355 虫かご
戦闘が開始されて十数分。早くもエミシ側は撤退を始めた。
しかしその撤退も緩慢としており、追撃することは容易かった。
「進軍せよ!」
ニムアの檄に従い、逃げ惑う蟻を一方的に蹂躙する騎士団。あまりにも一方的な戦況に騎士団の幹部は若干の違和感を感じていたが、軍の行動とは勢いに任せる面が強い。数万人の行動を逐一管理することなど不可能なのだ。
追撃を続けるうちに遂にこの暗闇でさえも敵の砦が見える距離まで近づいてきた。そして、その門は開け放たれている。
「ニムア様! これは好機です! 今ならばあの砦の中に入れます!」
敗残兵を収容するためにあけられているのだろう。それに乗じて砦に侵入すれば攻め落とせるかもしれない。少なくとも正攻法で壁を打ち破るよりもよほど楽だ。
何かの罠かといぶかる気持ちもあったが、それでも勝利への誘惑には勝てなかった。何よりも兵を止められそうにもなかった。
「突撃せよ! あの砦に正義の裁きを下すのだ!」
雄叫びを上げながら足の速い騎兵が敵兵をなぎ倒しながら道をこじ開ける。傷つき倒れ行く信徒も多いが、今は速度が肝要だ。
そしてついに騎兵は敵を突破し、門の内側に入り込んだ。入れた騎兵はせいぜい数百人。しかし砦は外部からの攻撃には強いが、内部からの攻撃には弱い。あの砦は落とせる。誰もがそう確信した時だった。
ガシャリ、と重い地響きと共に開け放たれた門とは別の巨大な落とし戸によって出入口は閉ざされた。
内部に敵を、そして外部に味方を残したまま。
「な――――!?」
呆然とする騎士団に対して魔物側の動きは素早い。
外側の蟻が辺りの土をかき集めて落とし戸を補強し、またどこからともなく現れた蜘蛛が仕切りのように糸を張り巡らせる。一瞬の間に内側の騎士団と外側の騎士団に分断されてしまった。
「味方を救出するのだ!」
誰かの叫びに呼応して攻撃を再開する。しかし先ほどよりも激しい抵抗により、容易くは進めない。
「……どうやら罠にはめられたようですね」
己の迂闊さを呪うニムアだったが、状況は彼女の予想よりも深刻であることを理解していたのはチャーロだけだった。
「いいえニムア様。罠にはめられたのは騎兵たちだけではありません。騎士団全体が危機に陥っています」
「チャーロ殿? それは一体どういうことですか?」
「以前奴は我々を引き寄せてから偽装した太鼓の音などで突撃させられました。今回も砦を攻めさせるつもりでしょう」
「……ならばどうせよと?」
「……恥を忍んで言います。ここは撤退してください」
ニムアの側近がチャーロの胸倉をつかんで怒鳴りかける。
「貴様それでもセイノス教徒か! 仲間を見捨て、魔物から逃げるなど恥知らずにもほどがある!」
チャーロ自身もそう思う。だがそれでも決定的な敗北だけは避けねばならない。今回は聖女様の助けはないのだから。
「よせ! チャーロ殿は我々の身を案じているのだ」
ニムアの声によってようやく側近は手を放す。それでもとげとげしい視線はチャーロに突き刺さっている。
「だが私だけが逃げ出すわけにはいかん。わかるだろうチャーロ殿」
わかっているとも。ここで逃げ出せば、味方を見捨てた大司教の権威は失墜する。チャーロとしては願ってもない事態だが……実のところチャーロはニムアのことが嫌いではなかった。
頭を切り替え、チャーロの意見を聞き入れるだけの度量を持っているのだ。少なくとも品性が下劣ではない。
つまりは、ニムアに死んでほしいとは思っていないのだ。
「……ではせめて周囲の偵察を増やしましょう」
「了解した」
チャーロにできることは不意の奇襲を防ぎ、敗北が濃厚になればしかるべき処置を行うことだけだった。
場面は砦の内部。そこに突入した騎兵は突入からわずか数分で全滅していた。
「ご苦労様七海」
「取り立てて苦労無し」
何事もなかったかのように淡々とした報告。こういうところは嫌いじゃない。
突入してきた騎兵を倒したやり方は単純だ。城の作りとして内部に侵入した兵隊を進みにくくさせるような構造にしておいて、袋小路になった場所にトウガラシスプレーを海老の魔法で噴霧する。
相手の目を潰したところで蜘蛛の投網やら弓矢でぼこぼこにする。あらかじめ侵入されることがわかっている敵なんかこんなものだ。
さてこれでシュレーディンガーの人質が完成だ。敵が内部に再び侵入してくるまで騎兵の安否は確認できない。見捨てて逃げられたら厄介だったけど……そんな様子はない。
「後はアンティ同盟の到着まで粘ればいい」
「承知」
やっぱり気に入ってんのかな?
……にしても去年のオレたちが食い止めている間にアンティ同盟が奇襲するという戦術が実行されるとはな。何がおこるかわからん。
いよいよ足元さえはっきりと見えなくなった夜闇を照らすように松明を掲げるクワイの騎兵。彼女らの任務は周囲の探索、偵察。
地味な仕事だがそれなりに張り切ってはいた。しかしその程度の警戒では足りないことにまだ気づいていない。
「……ん? 今何か動かなかったか?」
馬首を巡らせ、地面を松明で照らす。そこにいる何かと目が合う。暗がりにおいて細長い何かが動いたことを感じ、何かが刺さったような鋭い痛みが走ると騎兵は絶命していた。
戦ったことさえ認識していない。
「ふ、笛を――――」
敵の発見を知らせる笛を吹け。そう言おうとした偵察の隊長は、自分以外の味方がすでに倒れていることに遅まきながら気付いた。
そして隊長もすぐに後を追う。叫び声すらほとんどあげさせずに偵察兵を仕留めた魔物の正体は蛇蝎。
サソリの体と蛇のような尻尾を持ち、わずかでも傷つけた相手の心臓を破裂させる一撃必殺の魔法の使い手。例えどれほど熟達の暗殺者でもこれほど見事な手並みは拝見できまい。
「結構な仕事です。サソリの方々」
「そうか」
一仕事終えた感慨もなく、すぐさま後退していく。サソリの魔法は強力だが一度使うとしばらく使えない。これからの戦闘ではあまり役に立てないが、それで構わない。サソリの役割は露払いだ。
「エミシの方々には負けた方がよいと進言いたしましたが……ええこれでよかったのかもしれませんな。去年の雪辱をここで果たすと致しましょう」
暗闇にごくわずかな光を反射して数多の瞳が蠢いていた。怒りと死を運ぶ、群れが。
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