272 返しのない釣り針

 敗走。

 まさしくその二文字がふさわしい醜態を演じながらもまだ目は死んでいない。例え土に塗れていても真に心が折れない限りは戦えると信じるがゆえに。それがトゥッチェの民の誇りだった。

 族長とチャーロが角馬を走らせながら会話する。揺れる馬上でも不自由なく会話できるのは彼女らが乗り手

 として優秀な証だろう。

「チャーロ。前方の指揮は任せます」

「いいえ。私が後方の指揮をとります」

 撤退戦でもっとも危険なのは敵の攻撃が迫ってくる殿だ。ここまで戦列が崩れれば敵に抗するのは甚だ困難で、殿を務めることは死と同じ意味を持つ。

「いけません。私はこの場を切り抜けたところで失墜は避けられません。貴女には族長の失態を挽回し、この場を切り抜けたという実績を重ねてもらいます」

 それはつまり次の族長を選び、今の族長は消えるべきという判断を下したということだ。

 チャーロは言葉を失う。そして族長はそっとこう告げた。

「子供たちを頼みます。あの子たちはあなたになついている。サイシーはしっかりしていますが、ウェングはどうにも危なっかしい」

 ほんの少し族長はさみしそうな、それでいて優し気な顔を見せたが、すぐに顔を引き締め、大声で叫んだ。

「皆の者! これよりチャーロの指揮に従い、野営地に迎え! 私は殿の指揮を務める!」

 おおお!

 周囲の味方が一斉に雄たけびを上げて自らと軍を鼓舞する。だがいささか覇気にかけており、空元気のようなものを感じるがそれでもないよりはましなのだろう。

 チャーロは一部の側近を伴い先頭から離脱する族長の馬影を目で追うが、すぐに前を向き次の展開を予想し始めていた。


 族長はもっとも後方にいて遅れている部隊、馬を失った歩兵に声をかける。

「皆の者! これより我々は殿を務め、味方を逃がすための時間を稼ぐ! この行いは正しく、必ずや神もご覧になるであろう!」

 神、という単語に俯いていた顔を上げた信徒は多い。彼女らにとって神という言葉は疲労と恐怖を吹き飛ばすのだ。

「歩兵はこのままゆっくりと退却しなさい。騎兵は私と共に林に潜みます。敵が歩兵に襲いかかったところで騎兵が突撃します。それに合わせて歩兵は反転攻勢を行いなさい」

 ざっくりとした指示だが現状で複雑な作戦など望むべくもない。一発逆転に賭けるしかないのだ。

 幸運にも一軍を隠せるほどの林を見つけたのでそこに騎兵を隠す。後は歩兵が上手く敵を誘えるかどうかだ。

 潜む族長の耳に行軍の音が聞こえる。ぐっと力を込める。ここで少しでも時間を稼げれば本隊が逃げられる可能性が高まる。

 心臓の鼓動がその時を待ちきれないように高鳴り、今にも敵軍が歩兵の後背を衝こうとしたその時、頭上に何かが降り注いだ。

 呆けた顔をしながら味方が倒れ伏す姿を眺め、ようやく正気に戻った信徒の誰かが叫んだ。

「て、敵襲だ! 背後にいるぞ!」

「敵に回り込まれたのか!? 何故場所が――――いやどうでもいい。反転せよ! 崩れてはならん!」

「ぞ、族長! 歩兵を襲おうとしていた敵が、こちらに向かってきます!」

「――――」

 戦場の熱気に中てられているのにもかかわらず薄ら寒い怖気が背中を駆ける。何故だ? 何故、包囲するはずが逆に包囲されている。

「何故――――」

 疑問が形になるよりも先に族長の胸を矢が貫いた。




「将軍、殲滅完了しました」

 翼は部下からの報告を聞くと同時に次の指示を飛ばす。

「ご苦労。では歩兵には白鹿を百ほどあててください。黒服がいなければどうとでもなるでしょう」

 末席とはいえ聖職者である修道士は生き延びるよう優先されていたのか、歩兵には加わっていない。聖職者が祈りを捧げなければ傷つけられない白鹿が負けるはずもない。

「素晴らしい差配でした」

「いえ、これは王の差配です。王はあらかじめこの戦術を予想しておいででした」

「なんと……」

「王から教授された戦術のひとつである釣り野伏せ、という戦術に似ています。本来なら両翼から歩兵を攻撃する部隊を挟撃する戦術ですが、この急場ではあれが精一杯でしょう」

「こちらのは女王蟻の皆様の探知もありますからあのような伏兵などなんの意味もないでしょうに」

「ええ。ですが奴らはそれを知りません。我らの能力と、我らがすでにだということさえ知りません」

 これならむしろ全軍で反転して攻撃された方が厄介だっただろうが、軍隊とはそんな簡単に方向転換できる代物ではない。一度手痛い反撃にあっているのだからなおさらだ。

「このまま追撃します。別動隊が敵の足を鈍らせている間になるべく近づきましょう」




 そのころ別動隊は――――焚火をしていた。

 今にも遊牧民の本隊が迫っている状況では呑気に見えるかもしれない。いや、実際に遊牧民は怪訝な顔をしながらも侮ってはいただろう。その煙が届くまでは。


「チャ、チャーロ様!? この煙は!?」

「わかりませんが、むやみに吸ってはいけません!」

 その煙はひりひりと目や口にしみた。無理をすれば耐えられないわけではないが、このまま戦うのは難しいだろう。

「煙に構うな! そのまま進め! 一人でも多く野営地まで進みなさい!」

 複雑な指示よりも力強くわかりやすい指示の方がこの難局を打破する力になる。そう信じて肺が破けるほどに声を張り上げる。

 前方には煙。先ほどのように何かを燃やした煙ではなく、土煙だった。

(今度は何をするつもりだ……?)

 受け身になっていることを自覚しながらも状況を変えられないもどかしさに唇を噛む。

 さらに何かが破裂する音。土煙を吹き飛ばすように衝撃と風が吹き荒れる。

「こ、これは!?」

「お、落ち着け!?」

 聞いたことのない音に味方、特に馬が動揺する。

「足を止めるな! 進め!」

 動きの止まった騎兵などただの的でしかない。しかしチャーロでさえも混乱のさなかにある。

 せめてどんなことが起きても目を逸らさない覚悟だけは持っていた。




「効きがイマイチだなあ。でもまあちょっとくらいは足止めになるかな」

 今出させた煙は辛生姜を焼いた煙だ。トウガラシスプレーのようにカプサイシンをばら撒いて敵の目を傷めつける兵器だ。クロロアセトンでも使えればよかったけど……どうにも化学薬品を合成するための資材が足らないんだよなあ。

 さっきまでは風向きの関係で使えなかったけど今はもろに風上を取っている。

 さらに! ラプトルたちはゴーグルと布のマスクできちんと防御済み! これやるとエコーロケーションが鈍るからラプトルたちは嫌がるけど目や鼻、口をちゃんと防護しとかないと長期戦はできないからな。んじゃつぎだ。

 からからと箒のようなものをラプトルたちにひかせる。砂煙をたてて、再び視界を奪う作戦。この辺りはあまり草が生えていないから目を開けられないくらいに砂埃が舞う。

 もっともこんな真似をすればこっちも視界を遮られるけどそこはラプトルなら問題ない。例え視界が悪くてもエコーロケーションによって敵の位置は把握できる。

 騎手である蟻には石でできた、こん棒のような原始的な接近戦武器を装備させた。辺に剣を持たせるよりもいいだろ多分。うまい具合にラプトルと蟻が連携できれば蟻も攻撃に加われる……らしい。翼が言うには熟達した騎手ならそれができる……ようだ。まあそこは翼を信じよう。

 十分に視界が悪くなったところを見計らって一斉に砂塵が舞う戦場へ蟻ジャドラム式爆弾を投げる。

 爆弾と言っても鷲との戦いの時に使った水素満載した弾を蟻ジャドラムで転がしただけだけどな。殺傷能力そのものはそこまで高くない。音でビビらせるのが主目的。ただこれをあまり使いすぎるとラプトルの耳がつぶれるからこちらが近づくと使えない。

 しかしこれでヒトモドキどもの混乱は夥しくなった。視界が悪くなったということはいつ敵が来るか予想できないということ。生物が最も恐れを抱くのは次に何が起こるのかわからない未知への恐怖。先の破裂音がそれをより深くする。

 そしてそれは来た。

 砂塵すら飲み干すような鮮やかな赤。鮮血、そして悲鳴。遂に戦端は開かれた。視認できなくてももうそれは明らかだ。


「臆するな! この砂塵を抜けることに集中しろ! 敵も見えぬはずだ!」

 ヒトモドキの指揮官らしき女がそう叫ぶ。

 おやおや。どうもエコーロケーションのことをご存じないようだ。ま、もっともそう簡単には抜けさせないけどね。

 乱戦に突入しつつある前線ではこちらが戦局を圧倒していた。兵の疲労、環境、戦術。それらは寡兵である不利を覆していた。しかしそれでもすべての敵を防ぐことはできない。運よく通り抜ける敵は現れる。

 まさに神の祝福を受け取ったと確信した敬虔なるセイノス教徒は一気に走り抜け――――盛大にすっころんだ。

「ぐ……また落とし穴か!? 卑怯だぞこの悪魔め!」


「二点訂正を要求する。今回は落とし穴じゃない。有刺プラスチック強化ガラス繊維線だ! なっげえなおい! んでもって卑怯だと! こんなもん卑怯でも何でもない! そして卑怯で悪いか!」

「それじゃあ三点じゃないかな~?」

「千尋! 丁寧に突っ込まなくていい!」


 最初はまきびしみたいな持ち運び用の罠にしようかと思ったけど、意外に持ち運びにくかったのと、後で撤去するのがめんどくさそうだったので有刺線を敷き詰める方法に変更した。

 靴の中に小石が入っただけで大騒ぎするように、足の裏というのはとても繊細な感覚器官だ。それは極めて優れた脚力を持つ馬ならなおさらのこと。馬の調教師さんは馬のひづめの手入れを怠らないと聞いたことがある。数センチの破片が食い込めば全速力なんざ出せるわけがない。砂煙で目隠ししたのはこの有刺線を隠す目的もある。そして当然、こちらは有刺線の位置を完全に把握している。

 倒れた兵隊に向かって蟻たちが矢を射かける。また新たな犠牲者が増えていく。そしてもっとも厄介なことはその犠牲者が新たな障害物として立ちはだかることになること。さっきは強引に屍を踏み越えていったけど……今回もそれをできる体力は残っているかな?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る