352 人違い

 駕籠を運ぶ優秀な駕籠者が腰を落とすのは駕籠が止まる間だけである。

 そう言われるほどよく歩き、よく走る駕籠者はそう多くない。しかしこの駕籠を運ぶ駕籠者たちはまさにそのような駕籠者だったらしく、久々の休息の時を味わっていた。その事実からもこの駕籠に乗る人物がひとかどの人物であることは察せられよう。

 その駕籠に乗っているのは銀の聖女――――ではなく、教皇の御子にして巡察師であるタストであった。

 実はエミシ側はタストが乗っている駕籠に銀の聖女が乗っているのではないかと勘違いしていたのだ。

 そのタストは村や町を巡り、魔物について調べていた。そこでようやく気付いた。

 自分はあまりにも魔物について無知であると。


 ある場所では農作業を行わせていた。またある場所では木を切らせていた。

 ある場所では――――親姉妹が魔物に殺されたので仇を討った。それそのものは咎められるべきではないかもしれない。しかし、よくよく聞くと人間側に責任があることの方が多かった。

 ただし、セイノス教徒にとって魔物は知性などなくただただ人に害をなす愚かで哀れな生き物でしかなかったのだ。

 そのセイノス教というフィルターを取り払えることができるタストだからこそ、そんな少し考えればわかる事実に今更気付いてしまった。

 そして今まさに籠の中でトゥッチェの民である、蟻と直接矛を交えた女性に話を聞いていた。


「……では蟻は聖典を投げてきたのですね?」

「ええ。間違いありません。どこから盗んだのかはわかりませんが……あんなものは聖典に対する最大の冒涜です。我々は不甲斐なくも敗れ去りましたが……今度こそ我々が奴らの息の根を止めてみせましょう」

「……」

 タストは黙して考える。

 聖典を投げる、という行為にどんな意味があるのだろうか。確実な回答はない。しかし……何らかの意思疎通を試みていたのではないだろうか。言葉も文字もわからない。セイノス教徒は魔物を見かければ撃ち滅ぼすように教えられている。ならばとりあえず大事そうなものを投げた、のではなく返却したつもりだったのではないだろうか。

(だとすると……やっぱり蟻に転生した地球人は争いを望んでいない。今なら……今ならまだ間に合う。この戦いを止められるかもしれない。早く草原トゥッチェに行かないと)

 タストの思考はとにかく不毛な争いを止める、という方向に向かっていた。地球人、あるいは日本人としてはなんらおかしくない思考回路だったかもしれない。

 しかし致命的に間違えているのは別に彼――――蟻の転生者が戦いを厭うているわけではないということだ。面倒だから嫌だ、なるべく味方から犠牲者を出したくない、という思考はあるが誰も死なない方がいいなどとは微塵も思っていないのだ。

 自身の障害は徹底して排除する。それが彼の基本方針であり、そのためならば手段は択ばない。

 それは今まさに証明された。


 衝撃が駕籠を襲う。ぐらりと傾いだ駕籠につかまったタストと同乗者は慌てて駕籠につかまる。

「な、なんだ!? どうした!?」

「タスト様! 魔物の襲撃です! 今駕籠を出しま――――ぐわ!?」

「どうかしましたか!?」

 駕籠者の叫びを最後に、騒動どころか戦闘の音が駕籠の中にも伝わってくる。

「タスト様! すぐに外に出ましょう! ここは危険です!」

 流石は実戦に慣れたトゥッチェの民だろう。慌てることも騒ぐこともなく冷静に避難を促す。

 外に飛び出るとまさに地獄絵図だった。

(ラ、ライオン……いや、虎!?)

 ライオンの顔をした虎、大型のネコ科が混じり合ったような生き物が人々を襲っていた。不運だったのは町から離れた場所で話しをしていたことだ。たまたま近くの町まで食料などの買い付けに来たトゥッチェの民と出会っただけなので場所を選べなかったのだ。

 初めて間近で襲いかかって来る魔物を見た。

 恐怖で身がすくむ。手が震える。心臓が爆発しそうだ。

 背後から何かに押されて膝をつく。後ろを振り向くと駕籠者が倒れていた。

「ひっ!?!?」

 体のどこから出ているのかわからない悲鳴を出してどこかへと走り出す。どこに向かっているかなどわからない。ただパニックになって走るだけの逃走とさえ呼べない走り。

 後ろから何か大きなものが迫ってくる音がする。

 振り向くな。自分自身にそう言い聞かせているのにもかかわらず、首は勝手に後ろを向く。そこには顔面に迫る大きな爪が――――。




「……人違いだったな」

 なんとも微妙な空気になってしまった部屋の中で会話を続ける。

 珍しく実際に会って話しているのは千尋だ。

「……そうなると銀髪はまだ高原にはおらんのかのう」

「多分そうじゃないかなあ。うーん。考えすぎだったか」

 アンティ同盟に頼んで(例によって食料を要求された)怪しい駕籠を攻撃してもらったけど出てきたのはただの男と遊牧民らしき女。女はさくっと仕留めて、男の方はライガーの一撃で昏倒した。

 トドメをさしてもいいけど……人違いで殺されるのはちょっと不憫だ。

「とりあえず撤退させるか」

 でもこれで安心して騎士団の攻略に動ける。念のために持たせておいた秘密兵器を使う必要もないだろう。適当に戦って適当に負ければいいだけだ。

「負けていいから気楽なもんだ」

「とはいえ味方の損害はなるべく避けねばならんがな」

 それもまあ千尋の言う通り。……誰も文句言わないけどこれって兵士に負けて死ねって言ってるようなもんだからなあ。今更ながらよくついてきてくれてるよ。

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