第2話 帰宅、そして三度目の正直






「つ゛〜 か゛〜 れ゛〜 た゛〜」



街灯に照らされた夜道。


いつにも増して死滅した表情筋が固まっているせいで、こびりついた営業スマイルを何とか元通りにしようと頰を拳でグリグリとしながら帰路につく。


春、それは出会いの季節。


それゆえに勤め先の会社でも新入社員が何人か採用されたわけであるが……



(おれの仕事を増やすんじゃねぇよおぉおおお!!!)



ヘラヘラとした課長に丸投げ任命された新人教育。


それはもう鮮やかに、滑らかに、ヌルっと今朝の朝礼会議で言い渡された。しかも自分に分け与えられた仕事量は去年までと変わっておらず給料もそのままという地獄。


唯一の救いは、その新人が真面目であることくらいであるが、少しばかり要領が悪いため一人前に育つまで時間はかかりそうだ。



(あんの薄毛ビール腹親父っ! 一度でいいから顔面にパイをぶん投げたいっ……! 会社の花見会で余興としてパイ投げをねじり込んでやろうかっ……)



手をワナワナと震わせながら、想像するだけなら何の実害もない出来事を思い描いて不敵な笑みを浮かべる。



(まあ、できっこないんだけどさ)



そして我に返って虚しい気持ちになるまでが、もうお決まりの一連の流れだ。


今日も今日とて酒に心を明け渡して、明日のために早く眠りにつこう、そうしよう。


自宅である比較的新築のアパートへと着き、ため息をこぼしながら階段を上る。



「ほんと、この世の出会いの全てがボーイミーツガールなら世界は丸く収まるだろう……に……いぃいいい!?!?!?」



階段の先を見上げ、思わず目が驚愕で見開かれた。


ボーイミーツガールで満ちた世界とは裏腹に、自分の言葉は丸く収まらず、語尾が驚くほどのビブラートを奏でる羽目になった。


なぜかって? それはーー



「リョぉ〜!!! にぃ〜!!!」



女の子が階段の上から自分に向かってダイブしてる光景が目の前に広がっていたからだよっ!!!


咄嗟に飛び込んできた女の子を男の意地でなんとか受け止める。けれどそこは足場が狭くバランスの取れない階段。



「ちょっ、やべっ!」


「えっ? あっ!」



焦る二つの声。


飛び込んだ勢いを殺し切ることができず、背中側に倒れる体を何とかして支えようと片手を手すりに伸ばして……


ーーつるっ……



「「あ」」



一瞬だけ時が止まる世界。


二人のやってしまった、という漏れ出た声が重なった。


そしてもちろん、勢いを殺し切ることができなかったということはつまり、慣性の法則に従って二人の体は動き続けるわけで……



「うわあぁあああああ!!!!!」


「きゃあぁあああああ!!!!!」



くんずほぐれつ、階段から盛大に転げ落ちた。


ーードシーンッ!!!



「あ、あれ? 痛く……ない? ふわぁ〜、し、死ぬかと思ったぁ〜」


「……ちょっと」



自分の腹の上に跨がって、安堵の声を漏らす女の子に男は冷めた声をかける。



「君は今朝ここで会った子だよね?」


「そうだよ! 覚えて……」


「おれに何の恨みがある? 殺す気か? 今すぐ110番に通報して警察に来てもらった方がいいか?」


「わ、わぁー! 待って、待ってよリョウにぃ! わたし! わたしだよ!」



わたし、わたしと女の子は連呼しているけれど、その顔は暗がりで陰になってよく見えないし声に聞き覚えもない。



「ワタシワタシ詐欺なら他を当たってくれ」


「ち、違うって! ほ、ほら! わたしの顔、ちゃんとよく見てよ!」



女の子がずいっと顔を近づける。


それと共に雲間から月の光が差し込んで夜闇が少しばかり晴れた。


淡い月明かりと風に舞い散る桜の花びらに彩られたその可愛らしい顔は……



「いやっ、知らない顔なんだけど……」


「嘘でしょ!? 朝のスルーは冗談だと思ってたのに! ほんとにわたしの顔忘れちゃってるの!?」



焦燥故か一切の遠慮なし。


女の子は自分の顔を男の目と鼻の先まで近づけてくるのだが……



「え、え〜、あ〜、うん。知らないや……こんな子」


「!」



雷が迸ったように衝撃を受ける女の子。


フラフラ……ヘタリ……男の体に跨ったまま、魂が抜けたようにポへーとした顔で意気消沈している。


だが大人しくしていたのも束の間。


段々と目尻に涙が溜まり、嗚咽混じりにひっくひっくとしゃくりあげ始めて。


そしてーー



「うわぁーん! リョウにぃのバァーカ!!!」



とても大きな声で泣き始めた。



「ちょっ、待って、そんな大きな声出すと近所迷惑だから……」


「バカバカバカバカバカァ!」


「人の話を……………………〜〜〜〜っ、あーもうっ!」


「うぇっ!?」



こちとら仕事終わりに精神的にも肉体的にも疲弊していて、そこに訳の分からない女の子から容赦の無いダイブを喰らって階段から転げ落ちたのだ。


その上こんなか弱い女の子を泣かせている光景を誰かに見られでもしたら社会的にもはや生きていけない。


今の今までずっと跨っていた女の子をそのまま男の膂力で抱き上げる。


そして階段をズンズンと踏みしめ、自分の部屋に女の子を連れ込んで小さなテーブルの前に座らせた。



「あ、あのっ……」


「いいから! そこで座ってる!」


「は、はい!」



電気ケトルでお湯を沸かし、マグカップにインスタントのコーヒーを詰め込んでお湯を注ぐ。


二人分のそれをテーブルへと運び、男は女の子の対面に座った。



「……」


「……」



気まずい、とても気まずい。


先ほどはテンションが振り切れて思わず泣いていた女の子を家に連れ込んでしまったが、ケトルでお湯が沸くのを待っている間に頭が冷えてしまった。


行いだけ見れば自分は完全に犯罪者のそれである。


女の子の方に通報する意思がないことだけが幸いか。


もしされたら、一発アウトだろうなぁ……



「…………話を、しよう」


「そう、だね」


「まず最初に、怪我はないか? 頭は打ってない?」


「えっ? あっ、うん。大丈夫だよ」


「なら良かった」



咄嗟に体を張った甲斐があったらしい。


男の問いかけに、女の子が少しだけ嬉しそうな表情になった。


だけどそれも束の間。


次の質問には明らかに顔を曇らせる。



「それで、君は一体誰なんだ? おれのことを知ってるみたいだけど」


「…………ほんとに、覚えてないの? リョウにぃ?」


「って言われてもなぁ」



男の名前は白井涼。


確かに下の名前は女の子の呼ぶ通りリョウであるのだが、自分にはこんな年下の子に知り合いなどいないはずだ。


どこかの誰かと間違えていたと言われた方がしっくりくるのだが……


ーーうるうるっ……


そんな寂しげな瞳でおじさんを見つめないでくれ。罪悪感で押し潰されそうになるし心臓に毒だから。


何とか思い出そうと頭を捻っていはいるのだが、一向に答えは出てきそうにない。


それが伝わったのか、女の子は差し出されたカップに気落ちしたように視線を落とした。



「やっぱり、覚えてない……か」


「えっと、ごめん……なさい?」



他人行儀なリョウの言葉に女の子は苦笑し、立ち上がる。



「わたし、帰りますね。突然お邪魔しました」



女の子は頭を下げ、そして玄関へと向かって歩き出した。


とても寂しげな後ろ姿。


最後にチラリと見えた瞳には、すがりたい気持ちを押し殺して泣かないことを自分に叱咤したかのような。


そんな切ない後ろ姿に涼は……


ーーチリンッ……



「……えっ?」



鈴の音が鳴る。


女の子の手首に結びつけられた、安っぽいアクセサリーの鈴が揺れたから。


涼が、その去り行く女の子の手を取ったから。


驚きの顔を受けべる女の子に、リョウ自身も自分の手が勝手に動いたことに驚く。



「…………え、あっ、ごめん。手が勝手に……」



けれどその手を取り、鈴の音色を聞いた途端、遠い昔の記憶を確かにはっきりと思い出した。



「…………もしかして、スズ?」


「!」



リョウの問いかけに、女の子はポロポロと大粒の涙を溢す。


涙を溢して、そして声を上擦らせながら感極まりながら名前を呼ぶ。



「うっく……ひっく……リョウにぃっ……」


「ほんとに、スズ、なのか?」


「リョウにぃ、リョウにぃ、リョウにぃ!」 


「うおっ……」



飛びかかるように抱きついてきた女の子に押し倒され、リョウは床に仰向けになる。



「会いたかった! 会いたかったよぉ!!!」


「少し落ち着いて……」


「スズだよ! わたしスズなんだよ! ずっと、ずっとず〜っと会いたかったぁ!!! うわーんっ……!」



胸元で小さな子供のようにしゃくりあげ続けるスズ。


そんなスズにリョウは身体の力を抜いて委ね、昔みたいに頭だけをポンポンと優しくたたいてあやし続けた。


この春、リョウは生き別れた妹と十年振りに再会した。





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