353 魔性の夜

 夕焼けが地平線を赤く染め上げるころ。騎士団は茂みにたどり着いた。

 その表情は暗く、誰もが疲労困憊としていた。

 自分たちは勝利するのだと信じて疑っていなかった。教都チャンガンから出立し、あるいは進路上の町や村で騎士団に加わるように命じられた時は輝かしい未来を信じていた。しかし現実はろくに戦うことさえできず、仇も取れない。

 みじめで無残だった。空腹のせいで足元もおぼつかない。本音を言えば誰もが戻って戦いたかったが騎士団長の命令には逆らえない。

 たとえ体が粉微塵になろうとも信仰は朽ち果てぬと証明しなければならないのだ。

 だがそれはもはや叶わぬ夢。いっそのこと楽園で見守る神に不甲斐ないこの身を罰して欲しいとさえ思っていたのだ。

 しかし、そんな彼女らは一枚の紙きれを見せられた。そこには、

『誰もしゃべってはならぬ。耳聡い悪魔が聞いているかもしれぬ』

 そう書かれていた。驚愕と混乱よりも先にコップ一杯の水と日持ちする食べ物が配られる。

 お互いに顔を見合わせながらも静かに、そして今までの空腹を物語るように素早く食べ始める。

 人心地ついたところでどこからか指揮官が現れ、隊列を組みなおしていく。それらの行動はほとんど無言で行われた。悪魔という単語が彼女らの口に固くかんぬきをかけていた。

 そして隊列を組むうちに気付いた。この方角はあの忌々しい蟻どもがいる砦の方角だと。彼女らは我知らず獰猛な笑みを浮かべていた。


 ひっそりと静まっている陣内でチャーロとニムアが密やかに会話を交わす。

「まさか茂みに食料を隠すとは……それほどまでに警戒せねばならない相手なのですか?」

「はい、ニムア様。敵は悪魔の知恵を借りています。一兵卒の動きからでさえこちらの動向を予測するでしょう。あの悪魔を撃ち滅ぼしたくば思考と行動を分離させるのです」

 チャーロは今までの経験上から方法はわからないが敵はこちらの位置や状況を把握するすべを持っていると推測していた。

 それに対する対抗策として進路上にある茂みに食料を隠し、敵に食料がなくなったため撤退したと勘違いさせる作戦をたてた。さらにできるだけ静かに行動させるために悪魔の名を出した。

「さらに敵は砦から出撃したとの報告を受けています。これなら戦いになるでしょう」

 この作戦がうまくいっているのならば、敵は追撃の部隊を砦から出撃させるかもしれないと踏んでいたが……その予想は的中した。

 今ならば砦を攻撃せずに敵に打撃を与えられる。

「チャーロ殿。まさにあなたこそ至高の英知の持ち主です」

 ニムアは恭しささえ感じられる仕草で敬礼した。

 だがチャーロはニムアにまだ言っていないことがある。敵は蟻だけではない。

 昨日トゥッチェの民が複数の足跡を発見した。それは普段からトゥッチェの民が戦っている魔物の群れだった。恐らくは蟻と戦い、疲れ果てた我々を襲うつもりだろうとチャーロは予想していた。

 つまり、蟻の討伐という目的を果たしつつ、敗北することができる。それでいて不慮の事故であるのだから誰かに責任が押し付けられることもない。チャーロとしては願ってもない状況だった。チャーロ自身ニムアを嫌っているわけではないのだ。この方法なら傷つく人間を抑えられるはずだたった。

「すべては蟻を倒してからです」

 無言でニムアはうなずく。静かな行軍が始まろうとしていた。すでに日は落ちようとしている。これから夜襲を仕掛けるのだ。




 我らがエミシにおいて、夜襲を警戒したことはあまりない。

 より正確に言うと全体的に夜目が利くので夜に特別警戒したりする必要がない。さらに言えば女王蟻の探知能力やラプトルのエコーロケーションなど夜でも関係なく効果を発揮する感覚器官が発達しているので夜戦は有利になる、というのが定説だ。特にヒトモドキは少なくとも魔物基準では夜目が利かない。恐らくそれは遊牧民も理解しているはずだから夜襲はないと予想していた。

 だからこそ、突然敵が迫っていると知った時は少しだけ慌ててしまった。


「状況は?」

 砦から指揮をしている七海に確認する。

「敵部隊距離五百メートルほど。ただし明らかに隠密行動している」

 隠密行動? 感覚共有をしてみると確かに静かに、ひっそりと大部隊が移動している。なるほど。奴らの狙いは奇襲かつ夜襲か。……まあもうすでにばれてしまっているから意味がないけど。

「紫水。どうしますか?」

「どうって、そりゃ迎撃するしかないだろ」

「ですがこれはちょうどいい状況ではないですか?」

「……それもそうか」

 確かにこれは非常に都合のいい状況だ。喧嘩を売らなくてもわざわざ向こうが来てくれたのだ。奇襲で総崩れになったふりをすれば敵は疑わないだろう。

 ……ただ気になるのは敵の戦い方が明らかに変わったこと。明らかに正面からの戦いにこだわっていない。指揮官が変わったのか?

 ……むう。しかし思考を巡らせる時間はない。ゆっくりと移動していた敵軍の速度が上がった。後一分もしないうちに接敵する。

「七海。逃亡準備しつつそのまま戦わせろ」

「委細承知」

 七海は承知っていう言葉を気に入ってるのか? とはいえ今回の戦いで初めての会戦になりそうだった。




 ひっそりと進んでいた部隊は溜めに溜めた力を解放するかのように一気に走り出す。

 鬨の声をあげることは禁じたものの、大地を踏みしめる音はとても響く。ここからは時間との勝負だ。いかに迅速に敵を突破し、目的を果たすか。

 騎兵が見張りらしき蟻を無視して通り抜ける。追いすがろうとした敵を歩兵が止める。

 騎兵の手に握られているのは布と陶器で隠した小さな種火。早駆けの最中だと言うのに器用に種火を拡大し、松明にする。

 そしてそれを、敵の天幕めがけて投げつけた。


「……本来ならば悪魔の知恵によって作られた穢れた武器は神秘によって砕かねばならないのですが……」

 セイノス教徒にとって穢れはとにかく忌避すべきものだ。その穢れを払う効果的な方法は神秘、特に<光剣>によって砕くことだと聖典に書かれている。本来なら燃やしてしまうべきではないのだ。

「ですがあの悪魔は火に弱い、そう判断された事例があるそうではないですか」

 これはアグルが独自に調べた結果だが、かつてとある魔物にとりついた悪魔は火によって退散した。そしてその悪魔は今回の蟻にとりついた悪魔であるかもしれない、そう結論付けていた。

 本来の黒い色をした蟻ではなく、体の色を灰色に変えており、敵を罠にはめる狡猾さがある、などの特徴が一致していた。

 よって火によってまず掃討する。それが最初の方針だった。

 チャーロとしてもセイノス教に則り、かつ効果的な戦術が行えるならなんの不満もない。

 こうして敵を混乱させ、あぶり出し、仕留める。これこそチャーロがアグルと話し合って決めた作戦。

 ただし、誰にとっても誤算だった事実が一つある。


「うげ!? あいつら放火してきやがった!? 避難は間に合うか?」

「何とか」

 基本的に力押しが好きなヒトモドキにしては結構策を練ってきている。

 外の守りを無視して強引に騎兵で突破して中に侵入してきた。万全の守りを敷いていればこうならなかったかもしれないけれど、適度に負けるふりを……。

 ……ん? あれ?

 何か忘れてないか? 火? 燃えるだろ? 何か燃やしちゃダメなものが……あ。

 この部隊には念のために秘密兵器を持たせてある。銀髪と合流する前に敵を倒す必要があったなら使うつもりだった。

 必要なくなったとはいえわざわざ砦に保管しに戻る必要はないと思っていた。

 そう。今まさに燃え盛る天幕の中には秘密兵器であるダイナマイトが保管されている。

「全員逃げろ――――!!!!」

 オレが叫んだ次の瞬間には目がくらむ閃光と耳が割れるような轟音が響いた。

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