第2話 3年目
『ひとつだけ教えて欲しいのです。実はある奇妙な症状のせいで、吾輩はたいそう困っているのです。それは、時折頭の中で聞こえる音についてなのですが、うまく形容するならば鐘の音、或いは金槌で鉄板を叩く様な音。
双方、情緒的には異なるモノとは思うのですが、兎にも角にも頭の中で鳴り響くトカトントンという音がする度に、吾輩のそれまでの心情は無となってしまうのです。
吾輩は何かの流行病なのでしょうか?』
夜中の集会に顔を出すのも久方振りではあったが、吾輩は土管の頂上に鎮座する神猫爺に向かって悩みを打ち明けた。
神猫爺の脇には、可愛い白猫の雪の嬢 ー これまた吾輩が付けたあだ名なのだが ー がちょこんと丸くなって顔を舐めている。
吾輩は密かに雪の嬢に恋心を抱いていた。
神猫爺は、吾輩を一瞥して大きな欠伸をしながらぼそりぼそりと話し始める。もはや集会場には吾輩しか残っていなかった。
『人に飼われた者達の典型的な病。くだらぬ事に精を尽くし、悩まなくても良い事に頭を使い、気を使い、労力をかける。いいですか? 解決法はひとつだけ。よく覚えておきなさい』
吾輩は尻尾をぶんぶん振りながら次の言葉を待っていた。神猫爺で医者いらずとは良く言ったものだ。
それにしても、雪の嬢はなんと可愛らしいのだろう。吾輩の尻尾を見つめる色違いの美しい瞳はキラキラと輝き、桃色の鼻頭と肉球の淡い紅色はエロティックでありながらも優しい。
『解決策は、悩みは早目に忘れなさい』
神猫爺の言葉に、吾輩はますます混乱してしまった。悩むから忘れられないのではなかろうか?
簡単に忘れられる事柄など、悩みのうちには入らないのではなかろうか?
吾輩は顔を無我夢中で舐めた。
すると、雪の嬢が吾輩目掛けて飛んで来て、尻尾にかぶりと噛み付いた。
驚いた吾輩が身を交わすと、目の前に雪の嬢の白くて長い尻尾が踊っているのが見えた。本能だろうか、吾輩はそれを追いかけずにはいられなかった。
雪の嬢も楽しげに吾輩の尻尾を追いかけてくれている。
土管の上で神猫爺が笑っていた。
ぼんやりとした幸せに吾輩は包まれていた。
朝靄はなんと神々しいのだらう。
街中にボカンど口を開けた空き地の草花を照らす陽光。人が創り上げた、高い高い遠くのビルディングをすっぽりと包む霧山さえも美しい。
新聞配達のバイクは、、忙しないブレーキ音を響かせている。
散々じゃれあった吾輩と雪の嬢は、いつの間にか土管の中で眠ってしまっていた。
雀とオナガとカラス達が縄張り争いを始めている。
鳩の群れは、飛べば良いのにヒョコヒョコと歩き回り。その姿はまるで踊り子の様だった。
吾輩が目を覚ますと、雪の嬢もパチリと大きな瞳を輝かせた。
『お家へ帰るんでしょ?』
雪の嬢の問いに吾輩は耳を震わせて頷いた。
『つまらない事は忘れなさいな。それがあたし達の特権なのよ。人になっちゃ駄目。また集会で会えるのを楽しみにしてるからね』
そよ風が雪の嬢の長いヒゲを揺らす。
気品のある白いヒゲを眺めながら吾輩はふと思った。もしや、雪の嬢は飼い猫だったのではないかと。
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