天空ハイウェイ

 はるか天空に浮遊する都市“ハイクロフト”に向かうただ一つの「陸路」は、巨大な橋から枝分かれする“天空ハイウェイ”のみである。これは某王国の王都新聞が発刊した「この世で最も美しい景色10景」に掲載されており、この国を訪れた旅人ならば、誰もが目にしておきたいと願う絶景スポットだった。


 バタバタバタバタッ!


 乾いた金属質のエキゾースト音が虚空に鳴り響く。それは黒く艶やかなガソリンタンクを持つクラシカルな雰囲気のオートバイ––––カワサキW650が奏でるエンジンの咆哮だ。そのバイクに跨るのは茶色い革のジャケットに濃い青のジーンズをはいた日本人の青年、大井ヨシヒロだった。


 ヨシヒロは晴天の空の下、もうだいぶ長いことこの“天空ハイウェイ”を走っていた。現在の地点は地上から約500メートルといったところだったが、まだまだ先は長く、ゴールである浮遊都市ハイクロフトの城門は見えてこない。はるか空の彼方へと続いているこの道は、さながら大蛇のごとくうねりくねっており、とぐろを巻くようにして徐々に都市へと向かっていた。そのため、外側から仰ぎ見る以上に実際の距離があった。


「……ふう、思ったより長いな」


 ヨシヒロは要所要所に設けられている休憩場所の一つにバイクを停止させると、ゴーグルと白いヘルメットを脱いでミラーに引っ掛ける。本当はヘルメットロックにぶら下げた方がいいのだが、純正のロックはヘルメットの紐をかけ辛く、実質使い物にならなかった。だから基本的に、少しの休憩をするときはこうやってバイクのミラーにかけてしまうことが多い。ただし、こうするとヘルメット内部の衝撃吸収剤が痛んでしまうので、あくまで自己責任である。


 念のためにハンドルロックをかけてバイクを離れると、ヨシヒロは石畳を横切ってレンガで足元を固められた歩道に出た。空の上に人工的に作られた道路なので植物の類はなかったが、人が休めるようにトイレとベンチ、それから水飲み場が備え付けられている。これはこちら側に来て驚いたことの一つだったが、この世界のトイレは文明水準からは想像できないほどに清潔に保たれている。それは臭いや雑菌、汚れを取り去る魔法があるためだ。飲み水も同様で、全ての水道からコンビニで買うミネラルウォーター並の飲み水を確保することができた。


 蛇口の栓をひねって冷たい水で喉の渇きを癒す。バイクに乗ってると風を受けるせいか、妙に喉が乾くものだった。


 ヨシヒロは歩道の縁に立つと、ソッと真下を見下ろし……ゾワッと背筋を震わせた。真下の町が米粒のようだった。


 天空ハイウェイはいわゆる柱によって支えられているわけではなく、魔法の力で空中に浮かんでいる。道路がそのまま空に固定されている感じだ。当然、そのままだと誤って落ちてしまう人がいないとも限らないので、道の端は淡い緑色に輝く透明な壁で囲まれていた。イメージとしては、透明なチューブの中を走っている感じだろうか。そのため、これほどの高度だというのに、気圧や気温は安定していて非常に快適だった。


 特に気圧が安定してくれているのはバイク乗りとしては助かる。キャブレター式の古いオートバイは気圧の変化に敏感で、高い山に登ったりするとエンジンのかかりが悪くなることがあるからだった。


「ねえ、そこの人間」


 不意に声をかけられ、ヨシヒロは驚いて肩を跳ね上げた。振り返ると、濃いニスで塗られたベンチに、黄金色に輝く髪を持った少女が腰をかけていた。ものすごく不機嫌そうな顔をして。


「え、ぼ、僕?」


 問い返したところでヨシヒロ以外に人はいない。彼女は当然ヨシヒロに声をかけたのだろうが、まさか「人間」なんて呼ばれ方をするとは夢にも思っていなかった。


「あんた以外いないでしょ。まったく!」


 少女は苛々しながら立ち上がると、白いワンピースをパンパンと叩いていた。彼女はギョッとするほど透き通った瞳をしており、ともすればその内側が見えてしまうのではないかという目で、頭一つ分ほど高いヨシヒロを睨み上げてきた。


「あんた、あたしをハイクロフトまで連れて行きなさい」

「え、えぇ……」


 いきなり何を言い出すのだろうかと、ヨシヒロは困惑を隠すことができなかった。


「……というか、君どうやってここまで来たの」


 この時になってはじめて気がついたが、この少女が乗ってきたと思われるような乗り物は駐まっていなかった。まさか歩きで来たわけではないと思うのだが。


「はあ? なんであたしがあんたの質問に答えなきゃいけないわけ? 黙ってあたしを乗せればいいのよ」

「そんな無茶苦茶な……」


 外見は愛らしい少女だったが、口は恐ろしく悪かった。彼女は小さな唇を尖らせており、ヨシヒロの問いに答える気が毛頭ない。


「わかったよ。じゃあ後ろに乗って」


 納得はいかなかったが、まさかこんな場所に置き去りにすることもできないだろう。ヨシヒロはバイクの荷台に括り付けてある色の褪せたジェットヘルメットを渡す。


「何これ? 兜? こんなダサいのつけろっていうの?」

「つけないと危ないんだ」

「せめてもっと綺麗なのをよこしなさいよね!」

「文句言わないでよ。こいつの前の持ち主のなんだ」


 シールドのない古めかしいヘルメットをつけていたのは、かつてこのW650に乗っていた男だった。彼はヨシヒロと同じ世界の出身だったが、この異世界を終の住処にすることを決意し、ヨシヒロに世界間転移装置を託したのだった。


 線の細い小柄な少女をシートの後ろに乗せると、ヨシヒロはセルスタータースイッチを押し込んだ。するとW650は「キュルルルッ」と甲高い鳴き声をあげ、次いでエンジンから爆音を轟かせる。


「ひいっ!」


 と、少女の短い悲鳴が聞こえてくる。彼女は爪が食い込むほど強くヨシヒロの肩を掴みながら、自らの下にある金属の塊に驚きと困惑の感情を示していた。


「これっ、大丈夫なの!? かみついてきたりしないの!??」

「あはははっ、大丈夫だよ。生き物じゃないんだから……」


 バイクには口もなければ牙もない。人間がバイクを裏切る走りをしない限り、バイクが人間を裏切ることはない。しかし世の中にはそれを理解できていない乗り手も多く、乗り手がバイクを傷つけるような走りをした時、バイクは乗り手を見放してしまう。


 銀色のペダルに乗せた左足を踏み込んで一速にギアチェンジすると、ゆっくりとアクセルを捻ってバイクを前進させる。人間一人の重量というのはバイクにとってはかなりの負担になる。故に、いつもより多少回し気味にしないと、バイクはいつも通りに走ってはくれなかった。


 心地よいエンジンの振動を全身で感じながら、ヨシヒロは青空の中へと続いていく空中回廊を再び走り出した。石畳の道は最初の方こそよく整備されていたが、5キロ程も走っていると途端にガタガタになってくる。酷いところなど白亜色の石材が引っこ抜けそうなほどに浮き上がっていた。


「聞いていたより、ずいぶん荒れているんだなぁ……」


 つい先ほどまでは天国に続いているのではないかと思うほど、小綺麗に整えられていたというのに。


 ヨシヒロはスリップしては大変だと緊張感を高め、バイクの速度を落とした。


「仕方がないでしょ。こんな高いとこまで上がってくるなんて、あんたくらいなもんよ」


 少女は別段何の興味もなさそうな口ぶりで言った。


「えっ、そうなの? おかしいな、観光ガイドで読んだんだけど」


 先週、王都に立ち寄った際に、旅人向けの観光ガイドを一冊購入していた。それによるとこの天空ハイウェイには年間で1万人近くの観光客が訪れるらしかった。年間1万人というと、現代日本人の感覚では少なく思えるが、この世界の観光業は日本のように発達はしていない。人口もはるかに少なかったので、1万人というのは恐ろしく多い数だった。


「だーかーらー、普通はもっと下で満足して帰るの。道だってちゃんとしてるの一番下と上だけなんだから!」

「そ、そうなんだ……」


 いったい何に怒っているのかは見当がつかないが、とりあえず不満を抱えていることだけはよくわかった。


 白亜色の道をゆったりと進んでいると、カーブの手前で視界の開けた先に、無数の藍色の翼が広がっているのが見えた。それはワイバーンの群れだ。移動手段として人に飼われることの多い小型の竜だったが、こうして野生のものも存在していた。


 ワイバーンたちはコウモリのようにも見える巨大な翼をはためかせ、遥か彼方の地平線目掛けて飛んでいる。それは実に雄大で、生命の力強さを感じさせる光景だった。


「あ、そういえば」


 ヨシヒロは肝心なことを聞いていないことを思い出した。


「まだ名前聞いていなかったね。僕はヨシヒロ、君は?」


 バイクのバックミラー越しに少女の顔を見ると、しかし彼女は即答せず、何か考え込んでからようやく口を開いた。


「エルカルタ」

「エルカルタ? それはエルが名前?」


 エル・カルタということだろうか。


「あー……そ、そう! エル、あたしエルっていうの!」


 目元はゴーグルに隠れてよくわからなかったが、口元の形といい頬の筋肉の引きつり具合といい、あからさまに作り笑いをしている様子だ。何か隠しているのは間違いなかったが、とりあえず敵意はなさそうだったので、ヨシヒロはあえて触れないことにした。


「それで? 本当はどうやって来たの?」

「……歩いて?」

「歩いて!?」


 道は地続きだったので、その気になれば歩いてくることもできる。だが、可能だからといってそれをやるだけの人間がどれほどいるだろうか。何せ山の峠のように曲がりくねった道を延々と登り続けなければならないのだから。


 天空ハイウェイの全長は約30キロにもなる。そして彼女がいた地点までたどり着くためには、その内の10キロほどを要した。この天空へ続く道はすべての区間に傾斜があるわけではなく、ある一定の区間は地面に対して平行になっている。これはすべての場所に角度がついていると、誤って落としてしまった物がどこまでも下に転がり落ちてしまうためだ。


「ハイクロフトまで歩いて行く気だったの?」


 一般的に、空中都市ハイクロフトへは飛行船やワイバーンなどの飛行生物が交通手段として用いられる。この天空ハイウェイはあくまで観光名所であり、実用性のあるものではなかった。


「ワイバーン便だって出てるのに」

「仕方ないじゃない。まさかあんなに高いなんて……」


 どうやら彼女には持ち合わせがないらしい。


 確かに、飛行手段を使うとなればそれなりにお金が必要だ。飛行船は言わずもがな、ワイバーンに乗せてもらうのだってそこそこお金を取られる。しかしけして法外な料金ではなかったし、実際ほとんどの人はそうしてハイクロフトに入っていた。


 それからしばらくの間、ヨシヒロは無言で石畳の坂道を走っていた。


 この高さからは地方全体を見渡すことができる。なだらかな丘陵地帯と、鬱蒼とした森に覆われた山々、そしてその合間を抜けていく幅の広い川。大きな町は主として川に寄り添うようにして存在し、そこから山の方へ外れていくと小さな村々の姿を確認することができた。


「ちょっと! 見てあれ!」


 突然、それまで黙り込んでいたエルが前方の山を指差して大きな声を上げた。


 ヨシヒロはその細い指先を視線で追い……驚いてバイクを止めた。


「あれって、まさかドラゴン!?」


 一つだけ切り立った岩山の上では、巨大なトカゲのような生き物が、翼で体を隠すようにして眠っていた。山の頂上といっても、ヨシヒロたちとの高度はさほどかわらなかった。こちらの方が若干高い程度だ。直線距離では500メートルも離れていないだろう。


「こ、こっわ〜……ぜ、ぜったいに起こしちゃだめよ!」

「多分音は聞こえないと思うけど、一応ゆっくり通り過ぎようか」


 モンスターの王者といわれるドラゴンは、その凶悪な見た目と伝説に反して、意外にも人里への被害が少ないことで有名だった。これはドラゴンがそもそも人間なんて相手にしていないことも大きな理由だったが、それ上に休眠期が非常に長いことも影響していた。


 ドラゴンの休眠期は年単位であり、一つの個体が精力的に活動するのは10年に一度程度だった。それ以外は粗食で済まし、一日の多くを睡眠にあてがっている。これはドラゴンが生物としては巨大すぎるため、無駄にエネルギーを消費しないように進化したからだと言われている。


 しかし、こうして遠目にしているだけならどことなく愛嬌のある顔立ちだ。それこそ、一度怒れば簡単に町の一つ二つを焦土にする恐ろしい生物とは思えないほどに。


「あのドラゴンもそのうち退治されちゃうのかな」


 ヨシヒロはバイクを走らせてドラゴンから遠ざかりつつ、ボソッとつぶやいた。


「えーっ、知らないわよ。でもこんなとこに出たら、騎士団とか出て来るんじゃないの? 知らないけど」


 公共事業としてのモンスター退治はその国の騎士団の管轄になることが多い。もっとも彼らは上で指揮をするだけで、実際にドラゴン退治に向かうのは、その時に雇われた優秀な冒険者たちだったが。


 乱雑な石畳の道をずっと走っていたヨシヒロは、さすがに疲れてきたので、途中の休憩所で2回目の休憩を取ることにした。


 バイクを石畳から歩道のレンガに上げて、サイドスタンドを立てる。すると後ろに乗っていたエルは跳ねるようにして飛び降りると、大きく伸びをする。


「うーんっ! けっこう気持ちいいいわねこの乗り物。気に入ったわ!」


 彼女は満面の笑顔を見せつつ、かぶっていたヘルメットを外した。その下からペチャンコになった金色の髪が現れた。


「ちょっと、何よこれ!?」


 触ってみて自分の髪の毛が潰れていることに気付いたエルは、愕然としながらもワシャワシャと手櫛で髪を戻そうと奮闘している。しかし無駄な足掻きだろう。バイク乗りにとって、ヘルメットを外した後に髪型が崩れてしまうのは避けられない問題だった。


「あーもう!」


 声を苛立たせながら、エルは小さな両手を頭の横にあてがう。


 いったい何をやっているのだろうか。


 エルがそのままの状態で目を瞑ると、次の瞬間、緑色の光の粒子がどこからともなく溢れ出し、彼女の体を取り囲んだ。それはいつか見た妖精の光のようにも見えたが、一つの粒子が妖精たちよりもはるかに小さい。そして光の粒はエルの金色の髪に吸い込まれていき、最後には完全に消えてしまった。


「ふうっ、すっきりした」


 満足げな表情を見せるエルだったが、その髪の毛はヘルメットをかぶる前までのふくらみを取り戻している。


「何をやったんだい?」


 ヨシヒロは驚きつつ彼女にたずねた。


「何って、魔法で洗ったんだけど? あんたもするでしょ?」

「いや、しないよ」


 日本ではもちろんだが、この世界の人間もこのような方法で髪を洗っているのは見たことがない。第一これで体が洗えるのならば、湯浴みなど必要ないだろう。


「えっ、嘘……」


 エルは顔色を失い、そろそろと逃げるようにヨシヒロに背を向けた。


 その時だった。ヨシヒロはエルの背中に小さな白い翼が生えていることに気がついた。いや、それは翼と呼ぶにはあまりにも小さすぎる物で、ワンピースの飾りのようにも見える。


「ねえエル、その背中についてるのって……」


 翼だという確証がないままに問うと、しかしエルは大慌てて背中を隠しながら、周囲の様子をうかがった。まるで自分を監視する誰かを探すかのように。


「見た!? 見たの!??」


 見たも何も、自分から背中を向けたのではないか。ヨシヒロはそのように思いつつも、小さく首を縦に振った。


「君は、ひょっとして人間じゃないのかな」


 この異世界は人間以外の種族で溢れている。エルフやドワーフ、妖精……元の世界のファンタジーゲームに登場するような種族はすべて存在した。


 しばらくジッと黙ってエルの出方をうかがっていると、彼女はやがて観念したように両肩をガックリと落とすのだった。


「そうよ、あたしは天使族なの」


 キッパリと言い放つ彼女の頭上に、光の輪が突然現れた。


 天使族というのはこの世界に存在する種族の一つだ。白い翼に光の輪という姿を持つが、現代日本でいうところの「天使」とは異なる。彼ら、あるいは彼女らは人間を大きく上回る浄化の魔力を持ち、大地の汚れを取り払うことができたが、だからといって神様の使いというわけではなかった。あくまで、そのような姿を持った種族なのだ。


 天使族は人間に比べて圧倒的に数が少なく、その希少性と魔力の高さ、気高い容姿から崇拝されることも少なくはない。実際、この頂上に浮かぶハイクロフトの神殿でも、天使族を祭っている。


「あたし、嫌で逃げ出したのよ」


 聞くところによるとエルは、もともとハイクロフトにある神殿に勤めている天使だったらしい。そこで彼女は浄化魔法を使って、町の衛生を管理していたのだと。


「毎日おんなじことばっかし……ほんとつまらなくて」


 彼女はバイクのシートに腰をかけながら、遠い目をハイクロフトの影に投げかける。


「じゃあ、なんでハイクロフトに戻ろうとしているの?」


 ヨシヒロは蛇口からこぼれ出した水で喉を潤した後、彼女を振り返った。


「見たでしょ? こんなにされたからよ」


 エルは不服そうに眉根を寄せると、シートの上でクルッと姿勢を変えて背中の小さな翼をパタパタと動かして見せた。風一つそよがない弱々しい羽ばたきだ。


「これじゃ飛べない。ハイクロフトを出てもどこにも行けないし」


 これは天使族における一種の枷だとエルは言った。


 天使族は古の時代より人々の暮らしの上に立ち、それを見守って来た。人々もまた神殿を造り、天使を神の使いとして崇めていた。天使たちはそれを否定していたが、人間にとって強大な魔力を持った天使族は、実在するかどうかも定かではない神様以上の存在だったのだろう。


 天使はどこかの神殿に属し、そこを離れることは許されなかった。それは天使族の掟であり、破った者には魔力を著しく制限する呪いがかけられていた。エルの翼が小さくなり、飛行能力を失ってしまったのもそれが原因だった。


「けっきょく、戻るしかないのよ。自由になりたいなんて馬鹿な願いだったんだわ」


 悲しげに揺らめく瞳を見つめ、しかしヨシヒロが彼女にかけられる言葉はなかった。


「……行こうか」


 ヨシヒロは三度エンジンに命を吹き込み、低く唸るような排気音を炸裂させながらハイクロフトを目指して坂を登り始めた。


 チューブの中の気温は一定で、それは人にとって居心地のいい空間に保たれている。そのはずなのに、ヨシヒロはどこか肌寒い風を感じて身を震わせた。


「……ガソリンが切れることがあるんだ」


 不意に、ヨシヒロは口を開いた。


 なぜそのようなことを言い出したのか自分でもよくわからなかったが。


「ガソリン……?」

「燃料だよ。バイクはガソリンで動くんだ。なくなると動かなくなる」


 異世界でなくなると補給は不可能なので気をつけてはいるが、元の世界でツーリングをしている時は、山の中で立ち往生することもあった。


「動かなくなるとどうするの? まさか持って運ぶんじゃないわよね。こんな重そうなの、大型のゴーレムじゃないと持てないわよ」


 ゴーレムというのはこの世界におけるロボットのようなものだった。形は人型から動物を模した物まで様々だったが、共通していえるのは魔力をエネルギーにして動いていることだった。


「押して歩く。ガソリンの手に入る場所まで」

「うへぇ……大変そう。あたしは絶対ヤダ」

「うん、僕だって嫌だよ。でも、それが自由の代償なんだ」


 ヨシヒロの左肩をつかむエルの指の力が、少しだけ強くなる。


「バイクは世界中どこでも自由に走ることができる。でも、自由に振る舞えばその代償もついてくる。自由と責任っていうのは切り離せないんだ」


 バイクの丸型ミラーに映り込むエルは、桜色の唇をギュッと噛み締めていた。


「……そうかもね。全部あたしが悪いのよ。自由になりたいなんて思わなければよかった」


 諦観。


 エルは悲しげに声を震わせながら、徐々に近づきつつある巨大な都市の影を見つめている。


「どうかな。僕はそう思わないけど……つかまってて!」


 口の端で笑いつつ、ヨシヒロはアクセルを勢いよく回して急加速した。


 刹那、先ほどまでの穏やかなエンジンフィーリングが一瞬で変化し、暴力的なまでの加速が全身を襲う。世界最速の駿馬さえも瞬く間に置き去りにするスピードだ。後ろからはエルが悲鳴をあげながら必死になってしがみついてきている。それをしっかりと確認しながら、ヨシヒロは路面の良い場所を選びつつ、大きく弧を描くカーブを曲がるために、車体を大きく寝かしこむ。

 バイクは四輪自動車とは違う。コーナリングに際してはハンドルではなく、体重を移動させることによってカーブを曲がることができた。当然、スピードが速くなればなるほど、大きく体重移動してバイクを寝かせないと曲がりきれなくなる。

 W650というバイクはそれほど旋回能力の高いバイクではない。ステップ位置も低く、あるていど寝かせようとするとステップを地面で擦ってしまう。だからヨシヒロはステップが擦れてしまうギリギリの位置まで車体を倒し、ヘアピンカーブを次々と制していった。


 エルは最初こそ断末魔のような悲鳴を上げていたが、徐々に慣れて来たのか、カーブを一つ抜けるたびにその声は興奮の色に染まっていく。


「ひゃああああぁッ、きっもちいいぃーーーー!!」

「でしょう!?」


 ヨシヒロは風切り音で聞こえづらくなっていたため、声を張り上げながら相槌を打つ。


「エルは自由を選んだんだ。だから今日、ここにいる。ここにいるから、バイクで走る快感を知ることができた」


 少しバイクの速度を弱めつつ、カーブを抜けた先の直線を走る。


「自由ってつらいことも多いけどさ、でもそれだけじゃないんだ。自由じゃない人の出来ないことが出来る。エル、もしも君が本当に自由になりたいなら、翼なんかなくたっていいじゃないか。足があれば、バイクは押して運べるんだよ?」

「…………」


 エルは口を固く閉ざしたまま、しばらくの間俯いていた。


 が、やがて顔を上げると、ミラー越しににっこりと満面の笑みを作った。


 ヨシヒロたちがハイクロフトの巨大な城門の前に到着したのは、その10分後のことだった。城壁は天空ハイウェイの石畳と同じ白亜色で塗られており、その天辺に位置する見張り台の屋根は青空に溶け込むような色だった。見るものを圧倒する造りを仰ぎ見ながら、ヨシヒロはバイクを押して跳ね橋の上に立つ。


「ッ……!」


 真横に立っていたエルがビクッと体を震わせ、息を飲む。彼女の視線の先に立っているのは白いフードをかぶった長身の男だった。彼はもたれかかっていた白い壁から背中を離すと、ゆっくりとした動きでこちらに近づいてくる。


「カルタエル……気はすみましたか?」


 カルタエル、それがエルの本当の名前なのだろう。


 その男は自分のことをケイドエルと名乗った。長身で痩せ形だが、なぜか弱々しさは感じさせず、肩幅は広い。肌はエルと同じように白く、背中の巨大な翼はローブの下に折り畳まれていた。


 エルにとっての「上司」なのだろうか。


「上司という概念は天使族にはありません。しかし、私がカルタエルにこの町の神殿を任せていることも事実」

「エルはどうなるんですか?」


 数歩離れたところで視線を逸らしているエルの様子を気にしながら、ヨシヒロは背の高い天使の男にたずねた。


「咎められるということもない。天使は他者を処罰しません。ただ、あるがままを受け入れるだけ」

「じゃあ、神殿に戻れます?」

「彼女にその意思があれば。なければ他の者をあてがうだけです」


 つまり、ここから先は彼女がどうしたいか次第というわけだ。


「……」


 エルはそれまでの強気な態度が嘘のように引っ込んでしまい、助けを求めてすがるような視線をヨシヒロに向けて来た。それはどこか飼い主を失った子犬の目のようにさえ思える。


「どうすれば……いいのかな」


 それは難しい問題だ。


 どちらを選んだとしても後悔することになるだろう。


 ただ、それでも一つだけアドバイスできることがあるとすれば……


「あの時ああしなければ良かったって後悔するより、ああしとけば良かったって燻る方が辛いよ。やらずに一生もやもやし続けるくらいなら、やって玉砕するさ。僕ならね」


 その結果、一生を棒に振ることになったとしても、自分の意思で選んだ未来なら納得できる。少なくともヨシヒロはそう思うのだった。


「あたしは……ここを出て行くわ」


 そのように決断するエルの瞳には、もはや迷いから来る揺らめきはない。


「いいのですか?」


 ケイドエルは感情のこもらない無機質な忠告をする。


「二度と翼は戻りませんよ? 魔法も制限します。天使族の魔力は、人間たちにとって脅威ですので」


 それでもエルは力強く頷いた。


 きっと、彼女の行手には多くの困難が待ち受けるだろう。それは物理的なものだけではない。多くの人々による誹謗中傷、迫害、嫌がらせ、そうしたものを全て受け入れなければならないというのが、自由を得た者の代償だった。


 エルが決意を表明した後、ケイドエルは興味をなくしたようにそそくさとその場からいなくなってしまった。まさしく最後の勧告だったのだろう。こうして忠告をしてくれただけ、彼は優しかったともいえる。


「エル、もしよかったら……」


 彼の姿が雑踏の中に消えた後、ヨシヒロは口を閉ざしていたエルを振り返って言った。


「町の観光が終わるまで待っててくれないかな。そうしたらバイクで下まで送るよ」


 彼女の軍資金は心許ないようだったし、ヨシヒロとしてもここまで関わってしまった以上、彼女の行先が心配でしかたがなかった。せめてこの町を出る時くらいまでは一緒にいてあげたいと思った。


 しかし、


「ううん」


 エルは静かに首を横に振る。


「あたし、歩くわ」


 まだ自信はなさそうだったが、それでも彼女の瞳からはかすかな闘志の炎が感じ取れた。


「だって、自由を選んだもの。ちゃんと責任は果たさなくちゃね」

「……そっか、じゃあこれは餞別」


 ヨシヒロは巾着の中からコインを全て取り出すと、それを彼女に与えた。


「えぇッ!? いや、もらえないわよ!」

「旅立つ人にはお金をあげるのが常識なの。気にしないで、僕ももらったんだから」


 当たり前の話だが、日本のお金はこの世界では使えない。ヨシヒロが持ち歩いているのは、以前この世界に来ていた男から譲り受けた資産の一部だった。


「ねえ」


 天空ハイウェイを戻ろうとしていたエルは、不意にヨシヒロを振り向いた。


「……また会える?」


 しおらしいその言葉に、ヨシヒロは笑顔を抑えきれなくなって破顔した。


「うん! 僕たちは自由な旅人だから、いつ会うのだって自由だよ」


 そのようにヨシヒロが答えると、エルはこれでもかというほど頬を喜ばせた。そして今度こそ後ろを振り返ることはなかった。


 赤いレンガの歩道をまっすぐに進んでいく白いワンピース姿を見送りつつ、ヨシヒロは穏やかな気持ちでハイクロフトの門を潜ったのだった。



〈終わり〉

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