356 シュレディンガーの命
戦況は数日前の状況に逆戻りしていた。砦攻めを行う騎士団と、砦を守る蟻たち。
蟻は先ほどの奇襲で一部は戦闘不能に陥っていたが、騎士団もまたこれまでの戦いで数を減らしている。どちらも決定打に欠けていた。
しかしその戦況を変えなければならない情報がもたらされた。
「チャーロ様。偵察に出ていた兵の一部が戻りません」」
報告を聞いたチャーロの決断は迅速を極めた。偵察の役割は敵の所在を確かめること。帰ってこないという結果によってその任務を果たした。それはつまり偵察を帰らせない戦力が存在していることを意味する。
まずニムアの側近に話をつけ、その次にニムア自身に進言する。
「ニムア様。偵察が戻ってきていません。敵が近づいています。一刻の猶予もありません。直ちに撤退の準備を」
「チャーロ殿……私は残る。せめてあなた方が逃げる時間を……」
側近と目配せをする。
「ニムア様。失礼します」
背後から忍び寄った側近がニムアに猿轡を噛ませ、縛る。まことに無礼極まりない行為だが、もはやこうするしかない。ニムアにはありとあらゆる意味で死んでもらっては困るのだ。個人的な心情としても、誰かが責任を取らなければならないという意味でも。
暴れるニムアを強引に運ぼうとした瞬間、辺りが光に包まれる。
真昼のような輝きに思わず目を閉じると、何かが通り過ぎた気配を感じ、眼が慣れるころには今までそこにいたはずの縛られたニムアがいなくなっていた。
「ニ、ニムア様はどこだ!?」
必死で目を凝らすがこの暗闇では判然としない。
そこで甲高い、何かの叫びが頭上から聞こえてくる。
「上だ! 頭上に魔物がいる! ニムア様を連れ去ったのだ!」
周囲の側近を無視してニムアを連れ去る方法はそれしかない。
「ニムア様を返せ! 野蛮な魔物よ!」
頭上の魔物に向かって<光弾>を放つが夜空を飛ぶ魔物にどうすることもできない。これほどまでに翼があればよいと思ったこともない。魔物は鳴き声を上げながらゆっくりと砦の方向へと飛び去り、その影が砦に降り立った。
(くそ! あの蟻……まさか草原(トゥッチェ)に住む鷲まで配下に収めているのか!? いや、それよりも……この状況はまずい。指揮官がいない。死亡ではなく連れ去られたのはまずい!)
チャーロの予想通り側近たちは慌てふためき、戸惑っている。さらにどうやら配下の信徒たちにもニムアが連れ去られたという会話を聞いていたらしく、動揺している。
この状況で撤退など言い出せるはずもない。彼女らはニムアの部下であってチャーロの部下ではないのだ。
もはや覚悟を決める時だ。
「謹んで申し上げる!」
声を張り上げる。一斉に視線がチャーロに集中する。
「謹んで申し上げる! 我々はニムア様を取り戻さねばならない! あの御方は我々にとってかけがえのない御方だ! 各々方は砦を攻められよ! 私は周囲の敵を駆逐する!」
もちろん周囲の敵を発見したわけではない。チャーロはいると確信しているが、側近たちを納得させるためにはこう言うしかない。
そしてなるべく単純で、側近の願望に適う指示でなければ従わないだろう。目的を明確にするのだ。そして迅速に行動しなくてはならない。迷っている暇はない。
「おおおお!!」
チャーロの読み通り、明確な目的を与えられた、兵と側近は息を吹き返したように動き出す。願わくばその勢いがあの敵にも通じますように。
「我々は敵の奇襲に備える!」
自身の騎兵を引き連れ、偵察がいなくなった場所へ向かう。
せめて、せめてニムアの生死がはっきりしていれば別のやり方もあったものを――――。そう考えている自分がいることに愕然とする。
(大司教の死を願うなど……不信心と罵られてもしょうがないな)
心の中で自嘲しながらまだ見ぬ敵を探しに行く。
「おーし、連れて来てくれたかケーロイ」
「おう! いやいや、リャキらが目を眩ませてくれたおかげで楽に片が付いた!」
「しかり。宵闇を切り裂くことこそ我が宿業」
鷲の族長の一人、ケーロイと、ライガーの長、リャキのコンビプレイによって一番偉そうなヒトモドキを見事に誘拐してくれた。光の魔法と飛行魔物のコンボはなかなか強力だ。
ライガーはヒトモドキたちが砦に迫る直前にぎりぎりで砦にたどり着いてくれた。どうもアンティ同盟はアンティ同盟で騎士団の動向を見張っていたらしい。だからこそ迅速な行動ができているようだ。それでも動員できた兵力はせいぜい四千。ま、単純な数じゃ決まらないけどな。
「しかし、よかったのか? こやつが長なのだろう? 長を殺してしまえば奴らは逃げるのでは?」
「いや、いいんだよ。あいつらはまだこいつが死んでないと思っているはずだ」
ケーロイが運んできたニムアはすでに死亡している。というか空中でケーロイが縊り殺した。どうも無理矢理ニムアを逃がそうとしていたようで、ニムアを拘束していた。だからこそうまくいったのはいっそ皮肉だな。
それは逆に部下にとってもニムアは重要人物であるはずだ。意に反して逃がそうとするくらいには。
「こいつらは放っておくと自殺するからな。騎士団の目の前で自害でもされたらあいつらがどう行動するかよくわからん」
多分義憤に駆られてこっちに突撃するだろう。でももしも冷静な奴がいればそいつが指揮権を握ってさっさと逃げるはずだ。
ヒトモドキを生きたまま人質にするのは難しい。しかし、生きているのか死んでいるのかわからない状態なら、助けるしかない。セイノス教徒とやら高位の聖職者を大事にするみたいだからな。いやいや。なかなか忠実な飼い犬をお持ちじゃないか。
「では我らの本隊が到着するまでここを……ほう? どうやら本隊に向かっている敵がおるようだな」
かがり火をともしながらアンティ同盟の方角へ騎士団の一部が向かっていく。
「そうみたいだな。全員騎兵だ。大丈夫か?」
「なあに、あの程度なら心配いらんさ」
ケーロイは泰然としたままだ。
ふむ。背後をとられないためだろうけど、これはどう見ても戦力の分散。つまり下策。下策をしなければならなくなるくらいには追いつめているということか。
ゆっくりと待ってもよさそうだな。
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