54 我思われるだけでは我無し

 夜を歩く。蟻達に囲まれながら歩く。

 夜道を歩いているとふと幼少の頃を思い出す。正確には暗がりの恐怖を思い出す。小さかった頃は本当に誰もいない暗い道を心から恐れていた。昔から怖がりだったな、オレは。だがこの森の暗さは訳が違う。

 現代文明に慣れ切ったオレからすると恐ろしいほど暗い。岩に、木に、影がのっぺりと張り付いているようだ。夜目の利く蟻でさえこう感じるのだから街灯の明かりがどれほど偉大か改めて認識する。

 幸運にも全く魔物には出会わなかった。多分ラーテルの咆哮に誰もかれもビビっているのだろう。もちろんオレもビビってる。でもこの機会を逃せば安全に二番目の巣に移動できる機会はない。

 夜は深く、道は険しく。ただ歩く行為ですら彼の心を疲弊させていく。未だ道半ばである。






 森に入ってほどなくしてアグルたち村人は陣を敷いた。

 おおよその進路は熊の破壊跡を見ればわかる。さらに篝火をあえて焚くことで<熊>の注意を引くつもりだった。ほどなく重い地響きが近づいてくるのを感じた。

「遂に来たか」

 そう呟いたアグルも数時間前に全く同じセリフを呟いた蟻がいたとは思わなかっただろう。

 鈍い足音はよく響き、大きすぎる巨体は月明かりに濃い影を落とした。

「この村を守るぞ! 神よ、救世主よ、我らを守り給え。構えろ!」

 村人たちは一斉に手のひらから神秘を作り出す。できる限り力を溜め、近くから撃った方が<光弾>は威力を増すため、限界まで敵を引きつけなくてはならない。人間のは熊の魔法では防げないが、熊の毛皮と皮膚は並大抵の攻撃では傷一つつかない。

「まだ撃つな!」

 アグルは逸る村人を制止する。だが今までゆっくりとした動きだったラーテルが突然疾走を開始した。

 誰かが雄たけびを上げながら白い弾を放った。恐怖のあまり有効射程距離に入る前に撃ってしまった。熊の威容を目にして失神しなかっただけでもほめるべきだろう。……むしろアグルとしてはそちらの方がありがたかったかもしれないが。

(チッ、グモーヴがあればな)

 グモーヴには誰をも勇敢な戦士に変える力を持つためこれほどの強敵に戦うには必須といってもいいが、田舎村にはほとんど貯えがなかった。

 誰かが撃ってしまうともう止まらなかった。散発的な射撃を繰り返してしまうが、火力とは集中してこそ意味がある。特に熊のように防御力の高い敵には統制されていない攻撃では意味がない。もっともたった二百人ではどうあがいても熊には通じなかっただろう。

 少人数で熊を倒せるとしたら、接近して<光剣>で斬りつけるしかない。熊に接近して攻撃する人間たちを決死隊と呼び本来ならそれに参加した者は俸給と名誉が与えられる。しかしそれらのほとんどは遺族に与えられることになる。

 そして今回の決死隊を指揮するのはもちろんサリだ。決死隊に自ら志願した彼女の覚悟と、前村長の娘である点を考慮すれば当然だろう。決死隊は皆口に布を含み、言葉を発せないようにしている。木の陰に身を潜めており、熊が通り過ぎる一瞬に斬りかかる作戦だ。


 不運だったのは、それと同じような作戦をすでに<熊>が知っていたこと、さらに篝火……火という自分自身に傷をつけた武器が熊の警戒心をいっそう高めてしまったことだ。


 ラーテルは突然立ち止まると、地面から砂を掬い人間たちへと降り注がせた。どんな豪雨よりも重く激しい砂と岩が村人たちを襲った。………それだけで大勢は決した。予想外の事態に村人たちは混乱し、隊列を乱し、隠れ場所から飛び出した。もはや惨劇を止める方法などなかった。村人は散り散りになり、ある者は叫びながら逃亡し、ある者は神への祈りを口にしながら食い殺された。勇敢だった村人の末路など語るまでもない。

 これが当然。これが自然。この村人より少ない人数でラーテルに傷をつけた彼の方が異常なのだ。

 そして熊の怒りは未だ収まってはいない。次に向かうのはトゥーハ村である。




 静けさが満ちる森でサリは茫然と立ち尽くしていた。彼女は決して騒がず、焦らず、冷静に息を殺し、熊が立ち去るのを待っていた。彼女と同じ判断ができた村人は一人しかいなかったことは彼女にとって幸運だっただろう。隠れている獲物が多数いると知れば、熊はもっと執念深く辺りを探し回ったはずだ。

 彼女の才能と一度でも熊から逃げ延びた経験は如何なく発揮された。生き延びた人間は半数にも満たないはずだ。

 しかしながら、生き残った村人を探し回ってしまったのは生き延びるためには悪手だった。罪悪感が彼女の判断力を鈍らせてしまったのかもしれない。

「誰か。無事な人はいないか?」

「………サリね? 何人か他にも無事な奴を見つけたわ」

 ボロボロになった村人たち数人が現れた。その精神は肉体以上に切り裂かれていたに違いない。皆一様に生気を失っていた。

 やがて、ぽつり、ぽつりと村人は増えていった。大勢でいた方が安心できるのか、それとも人がいたから寄っていっただけなのか。いずれにせよ,人は群れる生き物なのだろう。

 誰もが口を閉ざし、俯いていた。これからどうするべきなのか、話し合うことすらできない。もう一度戦っても結果は目に見えている。かと言って村を見捨てて逃げることはセイノス教徒として許されざる背信行為だった。

 やがて暗がりから一人の男、アグルが姿を現した。

「みんな……無事か?」

「アグルさん……その怪我……」

 アグルの右足は血に染まっていた。放置しておけば絶命するほどの大怪我だ。

「俺のことはいい。それよりもあの熊を追わなければ」

 一歩前へ踏み出そうとするが力が入らずにつんのめった。

「無理だ。奴に勝てるはずがない」

 慌てて駆け寄った村人も悲観的な声しか出すことができない。

「勝てるかどうかが問題じゃない。俺は兄さんが愛したあの村を守らなければならないんだ」

 歯を食いしばり、痛みに耐えながらも前へ進もうとするアグル。かつて北の悪鬼と戦った聖人イリシャイでさえも瞠目するだろう勇ましい信徒の姿である。今のアグルは熊を止めるためならばおのれの身を投げ出すことさえ躊躇うまい。そんな悪夢を防ぐには誰かが熊を倒すしかないだろう。だが、誰が?

 知らず知らず村人の視線がサリに集中する。サリはそれに気づくと滑らかに言葉を紡ぎだした。

「アグルさん。貴方はここで休んでください」

「しかし……」

「熊は私たちが必ず食い止めます。貴方から勇気をもらいました。だから決してくじけません」

「………わかった。俺も治療がすみ次第すぐに追いかける」

 時として善良で朴訥な人間は往々にして自分の意思を他人に預けがちだ。空気を読めるため、自分の都合より他人の都合を優先してしまう。だが彼らは危機が迫った時誰かから指示をもらうことに慣れ切っていた。セイノス教徒の典型的性質なのかもしれない。

 故に誰か指示を出す人間を求める。そして他人から期待されることに希望を見てしまう物もまた自分の意思を確固として持たない人間だと言える。

 この場合サリがそうだ。彼女を他人の期待に応えようとする献身的な女性とみるか、おだてられやすい若者とみるかで大きく評価が異なるだろう。


 もちろん、それらの心情を熟知し、意のままに操る人間も存在する。才能なのか経験なのか、村人たちの行動は彼の思うままだったと言っていい。

 この場に誰もいないことを確認してから独白する。

「まったくもっておめでたい連中だ」

 懐から袋を投げ捨てる。彼の足を濡らしていた血は彼の流した血ではない。予めたちから抜き取った血だ。怪我をしていると見せかけるために用意したのだ。

 アグルの建てた作戦はこうだ。一度熊と交戦し、決死隊が全滅したところで一度後退する。そこでわざと負傷したふりをして、自分は離脱する。……流石に後退する暇さえなかったのは予想外だったが、初めて見る熊にも我を忘れずじっと息を潜めたのは大した胆力だ。

「これで熊と戦った名誉は得た。できれば俺の勇姿を語る奴がいた方がいいが……一人くらいは生き残るか。後は銀髪を見つけないとな」

 隠してある馬へと向かう。万事において彼に抜かりはない。だが彼にも全く予期できなかった事態が進行していた。

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