494 誰に似ている
そしてクワイの民たちは不安に満ちていた。
突如として移動する命令を聞かされ、険しい道をほぼ一日かけて踏破した。だが大した休息もなく、開けた場所にただ集まれという命令を受けた。
何が起こるかも定かならず、どよめきと戸惑いだけがあった。せめてものありがたさは今年生まれたばかりの子供は聖職者たちが預かっているということだろうか。子供たちが安らいでいるのなら少しばかり安心できるというものだった。
そうするうちにいつしか聖歌がどこからか聞こえてきた。美しい歌声の主を探すと、円形の舞台がそこにあった。
やがてそこに一人の女性が現れた。
美しい銀の髪をした、女性である。それを見た時、誰もが敬礼を行った。
その少し前。
クワイの民が集まっている場所からわずかに離れたところで、サリは喜色満面の笑みを浮かべていた。ファティと教皇が捕まったと聞いた時からずっとこの様子だった。
「ご機嫌いかがですか。サリ様」
すっと現れたのは美月だった。
「とてもいい気分だわ。今日ここで誰が心の聖女であるかを万人に知らしめることができるのだから」
サリの心は晴天の太陽よりも輝き、前途ある未来を疑っていなかった。
もはや自分を阻むものなどいない。心の底からそう信じ切っていた。
「サリ様。紫水より命令をお伝えいたします」
「何かしら?」
銀の聖女である自分に命令などと不遜だ。そんな心情がわずかに見え隠れする表情だった。
「今日集まったクワイの民に自らが銀の聖女であることを示し――――」
不機嫌な顔は一瞬で上機嫌に変わる。だが次の言葉に表情は驚愕と恐怖で引き攣った。
「すべての信徒と共に自害せよ」
「…………え?」
「聞こえませんでしたか? 自害せよとのお達しです」
「……そ……え……な、何かの間違いじゃ……?」
一瞬でからからに乾いた喉から干からびた声を絞り出す。そんなサリに対して美月は淡々と指令を伝え続ける。
「間違いではありません。自害せよ、そういう命令です」
わなわなと震え、サリは美月につかみかかる。
「う、嘘よ! 私は銀の聖女なのよ!? 銀の聖女に自害を命じるなんて! どういうつもりなの!?」
美月は無表情のまま掴みかかってきたサリの頭を逆につかみ、そのかつらをはぎ取った。サリの赤い髪があらわになる。
「何するの!?」
ヒステリックな金切り声を受けても全く動じない。
「あなたのどこが銀の聖女なんですか? 誰がどう見たって、あなたの髪は赤色ですよ」
その言葉はサリにとって激怒するのに十分な暴言だった。握りこぶしを振り上げる……が。
いつの間にかサリの背後に立っていた久斗に腕を掴まれる。
「ひっ」
弱弱しい悲鳴をあげて激怒から恐怖へと感情の色を変える。美月と久斗は汚いものでも打ち捨てるようにサリを払いのけ、サリは地面に倒れ込んだ。
「どうしました? 無抵抗の信者しか殴れませんか?」
「……」
今度は反論する気力さえない。ただの暴力も、銀の聖女としての権威も、その一切が通用しないと理解できたのだ。
「ど……」
「ど? 何ですか?」
「どうして……?」
「今更説明が必要ですか?」
呆れ切った美月が仕方なさそうに説明を始めた。
「利用価値がなくなるからですよ。今日クワイの民は全員殺します」
「ぜ、全員……?」
「ああ、正確に言うと今年生まれた子供は別ですが。クワイという国家も、セイノス教もエミシには不要という考えです。あなたの利用価値はセイノス教徒を騙すことだけ。もういらなくなります。まさかとは思いますが、あなた、私たちがクワイを存続させると思ってたんですか?」
「……」
サリはまた黙った。そもそもクワイの末路というものに関心がなかったのだろうか。あるいは誰もが自分を崇め讃えていると本気で勘違いしていたのか。
美月にはどうでもよかったのだが。
「で? どうします? ここで死にますか? それとも聖女様らしく自害しますか?」
「…………さい」
絞り出すような声はほとんど聞こえなかった。
「何ですか?」
「助けてください……私は、私は……死ぬのだけは嫌なんです。それだけは嫌なんです。他には、何でもします。だからお願いします……どうか、どうか……」
卑屈な視線と声音ではい回り、遂には足元に縋りついたサリを汚物よりも穢れた物体のように見下す。
「セイノス教徒の連中が穢れだのどうのと言っていたけど……穢れってこういうのなのかしら」
「さあ……僕もわかんないけど……こいつ生きていても死んでいてもどうでもいいと思うよ」
「それには同感」
サリをほとんど無視しつつ、双子は会話を進める。逆にサリも二人の会話が聞こえないかのように、お願いします、どうか、とばかり繰り返している。
はあ、とため息が二つ。
「いいわ。助けてあげる」
ぱあっと顔を明るくさせると今度は礼をまくしたてる。
「ありがとうございます! ありがとうございます! このご恩は一生忘れません」
「いやよ。あんたに覚えられているなんてまっぴらごめんだわ」
「わかりました! すぐに忘れます!」
「「……」」
あまりの手のひら返しの早さに本気で目の前の女の正気を疑い始めた二人だったが、もともとこいつは頭の中が空っぽだったと納得してしまった。
「とりあえずここにいなさい」
「はい! ここにいます!」
あまりの従順さにもうどうでもよくなった二人はさっさと立ち去った。
「それで? どうするの? 銀の聖女役は誰がやるの?」
久斗はこれからの台本をどう実行するのか。それを気にしていた。
「私がやるわ。ううん、私が死ぬ」
ぴたりと足を止める。
「……どうして?」
先ほどのサリと大して変わらないセリフだったがその重さは全く違った。
「私はこれ以上生きちゃいけないのよ。これ以上生きているときっとこの国を滅ぼすわ」
「どうして?」
「私、紫水が好き。でも多分ね。私が好きになるのは、欲しがるのは、自分じゃ手に入らないってわかってるもの」
いつでもそうだった。久斗のおもちゃくらいならまだいい。だが、本気で誰かの心が欲しいと、思ってしまえばそれは止められなかった。
「そのくせ、手に入ればあっさり捨てちゃうのよね。ろくでもないわ」
「姉ちゃんじゃこの国を滅ぼせないと思うよ」
「そうでもないわ。あの銀髪……あ、ファティの方ね。あれを目覚めさせて適当に騙せば紫水は私のことを見てくれる。ここで死ねば紫水は私のことを覚えてくれるかもしれない。そんなことを考えちゃうくらいには私めちゃくちゃなのよ」
手をかざして上空を見る。そこには眩しい太陽が大地を照らしていた。
「そう。じゃあ僕も付き合うよ」
「何言ってんの。あんたは生きなさいよ」
「……」
久斗も天を見上げる。同じものを見る。
「姉ちゃん。生まれ変わりって聞いたことがある?」
「ん、まあね」
質問の意図がわからずに戸惑うが、律義に返答する。
「もしも生まれ変わるなら、なんになりたい?」
「そうね。少なくとも今と同じ生き物だけは嫌。あんな奴らと同じ生き物に産まれたことは心の底から恨んでる」
心底、自分の体を憎むように腕をかきむしる。それほどまでに美月にとってクワイは侮蔑の対象だった。
「僕は……蟻になりたい」
「ああ。いいわね。それ。もしもそうなら――――」
それ以上先は言わなかった。それを言ってしまえば躊躇ってしまうような気がしたから。
「うん。蟻はね。姉妹や子供とも、子供を作っていいんだって」
ぽかんと美月は久斗を眺める。久しぶりに見た弟の横顔は随分大人びて見えた。
「あはは。あんた、私に似てないと思ってたけど、実際はすごく似てたのね。ていうか、あんたもう子供いるでしょ」
「まあね。でも、僕も人の親にはなれないよ。姉ちゃんより隠すのが上手いだけで、僕も今手に入っているものには固執できない質だから」
「そう。やっぱり私たちって、悪人なのね。紫水は悪人はいてもいいって言ってくれたけど……うん、やっぱり駄目だわ。いつか傷つけちゃう」
「そっか。じゃあ、僕だけは死ぬまで姉ちゃんのいい所を覚えておくよ」
「ふふ。短い間だけどね」
また二人は歩き出した。死に場所に向かって。
「我が信徒に告げる! 救いの時は来た!」
銀の聖女の、否、美月の宣言と同時に聖歌が響き、また同時に聖旗の文様が舞台の奥に浮かび上がる。
これだけの奇跡を見て誰がその言葉を疑うのか。
「邪悪なる蟻を討滅し、真に救いがもたらされたのだ! 上を見よ!」
上空からぱらぱらと銀の板切れが降って来る。我先にとそれを奪い合うが、すべての民を満たすほどの数があり、奪い合いはすぐに治まった。
「楽園に旅立つ時は来た! 今こそ自らの意志で扉を開くのだ!」
そうして、美月は自らの額を貫いた。
走馬灯が短い人生を映し出したが、そこにサリやファティは微塵も映らなかった。
歓喜の笑みを浮かべてセイノス教徒たちは楽園へ旅立つ。傍目から見ると異様な光景だった。誰もが笑い、うれし泣きしながら赤いシミに変わっていく。不安も、恐れもない。
子供も、老人も、男も、女も、皆望んで死んでいく。
やがて、この場に立っているのは一人、久斗だけになった。
傍らの姉の死体の手をそっと握る。そのまま、白い光が彼の額を貫いた。
こうしてクワイという国家は完全に滅亡した。当然超常的存在から救いなどもたらされはしなかった。
その理念も、思想も、文化も何ひとつは残さなかった。忘れ去られることが生物にとっての死ならば、クワイ、そしてセイノス教は完全に死に絶えたことになる。ただ一人、サリだけは生き残ったが……もはやあれをクワイの民とも、セイノス教徒とも誰も呼ばず、ただの家畜がごとき扱いを受けたが、彼女だけは天寿を全うした。死に顔は安らかだったという。
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