第3話 ギリギリ

 名前で呼びあうイベント。

 ラブコメ定番イベントで、男女が初めて名前を呼び合うときに発生する。見ている方が照れ臭くなるイベントだ。

 俺はこのイベントを甘くみていた。『なんで名前で呼び合うぐらいで照れるんだよ』と、たかをくくっていた。

 でも……実際にやってみると、俺の予想を遥かに超えていた。

 名前で呼ぶのも呼ばれるのも、地味に恥ずかしい。しかも口は渇くし、顔はポーっとする。


 結局、慣れるまでに1時間ちょい掛かった。

 何度も何度も恥ずかしさで悶え死にしそうになった。

 でも、その甲斐あって、俺達はようやく自然に名前で呼び合えるようになった。足を引っ張ったのは、もちろん俺だ。


 そんなわけで遅くなったけど、今からようやく夕飯の準備だ。


愛依いといって、辛いの大丈夫?」

「うん、大丈夫、むしろ好きだよ」

 す……好きだと。

 ダメだ、ダメだ、さっきの超至近距離の名前の呼び合いで、妙に意識してしまっている。

「んじゃ、麻婆豆腐でいいかな?」

「うん! 大好き!」

 だ……大好きだと。なんか顔がまたポーッとしてきた。


 ——実は俺、料理を作るのが、めっちゃ好きだ。実家でも結構作っていた。こっちに来てからは、行列の出来る有名店を食べ歩いて、その味を再現することに凝っている。

 今日の麻婆豆腐もそのひとつだ。

 ここだけの話、そのお店で売られている辣油があって、それを使うと結構その店の味になる。辣油にしてはちょっと割高だけど、満足度はもっと高い。


「はい、お待たせ!」

「うわー美味しそう!」

 女子はサラダが好きだろうと思って、つけ合わせにササミのサラダとインスタントのフカヒレ中華スープを作った。

 この系は短時間で調理できて満足度が高い。皆んなにもおすすめだ。


「「いただきます」」


 愛依が、麻婆豆腐を口に運ぶ、気に入ってくれるといいのだが……緊張の一瞬だ。


 麻婆豆腐を口にした愛依が大きく目を見開いた。

「美味しい!」

 っしゃ……俺は小さくガッツポーズをした。

「な……なんなのこれ、めっちゃ美味しい! どうやって作ったの!」

 超テンションの上がる愛依。

「へへへ、結構研究したんだ今度レシピ教えるよ」

「絶対だからね!」

 超絶笑顔の愛依、やっぱり笑顔が可愛い

「くぅ——っサラダも美味しい」

 幸せそうに食べる愛依を見ていると、俺まで幸せな気分になってきた。

「壮一郎はきっといいお嫁さんになるね!」

「いや俺、男だから」

「そんな、細かいこと、どうでもいいやん!」

 いくら愛依の言う事でも、性別はどうでも良くないし細かくもない。


 さっきの名前呼びイベントと麻婆豆腐で、俺達はすっかり打ち解けた。

 自分で作った料理だけど、いつもより俄然美味しく感じた。やっぱ飯は一人で食べるより、誰かと食べた方が美味しい。


「「ご馳走様」」


 腹も膨らみ、夜もいい感じに更けてきた。


「洗い物は、私がするね」

「いや、今日は俺がするよ」

「でも、それじゃあ悪いし……」


 結局2人並んで洗い物をした。はじめての共同作業です。

 愛依が動くたびに良い匂いがする。

 そして、肩が触れる度にお互いに意識してしまう。なんだこの新婚体験。最高じゃないか!

 この時間がもっと続いて欲しい……なんて思っていたけど、洗い物は一瞬で終わった。2人でやったんだから、当然だ。


「じゃ、俺、風呂入れてくるよ」

「「……」」

 2人で目を合わせて固まってしまった。


 お風呂……一緒に入らないのは当たり前としても、無意識でらいれるほど、お互い大人ではなかった。とは言え俺も愛依も人間だ。明日も学校だし、お風呂に入らないと色々都合が悪くなる。なんて考えつつ、浴槽を流してお湯貼りした。


 ——『お風呂が沸きました』


 一瞬で沸いた気がした。愛依と一緒だと時間感覚がおかしい。いつもの倍速で時間が流れているようだ。


「愛依……先に入ってよ、もし恥ずかしかったら、俺コンビニでも行ってるし」


「ううん、ここにいて、1人だと、なんか不安だし」

 今日、結構な頻度で愛依はもじもじ話す。学校とのイメージとは随分違う。

 可愛い……学年ナンバーワンは伊達じゃない。

「分かった……部屋でネットでもしてるよ」

 

 でも、シャワーの音が気になって、ネットどころでは無かった。俺の家に裸の愛依がいる。そう思うだけで、胸熱だった。


「お先、いただきました」

「じゃ、俺も入ってくるね」


 風呂上がりの愛依は超絶良い匂いだった。濡れた髪をまとめてアップして見えるうなじが、とてもセクシーだった。

 親が来た時用に、客布団はある。愛依が俺ん家で寝るんだよな。あんな事や、こんな事になったら、どうすればいいの? 思春期の男子特有の妄想を膨らませる俺だった。


「ふぅ、さっぱりした」


 俺が風呂から上がると、愛依はソファーで寝ていた。気疲れしたのかもしれない。

 って言うか、これはビッグチャンス! 心ゆくまで愛依の寝顔を堪能しなければ!


 寝ている愛依と顔の高さが丁度同じになるように、俺はソファーの下で正座して愛依を見つめた。


 ……今日1日で愛依の印象が随分変わった。学校で見せる顔と俺に見せる顔は別人だった。


 ……ほっぺ、プニプニしたら怒られるだろうか? 気付かれないだろうか。

 唇もぷるんぷるんで、なんと言うか……ずっと見ていたいと言うか……悶々するというか。

 ダメだダメだ、このままじゃ性犯罪者になってしまう。落ち着け俺……。


 でも、この状況……どうすればいい?

 愛依は髪も乾かしていないし、このままだと風邪引いちゃうよね?

 起こすべき? それとも掛け布団でも掛けるべき? それとも布団を敷いて運んであげるべき?


 ……でも俺は何も選択できず、ただただ愛依の寝顔を堪能した。

 あんな心ない書き込みはあったけど、愛依はうちの学校の1年ではアイドル的存在だ。その愛依の寝顔を独占できるなんて……めっちゃ優越感だ。


「う……うん」

 やべ、起きた! ガン見がバレる!

 俺は取り繕うようにスマホを手にした。


「……おはよう、疲れてた?」

「ううん、寝たフリよ」

 眠そうな目を擦りながら愛依は答えた。

 ……え……ネタ振り?

「な……なんのネタ?」

 愛依はずいっと顔を近づけてきた。

「ずぅぅぅぅぅぅっと私の寝顔見てたでしょ?」

 バレてる……あっ……そうか、ネタ振りじゃなくて寝たフリか!

「そんなに、ほっぺ……触りたかった?」

 お……おう……そんなことまで。

「い……いやぁ……それはさ、ほら」

「触らせてあげようか?」

「え」

 ま……まじか、ぷにぷにさせてくれるの! そんな夢のような事があっていいの?

「やだ、本気にならないでよ!」


 ですよね。一気に夢から覚めました。

「面目ない……」

「冗談よ!」

 どこまでが冗談なんだろう。

「壮一郎は、私が寝てても変なことしなかったね。ギリギリ合格だね」

 いや本当、ギリギリでした。

「あははは……」

「私、髪乾かしてくるね」

「あ……ああ」

 なんか、愛依……いきなり余裕が出てきたな。

 でも、これから一緒に暮らしていくんだし、ずっとよそよそしくても疲れてしまう。


 ……ていうか、一緒に暮らしていくんだよな……愛依と。

 まるで実感がない。


 とりあえず、リビングに布団を敷いた。

 変な匂いしないかな? 確認するためゴロンとなった。

 大丈夫変な匂いはしない。


 ……昨日の夜はこんなことになるなんて、想像もしていなかった。

 同居人だけでもテンションが上がるのに……愛依みたいな可愛い子だなんて……むしろ愛依だったなんて。


 ドライヤーの音が、急激に俺の眠気をさそった。

 ……まだやらなきゃならないことがあるのに、俺は眠ってしまった。


 同棲初夜は、初夜だと意識することもなく終わった。


 この日のことを、後日めっちゃ後悔したのは言うまでもない。



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