293 神の来臨
疲れ切り、微睡んでいたラクリは夜泣きする赤子の声によって意識を現実に引き戻した。
「お乳かしら」
先日出産したばかりの赤子はラオでは吉兆とされる双子だった。だがもちろん喜んでばかりもいられず、すぐに赤子の世話と日々の聖職者としての責務を果たさなければならない多忙な日々を過ごすことになった。
育児など男にやらせておけばよいのだが、乳を与えることだけは女がやらなければならない。手間ではあるものの、これもまた敬虔なるセイノス教徒としての責務と断じて目をこすりながらいつまでも泣き止まない赤子が二人いる部屋へと向かう。
「これは、ラクリ様。申し訳ありません。どうやら乳が必要なようです」
赤子をあやしていた二人の男性のうち一人がそっと片方の赤子をラクリに渡す。ラクリはそのまま授乳を始めた。
「こっちの子は上手に飲むわね」
双子の内、女の子はよく飲み、よく眠る健康的な女の子だったのだが、男の子はあまり乳を上手に飲まなかったので時折不安を感じていた。
「ラクリ様は子供がお好きなのですか?」
「そうね。子供は好きよ」
乳を飲むためにおとなしくなった女の子に対して、男の子はまだ泣き止まない。この二人は糸で繋がっているように、片方が泣けば、もう片方も泣く、ということが珍しくなかった。
「だって、子供の内からティキーお姉さまの為に働く喜びを教えておけば、一生ティキーお姉さまに尽くすでしょうから。この子たちにもそれをきちんと教えないといけません」
「ティキー様とはそれほどまでに偉大な御方なのですか?」
「もちろん。銀の聖女様も素晴らしいお方ですけれど、ティキーお姉さまは本来王族にあらせられる偉大な御方です。言葉にする必要などありません」
ここでもしも具体的にどこがどう素晴らしいのか、詳しく聞いておけばラクリがただ素晴らしい、美しい、あるいは敬虔な信徒であるとしか答えないことに気付いたはずである。
ラクリにとってティキーたちは無条件の忠誠を誓う相手であり、一旦そうである定めてしまえば相手の思考や思想などを一切考慮しない。そうあれかし、と育てられたにせよ、相手の感情や人物観察が全くの一方通行だったことに気付いていない。
それはティキーにとっても誤算だったのだろう。彼女にとって無条件の奉仕とはこの世に存在しない妄想の産物であると心中で断言しているが、まさにそれを具現した存在であるラクリが常に側に控えているとは想像もしていなかった。
何にせよ、この育児にいそしむ男達とラクリの会話は打ち切られた。
外の騒ぎがここにまで伝わってきた。どたどたと走り回る足音からただ事ではないと察せられた。
「ラクリ様!
「そんなことができるはずはありません! 私も直ちに戦いに加わります!」
制止の声も聞かずにそのまま外に飛び出すラクリ。
関内部の混乱は深刻で、かろうじて抵抗できているという状況だった。窮状を打破するために自らが<光剣>を振るおうとした矢先、異変が起こった。
突如として他の魔物が、夜闇に紛れて現れた。だがしかし、その魔物は信徒に一切触れることなく
「ラ、ラクリ様……これは一体……?」
いつの間にか隣に来ていた育児をしていた男が狼狽した様子でラクリに声をかけるが、ラクリ自身も答えようがない。
やがて
そこではいまだに他の魔物、おそらくは蟻や竜が、
「何をするつもり……?」
関の住人を代表した言葉をラクリがつぶやくが、その答えは誰も持っていない――――否。
その問いに対する答えはどこからともなく発せられた。
「我が愛しき子らよ。私の声が聞こえるか?」
子供のような、大人のような、さりとて男でも女でもない不可思議な声が関の住人全てに響いていた。
答えを求める問いかけだったが、集団心理というものは時に行動を消極的な方向へと導く。要するに、『え、これオレが答えていいの?』となるわけだ。
では最も答えるのにふさわしい人物となると、ここではこの関の中心人物になる。つまり、一斉にラクリに視線が集中した。
「き、聞こえます」
うろたえながらそれでも胸を張って答ええる。未知の物を前にしてもひるまないのは彼女の美徳とも呼べるだろう。単にやけになっているだけなのかもしれないが。
「よろしい。ならば問おう。汝は敬虔なる信徒か?」
「もちろんです。私はいついかなる時でも神と救世主の教えを信じ、日々を慎ましやかに生きています」
ラクリの返答からやや時間がたつ。
その間、関の住人は不安にさいなまれていたが、いずこから発せられる声は再び届いた。
「この集落は今危機に瀕している。先の
困惑と不安の混じったざわめきが暗闇に広がっていく。
「真ですか!? 我々は、どうすれば!?」
「まずはその場で体を休めるがよい。その間カンガルーの攻撃は我々が防ごう。だが、いずれ来る破滅を避けるためには私の導く場所へと避難しなければならぬ」
よりいっそうの大きなざわめきが広がる。破滅と聞いて平静ではいられないらしい。
が、同時に疑いの心もやはり存在する。
「あなたは、いえ、あなた様は一体どなたなのですか!?」
再びの長い沈黙。しかし声はまだ終わらない。
「私は、そなたたちがよく知り、また未だ目にすることが叶わぬものである」
ざわざわと興奮と猜疑が混じる声が大きくなる。ラクリもあまりの衝撃に言葉を失う。
「だが、信じられぬのも無理はない。故に私が私である証をここに示そう」
そうして彼女らの耳に聞こえてきたのは何らかの歌だった。頭に響く声ではなく、空気を振るわせて楽器によって奏でられている。
「これは……聖歌……?」
ラクリにとっては慣れ親しんだ音楽だったが、他の住人には今一つなじみがなかった。
だが、次の光景には誰もが目を見開くことになる。
蟻が作った壁が光っていた。ただ光っているのではない。その光には文様があった。そう、誰もが見知っている、しかし実物はラクリ以外見たことがない文様。
聖旗に描かれている文様がその壁には映し出されていた。
セイノス教徒にとってもっとも貴い模様がそこにあるのだ。
「き、奇跡だ! これこそ神の奇跡だ!」
一斉に壁を崇めるもの、最敬礼を行うもの、ただひたすらに祈るもの、反応は様々だったが、ごく一部の例外を除いて畏れ敬っていた。
興奮の度が過ぎたのか、誰かが篝火を倒してしまう。辺りに燃え移らなかったものの、すぐに消火するために土をかけようとするが……。
「待て!」
突如響いた制止の声に動きを止めた。
「これを使え」
そう声が聞こえると、上空から何やら布がぱさりと舞い降りた。
「これは神秘によって編まれた布であり、決して燃えることがない。これを火にかぶせるがよい」
恐る恐る布を手に取り、言われた通りに火にかぶせる。
そうすると、火はたちまち消えてしまった。
また再び感動の輪が広がる。
「さらに汝らにはこれを授ける。これこそ我が至宝なり」
天空からばらばらと丸く平べったい何かが降り注ぐ。おそるおそるそれを住人が手に取ると……。
「こ、これは、銀!? あの御方の御髪と同じ色の、丸い板!?」
丸い板を最初に手に取った男は一瞬で気絶した。その他の住人は畏敬のあまり触れることすらできない。
「これでわかったであろう。汝らが賢明な判断を行うことを願う」
そう言うと関には静寂のとばりが降りた。
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