隣に引っ越してきたJKが生き別れの妹だった件について
雨空 リク
第1話 お引っ越し
月曜日。
男は廊下から聞こえてくる騒音でふっと目が覚め、もぞもぞと枕元に置いてあるスマホの時間を確認する。
時間は出勤時刻の三十分前、七時半で、まず真っ先にこれから六日連続で会社へと出勤する憂鬱さを感じ、現実逃避のため布団を頭までスッポリと被った。
(このデスマーチが終わったらさ、おれ、布団と結婚して一生一緒に過ごすんだ…………ーーって先週神様に誓ったのに、なんで月曜が来てんだよ神様のばかやろう。時空くらいちょちょいと歪めてくれよ)
子供じみた悪態をぶつくさ。
それでも自分の心の中にいる天使の姿をした良心がしつこく語りかけて来て、結局は渋々起き上がることを余儀なくされるのだ。
(起きますよ、ええ起きますとも。だって起きて金を稼がないと生活できないんだから)
全く、見かけ倒しの天使の姿で人をたらし込み、疲れ切った精神にそれでもなお働けと、ある意味では悪魔とも呼べる良心とやらをいつかは薙ぎ倒して好きなだけ惰眠を貪りたい。
男はそんなつまらないことを考えながら、朝ご飯にコンビニで買ったパンを咥え、昨日の一人晩酌の跡であるビール缶(この世で最も生を感じられる飲み物)や空になった惣菜パック(タルタルソース付きチキン南蛮が至高、異論は認める)をゴミ袋へと放り込んでいった。
モシャモシャと咥えていたパンは牛乳で流し込み、空になった牛乳パックも一緒にゴミ袋へ。
ーーガタッ……トントントン……
(廊下が騒がしいなぁ……あ、今日燃えるゴミの日だっけか。だから人が多い……んなわけないよな)
脈絡のない思考をするボーッとした頭のまま歯を磨き、無精髭を適当に剃って、冷たい水で顔を洗う。少しよれたシャツに袖を通し、それなりに使い込んだスーツに身を包んでネクタイを締めた。
(はぁー、無理ー、やだー……ドアよ、お前でもいいからおれと結婚しないか? 具体的にはヤンデレみたいにこのまま閉じ込めてくたら助かるんだけど)
社会人八年目。
今日も今日とて、繰り返す営業回りで疲れ切るどころか死んだ表情筋を酷使して笑顔を作り、日がな一日取引相手先の機嫌を取っては会社に戻って、それから新規事業用のプレゼン資料作成を先輩に手伝わされるに違いない。
そして家に帰って来たら幸せを感じられる唯一神(アルコール)を体に取り込んで眠りにつく。
味気も無ければ、新しい出会いもない。
毎日毎日、社会に出てからはほとんど変わらない同じことを繰り返している。
(空から女の子が落ちて来て、心躍るような大冒険でも始まったらいいのに……)
革靴を履いてドアの手前、最後の悪あがきに一度しゃがみ込んでうだうだとして、けれど出勤時刻ギリギリにはすくっと立ち上がって男は鞄とゴミ袋を手に外へ出た。
「あれ?」
ドアを開けた先、隣の部屋へと朝から慌ただしく荷物を搬入する引越し業者たちの姿が目に映った。
なるほど、朝から廊下がうるさかったのはどうやらこれが理由らしい。
(そういえば園さんが引っ越ししてからずっと空き部屋だったっけ。園さん、元気にしてるといいけど)
隣人として繋がりのあった前の住人のことをふと思い出す。そしてどうやらその空き部屋だった隣の部屋に他の誰かが引っ越してくるらしい。
(……まあ、どうでもいいんだけど)
自分と同じく、会社の歯車として朝っぱらから重労働にこき使われている引っ越し業者の方たちへ心の中で敬礼を送り、作業の邪魔にならないよう隅によって階段を下る。
そしてアパート前のカラス対策のネットをかきあげて、ゴミ袋をその中に放り込んだ。
「これでよしっ、と…………?」
部屋を清潔に保つという今日一番の仕事を終えたであろう自分に、ふと奇妙な視線を感じた。
視線の方向に目を向けると、中……いや高校生くらいだろうか。
可愛らしい女の子が驚きと、そしてとても熱烈な瞳でこちらを見つめている。
じーっ……
じーーっ……
じーーーっ……
辺りをキョロキョロと見渡しても、周りに自分以外の人がいる気配はない。
ここで「やあ」と手を上げても人違いだったり、別の相手と重なっていて自分が勘違いしていただけだという可能性はきっと無いだろう。
「……」
「……」
見つめ合ったまま、男はとりあえず女の子との距離を詰める。
すると女の子が感極まったような潤んだ瞳で、手を胸の前でギュッと握り締めた。
一歩、二歩、三歩……もはや手を伸ばせば互いに届く距離。
その縮まった二人の距離に女の子は天使も恋するような眩しい笑顔を浮かべ、そして今二人の距離は0にーー
「さてとっ、今日も一日仕事を頑張りますか畜生め」
ーーなったかと思いきや、すれ違いによって今度はその距離がなんの躊躇いもなく広がり始めた。
女の子の笑顔がそれはもう石像も顔負けというレベルで固まっている。
それも当然だろう。
自分の下に近づいてきてくれていると待ちわびていた男が、スルッと女の子の横を素通りして会社に出勤する選択肢を選んだのだから。
「えぇっ、ノーリアクション!?」
流石に堪えかねた女の子が驚きの声を上げる。
しかし男は驚愕する女の子の様子など何のその。
こちとら26歳の成人男性。彼女からしたらおっさんもいいところだろう。
朝から高校生くらいの見知らぬ女の子に声などかけている姿が近所様に見つかったら110への通報待ったなし。警察にお世話になってブタ箱入りルートなど回避一択しかない。
「ちょっ、待っ! リョウにぃだよねっ? リョウにぃ『花守さーん! 荷物の搬入が終わりましたので……』」
「……ん?」
引越し業者の野太い声に掻き消されたが、ふと聞き覚えのあった呼び方に、男は通勤のため歩き出していた足を止めて後ろを振り返った。
けれど女の子はすでに先ほどの居場所からいなくなっており、その姿を確認することはできない。
「……気のせい、か?」
男はかぶりを振って再び歩き出す。
春、それは出会いと別れの季節。
遠い昔に生き別れたある女の子の面影を思い起こしては、その面影は曖昧な記憶の中に溶けて消えてゆく。
そして数瞬後には何事も無かったかのようにさっぱりと忘れてしまい、男は桜並木をくぐっていった。
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