう。
働いて眠るだけの生涯。
毎日毎日同じ事の繰り返し。
産まれた時もひとりぼっち
死ぬ時だってひとりぼっち。
既に老猫と呼ばれる様になった吾輩の頭の中は、人という摩訶不思議な存在の疑問で膨れあがっていた。そんな時、おけいちゃんは体調を崩して入院する事になった。
女手一つで長年続けた小料理屋は、都市開発の名の下に安値で買い叩かれ、吾輩は加代ちゃん家族に引き取られる事になってはいたのだが ー どうにも居心地がよろしくなく吾輩は脱走してしまった。
加代ちゃん夫婦の娘との相性と、匂いに馴染めないのが決定的な理由ではあるが、晩年になってからの風来坊も悪くないと頭の片隅に思い描いていたのが功を奏して、己自身で勇気ある決断を下すことが出来たのである。
残り少ない生涯を、思い切り好きな様に生きてみよう。それこそが有意義な時間なのだ。
吾輩は意気揚々と、朝陽に照らされた冷たいアスファルトの上を歩き始めていた。
放浪の旅を始めて数ヶ月が過ぎ、季節は吾輩が好なく愛する春へと移り変わり、桜の花びらの絨毯は、時折の強い風にその模様を変化させていた。
ふと思い出す事がある。
しかし、すぐに忘れようとも努力する。
空き地の土管。真夜中の集会。ガシャガシャブンブン。加代ちゃん。おけいちゃん。異国からの使者。
それに雪の嬢。
腹が減っているから無駄な思い出が蘇るのだろうか。そう。風来坊になってからというもの、毎日毎日吾輩は腹を空かせている。
餌の取り方など忘れてしまった。
喧嘩や威嚇の仕方もわからなかった。
本能はいつの間にか無能の長物となり、生きる術を見失った吾輩は、もはや『猫』ではなくなっていた。恐ろしい事だが、気付くのがちょっと遅かった様だ。
孤独に勝てずに、幾度もあの家族の元に帰ろうと考えた。
しかし、吾輩の見栄やプライドがそれを許さなかった。
可笑しな話だ。
吾輩は猫である。
それなのに、ことさら見てくれを気にしているのだから。
ある夜、玉川上水をふらふらと歩いていると、穏やかな水面にまんまるのお月様が浮かんでいた。
吾輩はオンボロの橋の上からそれを見つめていた。
胸が熱くなった。
思い切り 『ニャーニャー』と泣いてみた。
随分昔に、雪の嬢から言われた言葉がずっと気になっていた。
『人になってはいけないよ』
その意味を理解しようともがく程に、吾輩は辛くなり悲しくなっていった。
水面に雪の嬢の愛らしい姿が浮かぶ。
長い長い尻尾がゆらゆら揺れている。
まるで吾輩を呼んでいるかのようだ。
『トカトントン』
久方振りにその音が頭の中で鳴った。
不快な感じでは無い。まるで教会の賛美歌の様な響きだ。
『トカトントン』
どうでもよくなっていた。
見栄、嫉妬、恨み、喜び、愛、見てくれ、プライド、哀しみ。
全てにさよならを告げた。
橋の上からそっと身を乗り出した時、一瞬だがこんなことも考えた。
『もし、また新たな生涯があるのなら、無駄な時間に狂いながら生きてみたいー
未完。
吾輩はトカトントン みつお真 @ikuraikura
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