264 奴隷と支配者

 実を言えばバッタの大発生に対してフェロモンなどの生理活性物質を用いるという研究は進んでいる。

 バッタの中には集合フェロモンなどの他の個体を引き寄せるフェロモンを発して大集団を作ることや、その逆に群れを解散させるフェロモンを出す種類がいることが知られている。つまりそう言ったフェロモンを利用すればバッタの群れをコントロールすることができるのではないかという研究だ。

 他にも神経伝達物質の一つであるセロトニンが群生相に変異させる引き金になるため、セロトニン受容体を阻害することで相変異を防ぎ、大発生を防止できる可能性があるらしい。

 もっともこれらの研究はバッタの駆除よりも群れの形成を妨げることに注力しているため根本的な解決にはならないという意見もある。事実として殺虫剤などによって一度に駆除を行えるのならばむしろ大群だった方が都合がよいのだ。これらの研究はいずれも実用段階には達していない。

 だがしかし、環境保護などの観点から殺虫剤の使用が制限されたり、何らかの事情で極めて薬剤耐性の高いバッタなどが大発生した場合、それらの研究が日の目を見ることがあるかもしれない。

 今回の作戦はこういった研究と寧々による実験から着想を得たものだ。さて、ではこの異世界の魔物であるバッタの相変異に関わる満腹フェロモンは一体何が生産しているのだろうか? 当然オレはバッタだと思っていた。

 フェロモンは基本的にに対して働きかけるものだからバッタがバッタのフェロモンを生産するのは至極当然である。そのはずだった。


「この辺の説明をする前に微生物ついて説明しておこうか」

「びせいぶつ?」

「ん。目に見えないくらい小さな生き物の総称だよ。カビとかもその一種」

「……ふむ。そういうものもあるかもしれませんね」

 少し思案気な雰囲気を醸し出したが結局のところ否定はしなかった。アンティという宗教にとって微生物は受け入れられる存在だったようだ。豚羊やヒトモドキだとこの時点でつまずくからなあ。柔軟なのはありがたい。

「そういう微生物を使ってバッタを殺そうとする実験を続けている途中でちょっと奇妙な微生物の一種である細菌を発見したんだ」

 バッタの食生活や寄生虫などから何かヒントを得るために解剖したりしている途中でたまたまバッタの体から細菌を発見してしまった。バッタの体の各所に存在しているが特に胃腸に当たる部分でよく見かける細菌だった。

「ところでその微生物とやらは何故バッタの体にいるのですか?」

「あ、それをまず説明するべきだったな。色々あるけど微生物も食べ物が欲しいんだ。ただ小さいからなかなか獲物を見つけられない。だからもっと獲物を獲れる奴の体の中にいるんだ」

 比喩表現を含んでいるけど事細かに説明している暇はない。

「ではバッタたちに利益はないのですか?」

「いいや。バッタが食べたものを微生物が食べてその結果できる物の方が食べやすかったりするんだ。お前たちの中には排泄物を食べたりする動物もいるだろ? それと一緒で何が好みかは生き物によって違うんだよ」

「なるほど勉強になります」


 人間に限らず腸内細菌などは大体こんな感じで命を繋いでいる。めちゃくちゃ複雑だけどね。普通に一兆とかの数がいるし、種類も多い。大型の動物はほぼ例外なく何らかの微生物と共生関係にある。

「話を戻すけどその細菌はな、んだよ」

「? その満腹フェロモンはバッタが作っていたのではないのですか?」

「違うんだよなあこれが。推測だけど満腹フェロモンはもともとその細菌が生産していた物質だったんだ。どうやらバッタが十分に食事をとっている場合のみ満腹フェロモンを生産するらしい。ただしその反対にバッタが食事を行っていないと空腹フェロモンとでも呼ぶべき物質を生産するみたいだ」

「空腹フェロモン……ということはもしやそれがバッタを黒く、相変異させる物質ですか」

「その通りだよティウ」

 ちなみに細菌などの微生物にもフェロモンのように他の個体と情報伝達する物質を生産するシステムは存在する。確かクオラムセンシングだったかな。環境が悪いと細菌が増えすぎたりすることを防止して、反対にその細菌にとって良い環境になると活発に活動を始めるらしい。

「面白いのはな、満腹フェロモンを放出すると細菌の活動は活発になって、逆に空腹フェロモンを放出したら細菌の活動は鈍化するんだ」

「それは……バッタと逆ですね」

 ここが今回の実験のミソ。空腹フェロモンは結果的にバッタの相変異を引き起こして移動を促し、細菌の活動を抑える。満腹フェロモンはバッタを現状維持にとどめて、細菌の活動を活性化させる。

 これらのフェロモンはバッタと細菌、両者に逆の効果を発揮する。なんて実に興味深い。


「しかしそれではまるで……」

「ん? 何?」

「まるでバッタがその細菌に支配されているようですね」

「見ようによってはそうかもな」

 卵が先か鶏が先かのような話になるけど……この細菌がもとからこういう性質を持っていて、それをバッタが利用したのか、何らかの原因で細菌がそういう性質を獲得したのか……その辺りはさっぱりわからない。

 細菌とバッタ。この二種は一見両方に得がある共利共生に見えるけどまるで支配者のように振舞っているのはむしろ細菌だ。が、しかしバッタがいなければこの細菌はたちどころに絶滅してしまうだろう。今のところこの細菌はバッタの体内以外で発見できてはいないのだから。お互いがお互いの奴隷とでも言うべきか?


「寧々の実験のおかげで色々わかったからそれを踏まえて細菌を増やしてそこから満腹フェロモンを採取してできたのがあの液体」

「しかし群生相になったバッタは空腹フェロモンを放出しているのですよね? それでも満腹フェロモンは有効なのですか?」

「んー……どうも空腹フェロモンより満腹フェロモンのほうが優先するみたいだな。群生相になる条件は他にもあって、個体同士が押し合っていたりとか、群生相になっている状態のバッタのテレパシーとかにも影響があるらしいんだけど……そういう条件を全て満たしていない限り群生相にはならないんだ。つまりバッタはどちらかというと孤独相である状態が基本だってことだな」

 孤独相のバッタを群れに放り込んだのはそういうわけだ。周囲に孤独相の個体がいるとやはり群生相からの相変異が起こりやすいみたいだ。これらの実験を短期間で成し遂げた寧々には本当に頭が上がらない。

「この方法ならいずれバッタの群れは解散するでしょうが……その後はどうなります?」

「……どこかでまた繁殖するか、中にはエサが足りなくて餓死する奴もいるかもしれないけど……生き延びて再び群れを形成するかもな。まあそのたびに満腹フェロモンをばら撒けばいいけど……」

「それはそれで手間ですね。ならば最終的には数を減らす必要があるということですね」

「あいつらがとっとと餓死してくれたらいいんだけど……どうだろうな」

「不確実な事象に期待してもしょうがないでしょう」

「だな。時間稼ぎはできているはずだから一つずつ確実に潰してくれ」

 アンティ同盟は時間さえ与えればバッタの群れを楽に殲滅できる能力はある。オレもバッタとの戦闘を見ていたけどそれを確信できる内容だった。オレたちはよくこんな奴らに勝てたな。

「それにしても楽しそうですね」

 楽しんでる? オレが? ……まあそうかもな。

「こういう研究は好きなんだよ」

 正直オレは戦争よりもこういう知らなかった事実をつまびらかにすることや何かを積み上げていくことの方が好きだ。生まれなのか育ちなのか理由はあまり考えたことがないけどね。

 意外そうではあったけど悪印象は与えてないから気にしなくてもよさそうだ。

「それもあなたの性格でしょうね。あなた方はこれからどうなさいます?」

 選択肢は二つ。鵺を倒すか遊牧民を殲滅するか。優先するべきは鵺だけど……。

「そうだな。まずはヒトモドキの遊牧民を片付ける。あっちの方が楽に倒せそうだ」

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