嗤う桜

 桜の名所には、立ち入り禁止のロープが数か所に巡らされていた。


 事件性は低いらしく、配備された警備員も少ないがそれでも現場付近の捜索が行われている。


 死体のあった場所を囲う、白い線が敷かれていた。

 最後の足掻きでスマホを手に取る。


 ネットのニュースによると遺族が春日舞に代わってブログを更新したらしい。

 ……もう、結果は分かった。


 父親には「トイレだ」なんて伝えてしまったからすぐに帰らなくてはいけない。


 だけど。

 帰りたくない。


 行き先が、ない。


 ――生きる目的も手段も失って、どうして自分はまだここにいなくちゃならないんだ。


 ふと湧いた考えが自身を強張らせる。

 

 今お前の目の前にいる、青い制服を着た人たちはきっとお前の敵になるだろう。


 そんな声が、聞こえた気がした。


「いや……いやだ」


 冷や汗が、止まらない。


『彼らに見つかってはならない』


 ……へ?


『奥だ』


 頭の中で囁く誰か。


『ここよりもっと奥の林に向かえ、きっとあの崖なら誰にも見つからないよ』


 正体は分からないが、もう彼の言葉に従うしかなかった。俺は何かから逃げ出すように走り続ける。


 林の中に入ると、周囲は昼とは思えぬ暗さになっていた。知らぬ間に地面も盛り上がり山登りの体を成す。息を切らしながら俺はざくざくと枯れ葉を蹴り飛ばし暗澹とした奥地へと向かう。


『そこだよ』


 男の声に言われて、その場で立ち止まる。視界に広がるのは暗い林ばかりだが……。


「あっ……!」


 辺りを見回して気が付いた。俺から見て、右手。


 大きな木に隠れて見落としがちだが葉に隠された地面の一部が深く窪んで……。何かが滑落したような跡ができている。


 崖だ。


 俺は恐る恐る木の幹に手を当てて崖をのぞき込む。


 七、八メートルほど奥に存在する地面。それを隠すように生えた木々の根が不気味に伸びていた。高所から下を覗いた影響か、背筋を撫でられるような感覚に襲われる。


 俺が今立っている場所だけが小さな山のようになっていて、崖を除けば緩やかな下り坂になっている。


 この、大きな木が崖の目印のようになっていたのだ。


『そこがお前の行くべき場所だよ』


 まただ。

 彼の声がする。


 ここ、が。


 ……そうか。


 ここに来るために、俺は公園まで運ばれたんだ。


 何もできない荷物として。全部を失って、ここまで流れ着いたんだ。


 頭が、ぼーっとしてきた。

 まるで夢の中にいるような気分。


 一歩、前に進む。


 足元の枯れ葉が重力に吸い込まれる。


 一瞬、家族の顔を思い出す。


 視線は下へと引っ張られる。


 ……お荷物はもういらないよな。積み荷を降ろした方がきっと車も軽くなるだろ。


 もう、悩む必要がなくなった。俺はきっと違うところに行くべきだ。


「行ってきます」


 下半身に力を加え、冷え切った筋肉を無理矢理伸ばす。そのまま体は重力に委ねられた。


 一瞬零れた悲鳴を抑えようと口を塞ぐ。


 ――これで、いい


そう思った矢先の事だ。


「いっ」


 崖から伸びている木の根が、腕に引っ掛かった。

 だが、安堵する間もなく体は滑落していく。


「う、うわぁあああっ!」


 情けなく悲鳴を上げた俺は落ちる先々で木の根に絡め捕られ、何度も落下と安堵を繰り返す。


 背中に小さな木の枝が侵入して、痛い。


 視界はめまぐるしく移り変わり三半規管を狂わせる。

 強烈な吐き気と共に林から吐き出される自分の体。


 もう、どうにでもなれ。


 そんなことを考えている間に身体は先ほど登った斜面に投げ出された。崩れた体勢では斜面に抗えず、枯れ葉の上を転がり始める。


 十分とも、一分とも言える曖昧な時間を過ごしてようやく俺の体は人通りの多い道へと転がり込んだ。


「はぁ、はぁ……あっ」


 近くにいた老夫婦は唖然とした顔でこちらを見ている。枯れ葉塗れの俺をみて驚いているようだった。


 老夫婦から逃げるように俺はまた走り出す。


 ――俺は今、何を考えていた……!


 自分で自分を殴りたい。


 先ほどの思考はまるで自分とは思えなかった。まるで何かに引っ張られるようで……。


 そういえば、あの声は……?


 耳を澄ませても何も聞こえない。


 ぼーっと立ち尽くしていると、父の声が耳をつんざく。


「おい、何してんだ!」

「ごめん、なさい」

「てめぇどこに行って――」

「ごめんなさい!ごめんなさい。……ごめん、なさい」


 呆然としたまま、俺はずっと謝り続けた。

 頭に付いた枯れ葉も取らずにひたすら口だけ動かした。


 そんな俺を見て……なぜか父親は許してくれた。


 父親に肩を掴まれ、ゆっくりと歩みを進める。さっきまで自分の乗っていた四輪駆動車が見えた。


 当たり前の風景が何年も昔のように感じた。不思議と込み出す涙。


 だが、それを止めるかのように。


『ははは、そうだ!そのままでいい。お前はこの地獄を、全うしろ』


 すでに枯れた、桜の木。


 ……後ろからそんな声が聞こえた気がする。


***


あれからというものの。

 丸笑公園には不可思議な肩書きが付いた。


 かつて自殺の名所だった公園は――今では自殺の名所となった。


 これまでのようにたくさんの自殺志願者が向かうのだがどれもなんらかの邪魔が入るのだという。


 首を吊れば木の枝が折れ、崖から落ちれば木の根が引っ掛かる。

 ……そして噂によれば、全員が誰かの声を聴くそうだ。


 ネットの片隅ではただの法螺吹き話と揶揄されていたが俺の聞いた声は、法螺吹き話ではない。そもそも誰にも話していない。


『お前はこの地獄を全うしろ』


 悪魔のような囁きが、いまだに耳にへばり付いている。


 あの時、振り返った先に見えた桜の木。その形は今でもはっきりと憶えていて……。


 春日舞の遺作――『春』によく似ていると思った。


 あの絵に出てくる木の根が、あの時絡まった木の根が……今だに俺の首を巻いているような気がする。


 何かが俺をずっと覗いていて俺が不快になる様を覗いているようだ。

 もしも、それが本当にあの絵画の作者なら……。


 俺の知る天才は、人を苦しめる天才だったという訳だ。


 そんなことの為にきっと彼は「春」を描いたのだ。

 彼が作品の一部になったんだ!


 俺はそんな奴の影響で自殺"未遂"をしたのか?

 馬鹿馬鹿しいにも程がある。


 家業を継ぎながら、俺はまだ未練がましく絵を描いている。

 俺はあいつの思い通りにはならない。


奴が死んで誰かを不快にさせるなら、俺は生きて奴を不快にさせてやる――


 だけど天才にはまだ遠い。

 木の根は中々解けない。


「親父、ごめんな」


 俺の描いた渾身の一作――「嗤う桜」はまた、佳作だった。

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嗤う桜 ヤノヒト @yanohito

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