第8話 ノーマネー・ノーライフってことで働きましょう
「うぁー…………」
オフィス内で椅子にもたれかかり、軽く目を瞑り目頭をグッ、グッと押さえた。
それから頭を軽く振って眠気を意地でも飛ばし、手元の資料に目を落としながらパソコンの画面へと向き直る。
「……ぃくん」
(えーっと、午前中に年齢別スマホユーザの利用目的をアンケートから文章化、データ整理も終わらせて、篠崎主任が提案したソフトウェアによるメリットとデメリットの考察を考える……)
「白井くん、少しいいかな?」
(それからプレゼン用のパワポ資料、会議用の配布資料も作って…………あ、ダメだ。十四時からは新人くんを連れて顧客の開拓先に営業回りか…………ならそれが終わったらまた会社に戻ってきて詰めて、明日も出社するしかな……)
「白井くん!」
「は、はい! 篠崎主任! 何でしょうか!?」
頭の中で今日の予定を再確認、組み立てていたところ、その計画は聞き慣れた怒号によっていとも簡単にぶち壊された。
まあ今更確認しなくても残業と休日出勤は確定なんだけどさ。
名前を呼ばれて勢いよく背筋を伸ばしたリョウに、篠崎主任は胡乱な目を向ける。
「『何でしょうか?』……じゃないのだが。君はちゃんと教育係として、梶原さんの面倒を見ているのか?」
「え、そ、それはもちろん……」
篠崎主任が言う梶原さんとは、この春うちの会社に入社してうちの部署へと配属された新卒の一人。
リョウがヌルッと課長に命じられて心の中で憤慨した教育係の相手だ。
リョウはさん付けではなく梶原くんと呼んでいるがそれはさておき。
どうやら篠崎主任はその教育係についてお小言があるらしい。
梶原くんには今朝一、エクセルで顧客データについての整理を仕事として割り振ったはずなのだが。
「もちろんできてる、か?」
「……はい、そのはずです」
「なら梶原さんのこの現状は、どう説明するんだ?」
キャリアウーマン然とした篠崎主任が指差した向かい側、梶原くんのパソコンの画面をリョウは促されるまま覗き込む。
すると、今朝お願いした簡単なデータ整理がわずか三行しか進んでいない……というより作業の途中で詰まってしまったようだ。
梶原くんは篠崎主任の威圧に完全に萎縮して、画面の前で申し訳なさそうに縮こまっている。
「彼、この膨大なデータを自分のスマホの電卓で一々計算しては打ち込んでいたようだが、これでもちゃんと教育係できてるって、本当に言えるのか?」
「言えません……」
「なら君がすべきことは何だった?」
「……本人の取り組み姿勢だけ見るのではなく、もう少し気を配って声かけや時々進捗状況まで確認するべきでした」
「そうだな、分かってるならそれでいい。……で、あとは私がここに来た本題だが、頼んでた市場調査のレポートは期限までに仕上がるのか?」
「月曜までには必ず」
「……そうか、問題無いならそれでいい。問題が無いのなら……」
そう言い残して篠崎主任は踵を返し、息抜きのためコーヒーでも飲むのか、廊下へと消えていった。
篠崎
リョウが勤めるIT系サービス会社代表取締役の一人娘であり、同じ部署内直属の上司でもある。
年はリョウの二つ下の二十四歳。
その若さで役職持ちであることに親の七光りだと当初は不満を持つ人も少なくなかったが、本人の能力の高さも相まってそんな声は今はほとんどない。
というか、過去にはそんなメンツが何人か他部署に移動することもあったのだが、はてさて真相はいかに。
「先輩、お休み中のところ申し訳ありませんでした。僕のせいで先輩が怒られることに……」
「ん?」
再度目頭を押さえて気合を入れ直していると、とても肩身が狭い声が聞こえてきた。
梶原
この春同じ部署に配属された生真面目な新人くんだ。
教育係に任命され、初めはエゲツない性格の新人でも来たら恐ろしいなどと考えていたが、梶原くんは生真面目で素直な子で本当に良かったと思う。
最近の会社であった、いい事ランキングには絶対上位に食い込んでいる。
「あーううん、気にすんな。これはちゃんと見てあげられなかったおれのミスで責任だからさ」
「ほんとすみません……先輩は他の仕事で忙しいから僕が自分で頑張らないといけないのに」
「いいっていいって、新人はできないのが当たり前なんだからさ。データ整理、どこで詰まったか説明できる?」
「えっと、ここです。各データの足し算まではできたんですけど、そのあと任意のデータを選んでかけ算をするところでどうしても手間が」
「なるほどね。そういう時は関数を導入したら計算しやすいからーー」
……
…………
………………
「……でき、ましたっ……! 先輩、確認お願いします」
「えーっと、どれどれ…………うん、ちゃんとできてるよ。お疲れ様」
「はい! あ、先輩、これからの昼休憩良かったらご一緒しませんか?」
「あーごめん、まだ資料作成の方に時間がかかりそうだからさ、これからの昼休み返上するつもりなんだ」
後で十分程度小休憩でも取って、その間にコンビニのおにぎりでも口にすれば問題ないだろう。
苦笑するリョウに梶原くんは肩を落とす。
「そう、ですか。なら僕一人で……」
ーーバンッ……!
突然デスクを手の平で叩かれた音に、リョウと梶原くんは揃って体をビクッとさせた。
二人が視線を向けた先、リョウのデスクを叩いた張本人は……なんともまあ、大変イライラとした様子の篠崎主任である。
「えっと……篠崎主任、今度はどうかされましたか?」
「……白井くん、再三に渡って聞くが、君は梶原さんの教育係なんだよな?」
「そうです、ね」
「なら部下と円滑なコミュニケーションをはかるのも白井くんの仕事だろう」
「……」
「何か答えないか」
「…………えぇっと、つまり、どういうことですか?」
「だからっ……昼休み返上なんてしてないで、さっさと彼の昼休憩に付き添いをしろと言っているのだ!」
「えぇ……」
「返事はっ!?」
「はい! 直ちに! 行こう、梶原くん」
「えっ、あっ、は、はい!」
虫の居所が悪い虎から脱兎の如く、梶原くんを連れ立ってリョウはオフィスを後にした。
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