エルフの森周遊道路

 人生には思いがけない出会いというものがある。


 日本人の青年、大井ヨシヒロはそのように考えていた。


 例えばそれは学校に遅刻しそうな時、街角で偶然ぶつかってしまうパンをくわえた女の子だったり、あるいは勉強の苦手な男の子の机から飛び出してくる機械仕掛けの青ダヌキだったりもする。


 ただし、こうした出会いは紆余曲折あっても、結局のところ嬉しい出会いと言えるだろう。突拍子もない出会いによって、彼らの人生は素晴らしいものになっていくのだから。


 一方で絶対に避けたい出会いというものもある。それは例えば連続殺人事件で逃亡する殺人鬼に街角でばったり遭遇するとか、あるいは宇宙船に乗っている時、やたら後頭部が長くて血が強酸でできている宇宙生物に遭遇するとかである。


 そしてこの日、ヨシヒロを待ち受けていた出会いとは間違いなく後者だった。


「––––で、貴様、何者だ?」


 ヨシヒロは両手を背中の後ろで縛られながら、かすめただけで肉が裂けてしまいそうな槍の穂先を喉元に突きつけられていた。


「い、いや、ただの旅人ですが……」


 すこし身動ぎしただけで、槍の先で喉を突き破られてしまいそうな体勢だった。


 ヨシヒロに穂先を突きつける少年は、その恐ろしい行為とは裏腹に、この世のものとは思えないほど端正な顔立ちを持っていた。顔の輪郭や体つきから男性だとわかるものの、例えば化粧などを施したら、女性と区別がつかないほどきめ細やかで美しい肌を持っている。ただし、その少年は人間ではなかった。長く尖った耳を持つ細身の種族––––エルフと呼ばれる森の住人だ。


「ふざけるな」


 少年は槍の先でヨシヒロの顎をグイッと持ち上げる。


「ただの人間にエルフ語が話せるはずないだろう」


 彼のいう通り、ヨシヒロが現在話している言葉はエルフたちの言葉だった。だからといって何も「大学でエルフ語を専攻していました」というわけではない。ヨシヒロがこの世界の言葉を話すことができるのは、オートバイに取り付けられた世界間転移装置の影響だった。ヨシヒロはこの世界にいる間だけ、この世界のあらゆる言語を習得した状態になれるが、そうした知識は元いた世界に持ち帰ることはできなかった。


 パチパチと焚き火の炎が揺らめく。


 ここは巨大な樹木の上に作られた村の上だったが、魔法の炎は村を燃やしてしまうことなく、的確に放り込まれた枯れ枝のみを燃料に変えている。


「それはその……なんていうか、友達が……」

「エルフのか。人間に媚びるエルフなど聞いたことがない」


 周囲のエルフたちの視線がヨシヒロに突き刺さる。しかしその視線はけして殺意のこもったものではなく、どちらかというと不安や猜疑心からくるもののように思えた。彼らもまた、ヨシヒロという想定外の存在に怯えているのだろう。


「とにかく、落ち着いて話せないかな。君も––––」

「君だと? 貴様、オレの方が歳上だということがわかっていないようだな」

「えっ、と、歳上……!?」


 ギョッと目を見開き、ヨシヒロは改めて少年の顔をマジマジと見た。しかしどう見ても15歳前後にしか見えなかった。ヨシヒロは今年で26歳になるので、少なくとも10歳は歳下だろうと思っていたのだ。


「そ、そういえば、エルフは若作りだって聞いた覚えが……」

「貴様、相当死にたいらしいな……?」


 心持ち、喉元に食い込む穂先に加わる力が増えたような気がした。


「お待ちなさい」


 このまま突き殺されるのではないだろうかと思ったその直後、巨大な木のウロのように見える出入り口から、背の高いドレス姿の女性がしずしずと歩み出てきた。彼女は少年と同様に眉目秀麗であり、森の木々のような生命力に満ち溢れたオーラを纏っている。年齢は20歳ほどに見えるのだが、その威厳に溢れる雰囲気は、彼女を外見年齢以上に見せている。


村長むらおさ……」


 少年はつぶやきつつ、槍の穂先を引いた。


「人間の青年、あなたはあれに乗って現れましたね」


 女性が指差した先には、黒く艶やかなタンクを持つ古めかしいオートバイが駐まっていた。ヨシヒロがこの世界に来る際に乗っていたカワサキW650だ。


 ヨシヒロが乗るこの黒いオートバイには、世界間転移装置と呼ばれる異世界同士を結ぶ機械が装着されていた。この装置を作動させ、車体が時速144kmに達した時、W650は世界の狭間を飛び越えて異世界に転移することができた。


 ところが、今回は転移した場所が悪かった。世界間転移装置は転移後の世界の地形、高度を無視し、オートバイと乗員が安全に着地できる場所に出現するようにプログラムされていた。そのため、転移直後に人や物に激突してしまう危険性はない。


 ただし、あまり細かい転移先を指定できないという弱点もあった。ヨシヒロが転移してきた先は、大樹の樹上に蜘蛛の巣のように張り巡らされたエルフの村の吊り橋の真上であり、かろうじてバイクごと渡り終えることができたのだが、その重量に耐えきれなかった吊り橋は崩壊して真っ逆さまに落ちて行ってしまった。


「トモスアカイ」


 村長と呼ばれた女性は凛とした声で少年の名を呼ぶ。


「私には鉄の馬に見えます」

「何を!」


 弾かれたように少年は足を踏み出すと、半ば食ってかかるように女性に反駁した。


「こやつはただの賊です! 伝承の男であるはずがない!!」


 目の前で二人は言い争いを始めてしまったが、いったい何をそんなに揉めているのかヨシヒロには皆目見当もつかなかった。それよりもとりあえず縄を解いて欲しい。先ほどから縄の繊維が肌に食い込んで痒いのだ。


 ヨシヒロが拘束されている場所は、地上から50メートル程もある大樹のちょうど中間地点に設けられた踊り場のような空間だった。この踊り場はパイナップルの輪切りのような形をしていて、それが一本の大樹の要所要所に配置されている。更には、そこから他の大樹の踊り場へつながる形で吊り橋がかかっていた。


 また、森の中は炎とは異なる幻想的な光で満たせれていた。鬱蒼とした木々の葉が空を覆い隠していたので、今が昼なのか夜なのかはよくわからなかったが、それでも視界に困るということはない。


 ヨシヒロが周囲の様子を観察していると、ようやく話し合いが終わったのか、先ほどトモスアカイと呼ばれた少年がしかめっ面をしながら近づいてきた。そして意外なことに、彼はヨシヒロの手首を縛っていた縄をナイフで切り落としてくれたのだった。


 どうして助けてくれたのだろうか。ヨシヒロがそのように問う。


「助けたわけではありません」


 村長は冷ややかな眼差しのまま、キッパリと否定した。


「この村に伝わる伝承に従ったのです」

「伝承ですか?」

「……下弦の道閉ざされし時、鉄の馬駆りし男現れ、これを救うだろう」


 それはエルフの村に伝わる古い言い伝えだった。どのくらい古いかというと、水道からポタポタと漏れる水で池ができてしまうくらいには古い話だという。


「その例え必要だったんでしょうか……?」


 せっかくの荘厳なくだりが台無しだった。


「エルフはウィットに富んだ生き物……会話の中にも必ず小粋なギャグを織り混ぜます」


 小粋かどうかはさておき、その伝承のおかげでヨシヒロは一命を取り留めたらしい。


 しかし、それはあくまで一時命を繋いだだけに他ならなかった。彼女たちがヨシヒロに求めてきたのは、その「下弦の道かげんのみち」を開放することだった。


「下弦の道?」

「それは後ほど説明をさせましょう。トモスアカイ、あなたが彼を案内しなさい」

「はっ、オレがですか?」


 虚を突かれたとばかりにトモスアカイは目を丸くした。


「あなたは村一番の射手です。モンスターが出ても対処できるでしょう」

「……わかりました」


 あからさまに納得していない様子ではあるが、トモスアカイはヨシヒロについてくるように言って、巨大なウロから大樹の幹の中へと入って行った。


「あっ、でも僕のバイクが」


 バイクはこの踊り場にある。とてもではないが下まで運べるとは思えなかった。


「この乗り物は私たちの力で下に移しておきます」


 しかし村長が意に介していないように言うので、ヨシヒロは渋々彼女の言葉に従い、前を行くトモスアカイに続いて幹の中へと足を踏み入れた。


 幹の中はエルフたちの移動通路、そして居住空間になっている。幹の中身をくり抜いて魔法で補強し、様々な部屋を設けていた。言ってみればマンションのようなものだ。踊り場から続く螺旋階段を中心とし、そこから枝分かれするようにしてエルフたちの居住空間が存在している。


「すごいですね」


 ヨシヒロは爽やかな木の香りと生木でできた壁や階段、そして扉を舐めるように観察しながら感嘆の声を漏らした。


「これ、地上までつながっているんですか?」

「そんなわけがないだろう」


 一応年上と言うことなので敬語で話しかけると、しかしトモスアカイはつっけんどんな態度で答えた。


「地上に入り口を作ったら、樹上に村を構える意味がない」


 多くのエルフが樹上に村を作るのは、敵から身を守るためだ。戦いにおいては高い場所にいる者の方が有利だったし、村への道を細くすることで敵の進軍速度を極端に遅くすることもできる。


 階段を下り終えて一階部分から幹の外に出ると、目の前にはしっかりとした堅木でできた幅の広い橋がかかっており、それが緩やかなスロープとなって地面へと続いている。トモスアカイの言った通り、エルフたちが居住する大樹の出入り口は地上から10メートル程高い位置に開けられていた。もしもこれが地面と同じ場所に開いていた場合、敵は居住空間に一直線に入って来れてしまうことになる。


 程なくして、ヨシヒロのバイクは届けられた。空から降りてきた幾本もの植物のツタがバイクの車体に絡み付き、それをゆっくりと橋の上に下ろしてくれたのだった。


「ちょっと待ってください。ここけっこうむき出しだけど……」


 ヨシヒロは橋の下に見えている茶色い大地を注視した。獣道のようなものは多数存在しているが、どれもまともにバイクが走れそうな道ではない。


「それがどうかしたのか」

「こんな道、ずっとは走れないです。そういう乗り物じゃないんですよ」


 これが例えばオフロードバイクならば話は変わってくるのだが、残念ながらW650はオンロードバイクだ。それでもフロントのホイール径は19インチと少し大きめであり、通常のオンロードモデルに比べると多少はオフロード耐性はある。しかもヨシヒロのものはこの世界を走るためにオフロード用のタイヤを履いていた。故に、ある程度の未舗装路ならば問題なく走破することができた。そう、ある程度ならば。


 しかしこのエルフの村周辺の獣道は、ある程度なんていう生優しい状態ではない。それこそ人や獣が通るので精一杯の細い道しかなく、その道も飛び出た木の根っこや石ころが乗り物の走行を邪魔していた。


 ヨシヒロが困りながら説明すると、トモスアカイはため息をつきつつうんざりとした声を発した。


「不便だな。まあいい、幸いなことに下弦の道に続く周遊道路は整地されている。人間どもの使う石畳のようなものではないが、草木も全て避けてある」


 それを聞いて少しだけほっとする。


「出る前にオレの武器を調達する」


 村を離れると野生動物が出る可能性も多いという。ヨシヒロはバイクを押しながら彼の後に続いた。本来ならば約200kgにもなる車体を押して歩くのは至難の技だったが、幸いなことにこの橋はなだらかな下り坂になっていたので、それほど力を使わなくとも押すことができた。


 トモスアカイの弓矢は橋の近くにある大木のウロの中に隠されていた。これは遠出する際や、居住区の外で敵と遭遇した際に用いるもので、これとは別に村の武器庫にも自分専用の装備を持っていると彼は言っていた。


「ずいぶん綺麗な弓ですね。なんか、本で見たのとだいぶ違うし」


 ファンタジー映画などに登場する弓はもっと簡素な作りをしていたが、トモスアカイが手に取った弓は鹿の角を連想させる複雑な曲線から成り立っている。


「ただの弓ではない。強力な魔力のこもった弓だ」

「強力な魔力……そんなのが必要な生き物が出るんですか?」

「何を言っている? ただの弓では熊も殺せん。だがこれならば一撃だ」


 熊は非常に頑丈な体を持っており、その頭骨が銃弾を弾き返すというのはあまりにも有名な話だ。当然、弓矢など話にもならないだろう。しかしこの世界の武器の多くは魔法の力で威力が嵩上げされており、実際、弓矢だけで熊を退治することも珍しくはなかった。


 トモスアカイの身支度がすむと、ヨシヒロはバイクに跨って鍵を回した。通電させて異常がないかを確認する。左右ウインカー、ヘッドライト、メーター類、そして一番重要な世界間転移装置。それぞれの動作をチェックしていき、最後にセルスタータースイッチを押し込んでエンジンに火をつけた。


 キュルルルルッ!

 ドルルンッ!!


 歌うように、あるいは吠えるように、鉄の馬は自らの存在を深緑の地全体に鳴り響かせた。


「なんだこれは、魔物ではないのか!?」


 はじめてバイクの音を聞いたトモスアカイは、落雷を受けたような顔を見せて弓を構えた。襲ってきたら射殺そうとでも思っているのだろうか。


「僕はこれで行きますけど、トモスアカイさんは?」


 何か乗り物がないときついだろう。


 あるいは、エルフたちの乗り物もこの周辺に隠してあるのだろうか。


 森の中は50メートル級の大樹がそこかしこに生えており、隠し場所などいくらでもあるように見えた。


 ところが、


「エルフは乗り物など使わん」


 しれっとした顔で彼は言い放った。


「えっ……ああ、じゃあ馬とかですか?」


 ひょっとしたら生き物は乗り物としてカウントされていないのではないかと思い、言い直す。


 だが、


「生き物の背に乗るだと? そのような冒涜的行為を楽しむのは貴様ら人間やドワーフどもだけだ。オレたちエルフは誇り高き民族。移動も全て自らの力で行う」


 彼の言う通り、エルフたちは昔から動物への騎乗や、魔導器とよばれる乗り物の使用を掟として硬く禁じてきた。それはあらゆる命へ敬意を払う意味でもあり、また自分たちの肉体的な能力を劣化させないための心得でもあった。


 確かにその覚悟は立派だし、見習うべき部分もあるとは思う。しかし、これから長距離を走るというのに、歩きでついて来られてはたまったものではなかった。


「でも、バイクって速いんですよ? 足じゃとても……」


 ヨシヒロは自信に満ち溢れたトモスアカイに忠告するのに気が引けていたが、それでも渋々と教えてあげた。


「エルフには風の魔法がある。馬に追いつくことなど造作もない」


 そういって彼が見せてくれたのは、風の魔法で空を飛ぶ瞬間だった。正確には「飛ぶ」というよりも「浮く」に近い魔法らしい。それはエルフたちが履いている風の魔石のついたブーツに魔力を込めることによって発動する。風の魔石とは、ヨシヒロの世界でいうところのエメラルドのことだった。どういうわけか、エメラルドはこの世界だと風の魔法の媒体に変化するらしい。


 地面から1メートル程浮き上がったトモスアカイの姿を確認すると、ヨシヒロは白いヘルメットをかぶってゴーグルを下ろした。そして左手のクラッチレバーを握り込んでからギアを1速に入れると、スロットルを開けながら徐々にクラッチを繋いでいく。するとW650はゆるゆるとした動きで、剥き出しの地面の上を走り出した。


 トマスアカイもそれなりの速度を出せるようだったが、やはり並走するとなると気を遣う。ヨシヒロはできるだけ相手を離してしまわないように、自転車よりも若干速い程度のペースで走る。


 深緑の中を走り出してしばらくは凹凸の激しい地面と、伸びきって手入れもされていない雑草に阻まれてまともに前に進むことも難しかったが、10分も経つころには深い草むらも抜けて大きな道へと抜け出した。


 そこは“トワロナ湖”を中心として、その周りを囲むように作られた周遊道路だった。道路といっても石畳で舗装されているわけではなかったし、山の斜面から流れ落ちてくる雨水で途中が水浸しになっていることもあった。しかし道幅は広く、大きな岩なども転がってはいないので、先ほどまでの獣道に比べたら雲泥の差だろう。


 ヨシヒロは周遊道路に入って少し走った先の湖の辺りでバイクを止めると、ヘルメットを脱いで大きく深呼吸した。


 鼻先をスーッと心地よい木々の香りがくすぐる。


「そろそろ教えてくれませんか?」


 ヨシヒロは魔法を解いてバイクの後ろに着地したトモスアカイを振り返ると、いまだに険しい表情を崩さない彼にたずねた。


 エルフたちの村で村長の女性が言っていた「下弦の道が閉ざされる」とはどういうことなのだろうか。


「下弦の道とは、このトワロナ湖の南西部にある周遊道路の一部区間の呼び名だ」


 その道は細く鋭利な「下弦の月」のように見えるため、そのような呼び名がついたのだと彼は言っていた。


「それが塞がれた? 落石とかですか?」


 もしも大きな岩や倒れた巨木で道が寸断されてしまったのなら、ヨシヒロの力ではどうにもならない。


「落石が原因ではあるが、それ自体に問題はない」

「……どういう意味ですか?」


 岩が邪魔で通れない……という意味ではないということなのだろうか。


 しかしこれ以上は何を聞いても答えてはくれず、ヨシヒロは仕方なく再びバイクを走らせたのだった。


 太陽の光をキラキラと反射する翡翠色の湖を右手に望みながら、ヨシヒロを乗せたオートバイは周遊道路を南下する。道の幅は車2台がすれ違えるほどには広かったが、それでも端は急な崖になっている部分もあるので、けして油断はできなかった。


「周遊道路って!」


 ヨシヒロはマフラーの音にかき消されぬよう、声を張って話しかけた。


「湖を一周しているんですよね! 一部が通れなくても困らないんじゃないんですか!?」


 そのように問うと、ヨシヒロの真横を滑るように飛んでいるトモスアカイは道の先を見つめたまま口を開く。


「下弦の道は他の集落との連絡通路につながっている! ここが通れなくなったせいでエルフは山越えせざるを得なくなった!」


 山の深い場所には、肉食の凶暴なモンスターも多く生息しているという。エルフたちは集落同士の連絡をとるだけでも、多くの危険に身を晒す羽目に陥っているのだと。


「待て!」


 不意にトモスアカイは刃物のような瞳をさらに研ぎ澄ませてヨシヒロを止めた。今し方までモンスターの話をしていたため、もしやと思って背筋を凍らせる。緊張で脈が早くなり、グリップに置いた指先が震えているのが自分でわかった。


 トモスアカイは浮遊魔法を解除すると即座に弓に矢をつがえる。弓もそうだが、矢も通常のものとは異なり、矢尻として森林の輝きを集めたかのようなエメラルドが使われていた。


 エンジンを止めると周囲の木々がざわめき立つ。それは広大な湖を吹き抜ける一際強い風の音だったのか、あるいは野生動物の気配に対して、神経が過敏になっているだけなのか。


 無数の木々が連なったその合間から大きな影がゆっくりと這い出してくる。


 それは巨大な岩石ほどもある水飴のような物体だった。


 スライムとよばれるモンスターの一種だ。その多くは山の奥深くや湿地帯、あるいは洞窟の中などに生息し、液体状の体を使って獲物を取り込み消化してしまう。


 毒々しい青色をしたそのスライムは、斜面を滑るようにして現れ、そして湖に向かってゆっくりと移動していた。ヨシヒロたちに気づいているのかいないのかはわからなかったが、とりあえず襲ってくることはなさそうだ。


 が、それでもトモスアカイは弦を引き絞っていた。


「や、やり過ごした方がいいんじゃないですか?」

「スライムは物陰に隠れ、油断している獲物を一気に取り込む。今倒さなければ、そのうち誰かが犠牲になる」


 彼は冷静な表情でそのように語ると、次の瞬間、スライムのゼリー状の体の中心目掛けて魔力のこもった矢を放った。矢は光となって一直線に宙を駆け、スライムの体を射抜く。そしてその直後、スライムは内部から吹き飛んで霧散した。


 トモスアカイの放った矢は、風の魔力を帯びた魔法の矢だ。矢が突き刺さると風の刃が巻き起こって敵を切り刻む。特にスライムのように柔らかい構造の相手には強力な効果を発揮した。


 スライムの残骸でグチャグチャになった地面には、小さな動物の骨が転がっていた。どうやらウサギの骨らしい。先ほどのスライムの体内で消化されている途中だったのだろう。


「スライムは無色透明の内臓を中心に、周囲をゲル状の細胞で覆っている。見えづらいが脳もある」


 スライムを倒す際には、脳や内臓を破壊したほうがいいとトモスアカイは得意げに説明した。


「ずいぶん手慣れているんですね」


 そういえば村長がトモスアカイのことを村一番の狩人だと言っていた。


「これでもかなり鈍ったがな。最近はまた鍛え直している」

「また?」

「道が使えなくなって、周囲に野生動物が増え出した」


 エルフの集落に迷い出る危険な生き物も増えているらしい。もともと、エルフたちはその全てが優れた狩人だったが、トモスアカイの実力はその中でも群を抜いており、若手に弓の技術を指南していると彼は言っていた。


「……そういう貴様こそ、ずいぶん走り慣れているようだな」

「え?」

「森は車輪に向かない。馬車もまともには走れん」


 もともと車輪はなだらかな道を走るためのものだ。バイクのタイヤには空気が入っているためまだマシだったが、それすらもないこの世界の車輪では石畳でさえガタガタと衝撃がある。まして整地されていない道など走れはしないだろう。


「そ、そうですか? まあ、こう見えてもいろんなとこ行きましたから」


 褒められたのだろうと思ったヨシヒロは少し照れ臭くなりながらも、得意げに語った。


 しかし、


「褒めてはいない」


 トモスアカイは不愉快そうに鼻を鳴らす。


「自分の居場所を決められず、ただ彷徨うだけ……そういう奴は何者にもなれはしない。エルフであっても人間であってもそれは変わらん」


 そのように言いながら、彼は再び靴に魔力を込めて体を浮かせた。


 確かに、トモスアカイのいうことも一理あるかもしれない。ここではないどこかへ行きたい。まだ知らない世界を見てみたい。それは一見して聞こえの良い響きがあるが、実のところ逃避行動と紙一重だ。現状に満足できない、あるいは目の前の現実から逃げ出すために新しい居場所を探し続けている。旅というのは人間のそうしたネガティブな部分すらもトランクケースに積み込むものだった。


 ヨシヒロは愛車の振動を感じつつ、周遊道路をさらに進んでいく。


 路面は「道路」と呼ぶにはおこがましいほどに荒れていたが、それはここ数年の間、この道を利用するエルフがほとんどいなくなってしまったことに起因していた。道というのは不思議なもので、人が通らなくなると一気に荒れ果ててしまう。実際、下弦の道に近づくにつれて道は段々と険しいものへと変わっていった。


 単純に土が盛り上がっているだけではなく、石が転がっていたり、あるいは雑草が道の中央にまで侵入してきていることもあった。しかし、そんな時でもオフロード走行用にカスタムされたヨシヒロのW650はけして安定感を欠くことなく走破していく。


 ヨシヒロのW650は通常のものとは異なり、未舗装路の走破性を高めるために、オフロード用のタイヤとワイドなハンドルを持っていた。ワイドハンドルはその名が示す通り、幅の広いハンドルだ。バイクのハンドルバーというものは、その幅を広げることによってより少ない力で車体のバランスが取れるようになる。こうした路面状況の悪い場所を走るには、最適なハンドル形状といえた。


「あれだ」


 不意にトモスアカイは空中で静止すると、長い指をピンと伸ばして荒れた道の先に転がる岩をさした。


 下弦の道といわれる白い土が覆いかぶさった道の上には、はるか山頂より落下して粉々になったのだろうと思われる岩石の残骸が四散していた。が、これらが原因でこの道が通行不能になっているわけではない。というのも、岩の一つ一つはかなり小さく砕けてしまっており、人員さえ集めれば数日で全て撤去してしまえるような程度だった。


 トモスアカイは言う。


「問題なのはその成分……闇の魔石だ」


 闇の魔石とは、エルフが主として用いる風の魔石同様に、魔力を加えることで闇の魔法を発現させる触媒となるものだった。大きく鋭利に割れた岩がゴロゴロと転がるその中に一つ、不思議な輝きを放つ紫色の鉱石が落ちており、それこそが闇の魔石としてエルフたちに恐れられているものだ。


「あのスライムも、本来なら自然界には存在しない。闇の魔石で変質した魔力が、屍肉を溶かしてより集まるとああいう魔物が生まれる」


 闇の魔石によって生み出される魔物の規則性を発見するのは難しく、死んだ後にスライム化することもあれば、スケルトンやゾンビのようなアンデッド系モンスターに変化することもあるのだという。


 ヨシヒロは進み出ると、トモスアカイが止めるのも聞かずに、光を紫色に反射する欠片の一つを拾い上げる。幾重にも光を乱反射する深い紫色の原石……その正体はアメジストだった。もちろん、これもヨシヒロの世界ではな単なる宝石にしかならない。


「おい、なんともないのか……?」


 トモスアカイはそれまでの仏頂面が嘘のように吹き飛んでおり、呆気にとられて目を白黒とさせていた。いったいどういう意味なのかとたずねると、彼曰く、闇の魔石に近づいた者は魔力を変質させられて魔物と化してしまうのだと。だが、ヨシヒロの体にはなんの異常もなかった。


「人間なら大丈夫なんじゃ?」


 エルフには有害でも、人間になら効果がないということは十分に考えられる。


「エルフは風、人間は炎、ドワーフは土、人魚は水……それぞれが得意とする魔法の属性だ。そして当然、いずれもが魔力を持っている」


 闇の魔石は、そうした種族の持つ魔力を変化させて異形へと変えてしまう効果があるらしかった。


「だからこの道は誰も通らない。通れない。近づけない……たった一人、貴様だけを除いては」


 トマスアカイは浮遊魔法を解くと、眉間にシワを寄せて腕を組んだ。


「貴様、何者だ……?」


 ヨシヒロが闇の魔石に近づけた理由は明白だった。それは彼が異世界の住人であり、この世界に住む人々のように魔力を宿していないからだ。


 ヨシヒロは自らの手の内に収まった闇の魔石の輝きを見つめながら考える。ひょっとして、エルフの村にあの言い伝えを残したのは、ヨシヒロの世界を知っている人物だったのではなないだろうか。例えばヨシヒロが使う世界間転移装置を作った人物だとか……そうした可能性も十分に考えられた。


「これ、僕が持って帰りますよ」


 アメジスト自体がそれほど危険なものならば、この世界のどこに放置してもろくなことにはならないだろう。ヨシヒロは革のサイドバッグから大きな布を取り出して地面に広げると、その上にアメジストの原石を一つ一つ丁寧に乗せていった。


「……魔力を持っていないのか」


 闇の魔石の影響を受けないように、離れた場所からトモスアカイは言った。


「稀に、エルフにもそうした者が生まれることがある」


 この世界の住人にとって魔力は当然あるべきもので、それを生まれつき持っていないということは、ヨシヒロの世界でいえば先天的に体の一部が機能していないのと同じことだった。そうした者たちはヨシヒロの世界では理解や保護を得ることもできたが、この異世界では迫害の対象となっている。


「……」


 トモスアカイの予想は厳密に言えば間違っていたが、本質的な部分では正解している。ヨシヒロはあまり深くは触れないようにしようと思い、肯定も否定もせずに言葉を挟む。


「僕は、確かにできないことが多いです。何者ってわけでもない」


 そのように言いつつ、ヨシヒロはゴツゴツとして硬い鉱石を布で包んでまとめ上げる。


「でも、できないことだらけでも、何者にもなれなくても、何かをしてあげることはできる」


 ズッシリと重くなった包みをバイクの荷台に乗せ、ゴム紐を使って固定する。荷物の重みで多少サスペンションが沈んでいたが、この程度ならば許容範囲だろう。


 ヨシヒロは振り返ると、改めて下弦の道の様子を眺める。


 砂浜のように白い地面に青々とした自然、その先に広がる湖。湖のそばには誰かの作ったベンチまで備え付けられている。こうなる前は多くのエルフがこの道を行き交い、時には憩いの場としていたのだろう。


「これで、ここも平和になりますかね」


 先ほどのスライムを思い出す。あれもこの場所に近づいたエルフか人間の成れの果てだったのかもしれないと思うと、心の中に針が刺さったような気持ちになった。


「……オレはこの森を出たことがない」


 ヨシヒロが静けさに染まった湖畔をぼんやりと眺めていると、不意にトモスアカイが独り言のように言った。


「木々とともに生まれ、森とともに育つ。それがエルフの掟……いや、常識だ。それが世界の全てだと考えていた。オレにできないことが、たかが人間にできるはずがない」


 彼はそこまで言うと言葉を区切って強く瞳を閉じ、次いで力強い目でヨシヒロを見やった。


「だが、旅人にしかできないこともあるのかもしれんな」


 葉を透かした陽光のような瞳を持つトモスアカイは、そう言って自らを嘲るかのように微笑した。


 *****


 それから一ヶ月後、周遊道路は再びエルフたちの交通経路として使われるようになる。荒れた道はきれいに整備され、危険な肉食動物はでなくなったと聞くが……それはまた別の話だ。


 それよりもヨシヒロが気になったのは、エルフの森の周遊道路付近には、やたらと人間に親切なエルフの村があるという噂話の方だった。なんでも、周遊道路を使って湖を一周する観光ツアーをやっているのだとか。


 ヨシヒロはトモスアカイの仏頂面を思い浮かべながら「さすがにそれはないな」と苦笑するのだった。



〈終わり〉

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