ナナフシ

ぜんそく

ナナフシ




「無駄を排除しよう、そう思ったんです」


「なるほど」


とある大学に通う学生、私のことなのだが、その私と准教授のK博士は、彼の使っている研究室の脇に置かれた、それなりの大きさのソファーに腰掛けながら、お互いにカップ一杯のインスタントコーヒーをすすっていた。


「続けたまへ」


堅物で、自分研究に関わりのない話には興味を示さないと専らのK博士が、前のめりになりながら、私に話の続きを促した。確かな手応えに拳を握りしめた私は、手に持っていたカップを目の前のテーブルに置いた。


「私が中学受験に失敗した時です。母が『お前は無駄なことを考えすぎてるから、大学に入るまでは勉強に集中しなさい』と言った具合に私を叱りつけたんですよ。その時はとっさに言い返してしまって、それで喧嘩になってしまったのですが、後で思い返すとね、母の言う通りなんじゃないかって、自分は無駄な時間を過ごしすぎたんじゃないかって、そう思いまして」


「無駄なこと、というと?例えばどんなことが無駄なんだい」


「そうですね、例えば、母に対する怒りの感情、とかですね。私と母はあの後丸一日喧嘩していたのですが、私にはそれが、とても有益な時間の使い方だったとは思えません」


博士は目を瞑りながら、了解したように頷くと、


「それで、君はどうしたんだい」


「無駄を排除しました。趣味とか、娯楽とか、勉強に関係のないものは全て捨てて、勉強に徹底しました」


「そうやって、君はここにきたわけだ」


「はい」


「ふぅーん、……君は今ごろになってそれを後悔しているのかい?」


「いえ。むしろ、どうして中学生まで私は、あんな、無駄なことをしていたのか、甚だ疑問なのです。鹿は生まれた時から立ち上がることができます、蜘蛛は誰から教わるわけでもなく巣を貼ることができます。我々に「無駄を省く」能力があらかじめ備わっていないのが不思議でなりません」


「人は生きる上で「無駄なことをする」能力を獲得したのだ、大脳が巨大化してな。それが我々の文明をここまで発展させてきた。私が思うに、将来我々がその能力を失う可能性はゼロに近いと言っていいだろうね」


「しかし虫は……」


「人間とは真逆の発達を遂げた。私がこの前話したことだね。人間が大脳の大型化と複雑化を進めてきたように、虫は進化の過程で、脳の小型化と高効率化、つまりは人間とは正反対の方向を進んだわけだ。人間は神経系のニューロンの総数が860億を超えるが、昆虫などは僅か数十万にも満たない。が、それは決して虫が知能の低い、人よりも遅れた生物だということではない」


博士はにやりと笑った。


「指の先ほどもない脳で、複雑な動きや学習能力を持ち、それから変態後に飛行能力などの強力な特殊能力を得る虫はまさに、無駄を省くという点に置いて他の追従を許さない圧倒的な進化を遂げたと言っていいだろう」


「人間が今後そのような能力を獲得する機会はあるのでしょうか」


「ないだろうね」


それは私の望んだ答えでは無かった。


K博士と別れ、大学を出た帰り道。私は人混みの中、一人考えにふけっていた。


この先人類はずっと無駄なことをして生きてゆくのだろうか………。いや、そんなことはないはずだ。我々も虫のように、無駄を省いた、精錬された新しい進化を遂げることが出来るはずだ。そうでなければ、私は憂鬱だ。未来のない世界を一人で生きて行ける気がしない。


ふらふらとしていたのだろう。私は肩をすれ違いざまに強く打った。少しよろけた私は「済みません……」と一言添えながら、くるりと後ろを振り返った。


「………?」


誰もいなかった。いや、いなさすぎた。この人混みの中、私の後方がポッカリと開いていたのだ。奇妙な空間が、人を押しやるようにそこにあった。


誰も気がつかないようだ。手に持ったスマホから目を離さず、しかしその空間を避けるように横にずれるものもいれば、真正面を向いてしっかりとした足取りで避けるものもいた。


「………」


一体何が………



………………………。





目を凝らすと、何もない空間が揺れて、巨大な脚がヌッと現れた。見る限り昆虫のようだったそれは、姿を絶え間なく変えて、やがて一人の人間になった。みたところ中年の男性のようだったが……。


彼は私をじっと見つめた後、「済みません、仕事があるので」と右腕の腕時計を一瞥すると、歩道を離れ、道路の脇に立つと、再びその姿を変形させて、やがて一台の車に変わった。


車が発車して見えなくなるまで、私はその場に突っ立っていたが、周りを確認するくらいの余裕ができると、あることに気がついた。


さっきまで穴が開いていて歩きにくそうだった歩道が、いつの間にか整備されている。女の人がいた場所に、先ほどは確認できなかった標識がある。それだけじゃない。


「ああっ、しまった。左のタイヤがパンクしてやがる」


近くに止まっていたタクシーからそんな声が聞こえた。しばらくみていると、一人の女の人がそこに近づき、


「どうしました?」


「タイヤがパンクして走れないんですよ」


「それじゃあ、私がタイヤになりましょうか」


「良いのですか?」


「ええ、その方が有益で、無駄がありませんからね」


女がそう答え、一瞬手が虫のような脚に変形したかと思うと、体が空中で一回転してタイヤになって地面を転がった。それをタクシーの中から出てきた巨大な虫の腕が器用に受け止め、それから車ごと大きく翻って、やがてまた元のタクシーに戻った。


あれは一体なんだろうか。


微かな期待がある。K博士は有り得ないと言ったが、もしかしたら、人類はすでに進化しているのかもしれない。新しい力を得て、新しい生活を営んでいるのかもしれない。


私は手を上げてタクシーをよんだ。タクシーのドアが一人でに開いた。私が軽い足取りでそこに乗ると、


「どちらまで?」


声がはっきりと聞こえたが、運転席に人はいなかった。無人のタクシーに、声だけが響いた。


微かな期待が膨れ上がる。さて、どこに行こうか?


無駄のないよう、端的に、それでいて的確に、私は私の望む行き先を彼らに告げた。


無駄のないように……。


車が急発進した。




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ナナフシ ぜんそく @Azumaya8000

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