263 刺激し、運ぶ

 ぎらつく太陽。やや強い北東の風。あまりにも乾燥したその風は、気温にかかわらず汗が落ちる間もなく水分を奪うことだろう。

 眼下には黒々としたバッタの群れ。つまり今オレは鷲の視界を借りている。蟻の探知能力やテレパシーは空中には届かないけどマーモットのテレパシーとの合わせ技でこういうことも可能らしい。


「じゃあ手はず通りに頼む」

「は」

 援軍を依頼して借りたという体裁を整えた鷲は合計で三百人。厳しい状況の中でよくまとまった数をこっちに寄こしてくれた。

 鷲に頼んだことは簡単なことだ。袋に入った液体をばら撒く。ただそれだけ。

 鷲の魔法は空気を操作する魔法なので、霧吹きのようなものできっちり液体を噴霧してくれる。カッコウだと色々な理由で難しい。

 バッタの群れ全体に行き渡るようになるべくまんべんなく液体を浴びせる。高原に散らばった群れのすべてに同じことをする。

「じゃあ次はこいつらを運んでくれ」

 捕獲した孤独相のバッタを巨大な虫かごに入れて群生相のバッタに慎重に運び込ませる。

 ……よし。

「準備完了。お前らは待機だ」

「いえ……その……」

「こんなことに何の意味があるのかそう言いたげだな?」

「……」

 その沈黙は肯定だと思って間違いないだろう。

「まあ見てろって。きっと驚くはずだぞ? まだ時間はかかるからリラックスして待ってろよ」

 そう言いつつも内心ではものすごくビビっているんですよね……オレがな!

 理論においてはこれで間違いなく上手くいくという自信がある。しかし本当にうまくいくのかどうかは結果を見てみないとわからない。ほんのちょっとのずれがバタフライエフェクトのように大きな狂いを生じさせることがあるし、そもそもの理論が誤っていることもある。実験の結果を見るときはいつもこうだ。

 何度も何度もチェックして、穴がないかを目を皿にして見直してみて、それでも不安は消えない。それが突貫工事ならなおのこと。

 がたがた体が震えそうだ。これから数時間ずっと待たなければいけないのにこれじゃあ先が思いやられるね。


 二時間ほどたった後、マーモットの神官長ティウから連絡があった。

「こちらは全て順調です。そちらの様子はどうですか?」

「……今のところ目立った変化はない。……ただ、さっきよりもバッタの群れは落ち着いているように見える」

「それは吉兆ですか?」

 ティウの声音には押し殺した猜疑と不安が隠れている。無理もないか。オレ自身だって自信満々なわけじゃないからな。

「一応な。上手くいっているはずだ。まだ時間はかかるけど、羽が落ちれば成功だな」

 戦いにおいて忍耐力は知性よりも勇猛さよりも称賛されなければならない。今はそういう状況だった。

 はらはらしながら見守ること数時間。一匹のバッタの背中からぽとりと羽が落ちた。

「おお!」

 オレよりも先に声をあげたのはティウ。

「よっしゃあ!」

 もちろんオレも喜びを隠さない。

 それを皮切りにバッタの羽がドミノ倒しのように落ちていく。すべての群れで同じ現象が起こっていた。

 これはすなわち――――バッタの群れが群れのまま群生相から孤独相に移行したことを示している。

「一体いかなる奇跡ですかこれは!? まさか黒の悪魔が鎮まろうとは!?」

「落ち着けよティウ」

 かつてないほどティウが興奮している。こんな声が聴けるなら努力した甲斐があったというもの。バッタの群れが孤独相に移行したのはオレの祈りが届いたからでもなければ怒りが静まったわけでもなく、ましてや神の奇跡などではない。これは純粋に生物の生理機能だ。

「やはり鷲の方々が撒いていたあの液体ですか?」

「そうだよ。あの液体は満腹フェロモンだ。ま、名前を付けたのはオレだけどな」


「ふぇろもん……? それはいったい……?」

 こいつらに知識をひけらかすことにためらいはないわけじゃないけどしっかり説明しておいた方が信頼は得やすいだろう。秘密が多い奴はたいてい嫌われるしな。

「早い話が他の個体に対して何か反応を起こさせる香りのようなものだよ。お前らだって腹が減りそうな匂いとかがあるだろ?」

 フェロモンとは生物が生成して他の個体に影響を与える生理活性物質で匂いとはまた違うけど、この場合はかみ砕いた表現の方がわかりやすいだろう。

「それはありますが……」

「で、そのフェロモンはバッタの相変異、お前ら風に言うと黒くなるか緑になるかに密接に関わってるんだ」

 地球の昆虫の相変異にもフェロモンが関わっているらしいけど今回のフェロモンは結構特殊だ。

「満腹ふぇろもん……というからには食事を十分にとればそのフェロモンが出るのですか?」

「その通り。最初に気付いたことは群生相から孤独相に戻る速度に差があることだった」


 地球のバッタは生育密度などによって実験室などでも群生相に変わることが知られており、特に個体同士が物理的接触を繰り返せば群生相になりやすいらしい。

 群生相のバッタは孤独相に戻る。そのためには個室で他の個体と接触させずに生育した方がいいというのは少し考えればわかることだ。が、そうやって孤独相に戻したバッタの中に明らかに変化が早い個体がいた。

 調べていくうちにその個体がいた部屋に、比較としてとらえた孤独相のバッタがいたことがわかった。

 もちろんちゃんと掃除はしていた。実験室を清潔に保つのは初歩の初歩だ。しかし、それでも影響が出るほどに微量でも効果を発揮する物質が存在していたことになる。


「孤独相のバッタの汗や尿とかの分泌物に満腹フェロモンが含まれていてそれに群生相のバッタが反応したんだろうな。結果として満腹フェロモンを嗅いだ群生相のバッタは孤独相になった。平たく言うと臭いをかいでおとなしくなったってことか」

「ということは……緑のバッタの分泌物がバッタに撒いていた液体の正体ですか?」

 いや全く。ティウの知性には驚きだ。一を聞いて一を知る堅実な知性。

 こういうやつの方がいろんな種族を束ねやすいのかもね。ただ、その予想は少し間違っている。

「最初はそうするつもりだったけど、分泌物だと量が足りないし、満腹フェロモンは揮発しやすいから保存が難しいんだ。だからもっと効率よく満腹フェロモンを獲得できる方法を探したんだ」

 そう、面白くなるのはむしろここからだ。これだから生物学はやめられない。

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